『絶滅へようこそ』あとがきのつづき 稲垣諭
先日、出版されました『絶滅へようこそ』には書ききれずに、削ってしまった本書執筆の動機があります。どこかで発表したいなと思っていたところ、晶文社さんから説明する機会をいただけることになり、ここに記させていただきます。
本書は、テーマ設定といい、内容といい暗めの本で、現在のウクライナでの戦争とも確実に通底する問題を扱っています。絶望的に困難なことが溢れる世の中で、それでも人間を信じてみることができれば、明日への一歩を踏み出し、生き延びられるのではないかを考えていました。
もともと僕は、現代哲学のなかのドイツ現象学の創始者、エトムント・フッサール(1859–1938)というユダヤ人哲学者を研究していました(今もしています)。同じくドイツの現象学者のハイデガーは有名ですが、フッサールについては知らない人が多いかもしれません。後にハイデガーとは決別することになるのですが、フッサールは彼の師匠でもありました。
そのフッサールは、亡くなる直前に「ヨーロッパ(の学問)の終わり」に関する最後の著書を書き残しています。正式名称は『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』といいます。タイトルが長いので、研究者仲間では『危機』書という略称・愛称が用いられています。
この本を大学4年生(もしかしたら、留年したので5年生かもですが)のときに偶然、神田の古本屋で手にしたのが、僕がフッサールの現象学に出会った最初のきっかけでした。難しいながらも、時間をかけて読み込んでいくうちに、漠然といつか自分も、これに似た本を書きたいなと思うようになりました(今も読み続けています……)。
その思いがさらに強くなったのは、もう15年以上前、僕が大学院生だった頃でしょうか。当時は、博士論文執筆のために、フッサールの遺稿や手紙を大量に読み漁っていました。
現代哲学のひとつである現象学は「主体性」の哲学といわれます。
主体性の「体験」から世界が現れてくる、その現れの構造を見抜くと同時に、その主体の発生や変容をターゲットとする哲学でもあります。
当時、僕は自分の博士論文『衝動の現象学』(知泉書館、2007)の最終章を執筆していたのですが、そこでは世界と向かい合い、そこに居合わせる主体の生と死の問題、さらにそこに生じてくる「目的論的な歴史の理念」が問われていました。この世界がヨーロッパ化することはすでに決まっているのかという問題でもあります。
そうしたフッサールの晩年の思考をどうにか跡づけようと悪戦苦闘しているとき、以下のような内容の草稿に出会いました。少し難しいですが、引用します。
世界と人格を逝くにまかせること、一切の意識の終わり……、とても暗いですね。この草稿は、1934年6月16日、フッサールが亡くなる4年前に書かれたものです。
その前年、1933年の1月には、反ユダヤ主義を掲げるナチスのヒトラーがドイツの首相となり、その4月には、フライブルク大学にフッサールの後任として就任していた弟子のハイデガーが、ナチスの支持を受けて大学総長に選任されます(ハイデガーの暗い時代でもあります)。
この時期よりも前、フッサール本人は、純粋なユダヤ人教育など受けてはおらず、自分がユダヤ人であることを何十年もの間、忘れていたと述べています。ドイツ人の精神性だけを心から愛していたと。
にもかかわらず、これ以降、フッサールは、ユダヤ人哲学者ということで、教授資格が剥奪され、大学構内への立入が禁止、国内での全著作の発禁、海外の国際哲学会議への参加不許可など、研究活動が厳しく制限されていきます。
もとより老齢でもあるこの時期、彼は部屋にこもって止めどなく草稿を整理し、思考を書き連ねていました。ハイデガーとの確執が埋まることもついにありませんでした。
先の草稿に先立つ1933年の10月には、一年ほど手紙を書かずに沈黙してきたフッサールが、34歳も年齢の離れた弟子のインガルデンに向けて、ハイデガーの大学総長就任の件と、ドイツの大学について以下のように書き記しています(以下、書簡は『フッサール書簡集1915-1938 フッサールからインガルデンへ』桑野耕三・佐藤真理人訳、せりか書房、1982より引用)。
と、一年間の沈黙が何であったのか詳細は語らず、それでも元気に仕事ができていると(強がってなのか)フッサールは書いています。というのも、その手紙の末尾で、インガルデンに、こうも記しているからです。
と。
検閲を恐れてなのか、目を背けたい政治的現実よりも、愛弟子の近況を、その声を聞かせてほしいと懇願する様子に、フッサールの当時の心情が垣間見える気がします。
