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対話4-B 自分ばっかり見ていないで相手のことをよく見てください(石田月美)

二村ヒトシさま

二村さん、本当にありがとうございます。どんどん「心の穴」の解像度も上がり、また「心の穴」のロジックが進化を遂げているように感じています。それを間近で目撃することが出来、嬉しくもありスリリングでもあります。アップデートされた「心の穴」はどこに辿り着くのか、今から楽しみです。

今回の書簡で二村さんから頂いたご質問は「かつてあった愛嬌を失った男は、女性から愛してもらうために、どうやって相手の女性に愛を伝えれば良いのでしょうか」でした。

せっかく主語を小さくしてもらいましたが、私は「(シスジェンダーでヘテロセクシャルな)男性が、女性から愛してもらうために、どうやって相手の女性に愛を伝えれば良いのか」について、考えさせて頂きたいです。なぜなら、恋愛関係を求める多くの男性に当てはまるよう論を進めたいからです。

暴力的な振る舞いはダメ

まず避けなければならないのは暴力的な振る舞いでしょう。第2回目の書簡で、DV加害者への教育プログラムにある、暴力とは何か、の図を引用しましたが、もう一度載せておきます。依存症の治療には「ハームリダクション」という方法論があります。全てを禁ずるのではなく、致命的なものを避けていくという考え方です。暴力を広義の意味で捉えれば、人と人とが出会う時に「暴力」というのは避けて通れないかと思います。「臨場性は『暴力』である」とは斎藤環先生のご論考ですが、この場合の「暴力」とは哲学的な文脈である「他者に対する力の行使」です。私はそのことを鑑みて、広義と狭義の「暴力」を分けて考えたいと思っています。ですから、狭義の暴力を避け、そこからはある程度の勇気と配慮を持って接していくのが望ましいのではないでしょうか。

エレン・ペンス、マイケル・ペイマー『暴力男性の教育プログラムーードゥルース・モデル』波田あい子監訳、誠信書房、2004より

恋愛とは「承認への欲望」と「親密さへの欲望」である

そして「女性から愛してもらうために、という考え方自体がダメなんでしょうか」というご質問もありましたが、たとえ「ダメだ」としても、致し方ないと思います。好きな相手に好かれたい。その欲望を持ってはいけないと言われようが、私自身を振り返っても到底無理です。

私は恋愛というのはやはり「欲望」なのだと考えています。その欲望は大まかに「承認への欲望」「親密さへの欲望」に分けられるでしょう。そして、恋愛関係を持つというのはそれらの欲望を満たし、相手にとって自分がトクベツになることですから、人が惹きつけられるのも当然だと思います。しかし、忘れてはならないのは恋愛とは「他者」が存在するという圧倒的な事実です。このことが多くの恋愛論において、抜け落ちていたり、軽視されているのではないかと危惧しています。

自分への承認を求める前に、相手を承認すること

二村さんは「結局のところ、相手が何を欲しがっているのかをしっかり聴き、ちゃんと考えるしかないようにも今のところ思うのですが…。」とお書きになってくださいました。確かにその通りだと思います。しかしそれらのアドバイスは一歩間違えると、「相手の話を聴いてあげている自分」「相手のことを考えてあげている自分」というものに陥りやすくなります。また、二村さんもご著書やこの往復書簡で言及なさっている通り、相手の心の穴などを考え始めたら大きなお世話でしょう。

私は「恋愛というのは承認への欲望だ」と申しましたが、その欲望を満たすには、自分を承認してもらう前に、相手への承認が必要だと考えています。そのためには相手をよく見ることです。見極めろというのではありません。関係性において、自分ではなく相手を見るのです。二村さんが「さもしい」とお感じになった「モテ」ですが、きっとそのさもしさには「自分が自分のことしか見ていない」ことについての関係性の貧弱さが表れているのではないでしょうか。つまり、「相手に愛されている自分」「モテている自分」しか見えていないのです。まるで相手との間に鏡を挟んでいるようで、結局自分自身しか見ていない。それはいくら大勢の相手と恋愛関係を持つことが出来ても、ひたすらに虚しいのだと思います。


自分自身しか見ていないことは、いくらおべんちゃらを並べようと、結局相手に伝わります。最初は「私の話を聞いてくれる!」と相手の女性は喜ぶかもしれません。しかし時が経つにつれ「この人は話を聞く自分に酔っているだけだ」とバレます。すると相手の女性は離れて行きます。それでも当該の男性が自分しか見ていなければ「俺は用済みになったんだ」とか「人は好きになった相手をいつか憎むようになる」といった被害妄想を膨らませるだけです。そこには何の成熟もありません。自分自分という無間地獄に陥っているだけで、相手との関係を築けてはいないからです。

自己肯定感なんてインチキな言葉

私は「相手を愛する前に自分を愛そう」という巷に流布する言説に反対の立場です。自分を愛せないから他者を愛することなんて、よくあります。そして、他者を愛することによって自分が人間的成熟を遂げ、自分自身のことも「思ったより良いやつじゃん」なんて思えたりする。このようなケースの方がむしろ多いのではないかと思います。

二村さんはよく「インチキ自己肯定」という言葉をお使いになりますが、私は「自己肯定感」などというのは、ほとんどインチキな言葉だとも思っています。なぜなら、自分のことは自分で肯定しろというのは、自己責任的な考え方に基づくからです。人は社会や他者との接点なしに自分自身を肯定することなど出来ません。自尊感情というのは社会参加や他者との関係性によって育まれるものです。他者から肯定してもらうことによって、肯定的な状況に身を置くことによって、人は自分を好きになれるのです。自分だけで自分を好きになるのは、ある意味特殊な才能と環境に恵まれなければ無理だと思います。

私はこの往復書簡の連載前半で「心の穴」の問題点を指摘させて頂きました。そして、その問題点とそれが及ぼす二村さんの本意ではない使われ方について、一緒に確認してきたつもりです。しかしこれからの書簡はもっと、二村さんのお伝えになりたい恋愛論が明確に、有効なものとなるように、ブラッシュアップするお手伝いをさせていただけたらと思っています。

今回の私からの書簡がそのようなものになっていれば良いのですが。どうぞ、これからも「二村ヒトシの新しい恋愛論」について、一緒に考えさせてください。よろしくお願い致します。

石田月美