「世界を逝かせる」という先の草稿が書かれたのと同時期、1934年6月30日には、ナチスによる反対派の粛清が行われ始めます(長いナイフの夜事件)。こうした不穏な雰囲気が蔓延するなかで、フッサールは現象学的な哲学の考察を、自分という経験的な主体ではなく、この世界全体を構成する(と想定された)超越論的な主体が終わる(死ぬ)こととして考えようとしていました。すでに1930年の夏に書かれた草稿でも、以下のような考察を行っています。
未来の世界を存在させるはずの全ての主体が消滅してしまうとき、その終わりは何を意味しているのか、フッサールは、ひとり書斎に籠ってこんな問いに向き合っていました。あるいは、向き合わざるをえない時代の不穏さがあったからなのかもしれません。
1930年代、老齢になったフッサールは、学問的にも個人的にも「孤独」になり、「真の共同研究者」や「理解者」が、ただのひとりも現れないと悲嘆にくれ、何度も弱音を吐いています。6週間以上もつづく「鬱状態」も経験し、自分の能力の限界を呪ってもいました(どうも多くの哲学者は、晩年になると誰にも理解されないと嘆く傾向があるようですが……)。
しかしそれでも、フッサールにとっては哲学的思考の日々のルーチンに沈潜し、思考を研ぎ澄ましていくことが、唯一の幸福であったのもたしかです。
研ぎ澄まされた思考の中で、たとえ一時的なものであれ、煌めくような幸福をフッサールは感じていたようです。それが単なる、哲学的思考への逃避ではなかったことは、このような暗い時代を生き抜いたフッサールが、76歳にして「ヨーロッパ的学問」が危機に陥り、「ヨーロッパ的人間性」が、このままでは終わりを迎えると真剣に受け止め、それを世界に訴えるようになったことからも分かります(その裏で、落ち込み、病気がちなフッサールを必死に支え続け、手紙の代筆も行っていたパートナーのマルヴィーネさんの献身も忘れてはいけません)。
1934年11月末、「世界を逝くにまかせる」という草稿執筆から半年後、「二週間」で書きなぐったとされる、「わたしたちの目的理念の起源を歴史的に解釈する企て」のアイデアがフッサールを深く捉えます。
ヨーロッパ的人間が、人類の歴史の中で何を成し遂げたのか、それにもかかわらず、なぜこんな悲惨な出来事を引き起こすに至ったのか、それを明らかにする手がかりを得たのです。
これが、翌年のウィーンでの講演「ヨーロッパ的人間性の危機と哲学」(1935年5月)として公にされることになります(『30年代の危機と哲学』(平凡社ライブラリー)に所収)。本当にこんな時期に、よく公的に許可されたものだなと思います。この辺りの細かな事情には不明な点も残るのですが、それでもフッサールは、これを喜び、自分がユダヤ人のなかでも特別な存在だからだと(いささか反ユダヤ的に)自己賞賛してもいます。
そしてこの講演内容が、最後の著書であり、遺作となった『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』へと、死ぬ間際の数年をかけて結実していくことになります。
ただし、内容がとても難解だから、読者が「12人」もいれば上々だろうとフッサールは自嘲してもいました。こうした自己評価の低さもフッサールには同居しています。
また、このウィーンでの講演後、フッサールの死の二年前の1936年になりますが、「一における全は生であり、世界は、生まれ、死にゆく植物や動物、人間といった形式における生の自己客観化のことである。生は死なない」(Husserliana, XXIX, S.334)と書いてもいます。生それ自体は死なないのだと。
この内容から、「超越論的な生の不死性」をフッサールが信じようとしていたとも解釈できますが、この「生」が彼にとって実際のところ何を意味していたのかは、今でもよく分かりません。
にもかかわらず、絶望のなかにある幸福がどのようなものだったのか、世界を逝くにまかせること、全人類を逝くにまかせることを問い詰めるなかで、フッサールがどんな夢を見ていたのか、それが希望なのか、願いなのか、いまだに僕の思考を刺激しつづけています。
少し長くなりましたが、上記のようなフッサールの思索をめぐる変遷が、本書の最初のアイデアの芽でした。ヨーロッパの危機に対峙する哲学とは、主体とは、どのような存在なのか。そこから、「終わり」と「絶滅」をめぐって様々な調べ物をしていくうちに成り立ったのが本書です。
本書が上梓されたからといって、人間が、人間性と世界が、今後どうなっていくのか、簡単に答えが出るものではないのはたしかです。現代は、経済格差や排外的な社会動向に由来する不穏さがあることから、フッサールの生きた1930年代と似ているともいわれます。ロシアのウクライナへの侵攻が、まさにそれに重なるようにも見えます。
そんな中でも本書から、読者の方が、人間の可能性と不可能性に関して、どのようなことを感じ取ってくれるのか、著者としてはとても楽しみでもあります。