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対話2-A 二村さん、ますますわかりません!(石田月美)

二村ヒトシさま

二村さん、丁寧なお返事をありがとうございます。
ご自身の心の穴の話までして頂き、二村ヒトシの歴史を垣間見ることが出来たようで嬉しかったです。そして、多くの読者に長年愛され続けているのも当然だと思いました。

しかし、「心の穴とは一体何か」という疑問はますます深まったというのが正直なところです。

二村さんの丁寧なご説明に私の読解力が追いついていないのかもしれません。私はあまり広い概念を理解するのが得意ではないのかもしれません。

二村さんのご説明によると、「心の穴」とは「本能の壊れ」「欲望や人間の感情という底が抜けたバケツ」「魅力の源」など、広範囲に及ぶ概念の総称のようです。広範囲に及ぶ概念ですから、その表出の仕方も様々なものになるのでしょう。そしてそれは、幼児のころから思春期にかけての生育歴に由来するとのことでした。

二村さんは「比喩としてよく使われる表現であり、僕が最初ではない」と謙遜なさいますが、やはりそのような広範囲に及ぶ概念を「名づけ」たのは、二村さんのご発明のように見受けられます。

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二村ヒトシ著『すべてはモテるためである』2012、『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』2014、ともに文庫ぎんが堂

ですが、こんなにも丁寧に説明して頂いたのに、私の違和感はどうしても拭えません。おこがましいのは重々承知の上で、疑問を投げかけさせてください。

まず、そのような広過ぎる概念を「心の穴」という言葉で説明すると、何でもかんでも「心の穴」ということになりはしないでしょうか。つまり、万能過ぎるマジックワードとして「心の穴」が存在してしまい、わかったような気にはなるけれど実際よくわからないといったことは起こり得ないでしょうか。

それは「心の穴」という言葉の汎用性の高さ故であり、二村さんに責任はありません。けれども、これからもお使いになられるのなら今一度、明確な定義をなさった方が有用な気がします。差し出がましく申し訳ありません。ただ、万能過ぎて無用になってしまうには、あまりにも惜しい言葉であると思います。

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更に申し上げると、「心の穴」という名づけによって、そのような精神の欠落が実態化してしまう恐れがあるかとも思います。「自分には『心の穴』があるのだ」と考えることにより、多くの困りごとを自己責任のように感じてしまう方もいらっしゃるのではないでしょうか。

「それは君の『心の穴』だよ」と言われて「そうか、私の精神は風通しが良いな〜」とお感じになる方は少ないでしょう。自分を知るということはとても大切だと私も思いますが、それは今現在接している他者との関係や環境と切り離しては考えられません。自分の心の穴ばかりを見つめて孤立してしまう恐れもあります。そして、それはご本人の人生を豊かにする営みだと私には思えません。

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確かに、常時接続の時代、SNS旺盛の昨今において、人が孤独に耐えて自分自身の頭で考えることは重要です。ですが「心の穴」という言葉は、誰がためにあるのでしょう

今現在、苦しい状況下にある人に「それは君の心の穴であり、苦しいかもしれないけれど、その穴から君の魅力も湧き出ているのだ」と言うのは、あまりに残酷ではないでしょうか。言われた側はなす術もなく、納得させられてしまうように感じます。

ご著書の『なぜあなたは愛してくれない人を好きになるのか』というタイトルのように「愛してくれない人を好きに」なっている人に向けて仰っているとしたら、それは「心の穴」という名づけによって、その人にあたかも精神の欠落が実態としてあるように錯覚させます。そして、「そこから魅力も湧き出ている」と仰るのは、私には「侵入」の言葉のように聞こえてしまいます。つまり、恋愛で傷ついている人に付け入るために使われる、もしくは傷つけた人が自分を正当化させるために使われてしまう気がします。

精神の欠落を実態化させて、そこに美辞麗句で侵入を計り得る言葉とは、誰がためにあるのでしょう。私はそのようなことを考えてしまい胸が痛みます。こう考えること自体が、私の心の穴なのでしょうか。

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また、万能過ぎる「心の穴」という概念は、全てを心の内の問題として帰結させます。それは心の外の問題を見えなくさせます。例えば、暴力を受けている方に適用させると、それは「暴力を振るわせるあなたの心の問題」「暴力を振るうような人と付き合ってしまうあなたの心の問題」ということになります。その方が幼少期に暴力を受けていれば、なおのこと「心の穴」のロジックは強固に効いてくるでしょう。

しかし、私はそのロジックに与しません。まず、暴力を振るう方が悪いのです。そのことはハッキリさせなくてはならないと考えています。私は具体的に起こっている問題を、「心」のようなある種高尚に見える抽象的な問題に包括することは危険だとも思っています。そこにある権力の非対称性、逃れられない環境、支配/被支配の関係、金銭の問題、などを見えなくさせるからです。「すべての恋愛は『暴力』ではないか」などの広義の「暴力」のお話は、もう少し先にさせて頂ければ幸いです。ここで議論の俎上にあげたいのは、DVに代表されるような「暴力」です。下記の図は、DV加害者更生プログラムに使用されているものです。DV加害者に「まず暴力とは何か」を示す際に使われるので、ご参考までに載せておきます。

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エレン・ペンス、マイケル・ペイマー『暴力男性の教育プログラムーードゥルース・モデル』波田あい子監訳、誠信書房、2004より

親子関係の話も沢山述べて頂きましたが、完璧な親というものは存在しません。二村さんが仰るように、親にも何かしら欠落(や過剰など)があると私も考えます。しかし、恋愛は基本的に、親子関係の再演か、得られなかったもののやり直し、だというのは、あまりにも短絡的な因果論ではないでしょうか。完璧な親子関係というものが存在しないからこそ、「そう言われれば、そんな気が」してしまう恐れも感じます。

そして最後に、二村さんは「幸せな恋愛をするためには(〜)まず自分の心の穴のかたちをしり、なぜそんなかたちの穴があいたのかを思い出すべき」と書いてくださいましたが、それは具体的にはどのようなことなのでしょう。ご著書にある「自己受容」というのが、それに当たるのでしょうか。

私は前回の書簡で「非日常の連続を生き延びるための処方箋に」この往復書簡がなることを祈っていると書きました。抽象的な物言いは、何となく“良いこと”を言っているように見えるのが厄介です。読んだその瞬間は「なるほど」と啓発された気になるのですが、毎日を生きていく上で実践的ではないことが多いからです。二村さんが追伸で拙著を褒めてくださり、誠に光栄です。二村さんは「自分に向けて」と仰いましたが、私も同じことを望んでおります。

無礼で不躾な物言いの数々、本当に申し訳ありません。ですが、私は二村さんをただ批判したいわけではありません。「心の穴」というのはご著書が刊行されてから20年以上経つ今なお支持されている言葉です。そうであるなら、今こそ「心の穴」の問題点を見つめ、位置付け直す時に来ているのではないでしょうか。さすれば、2022年の現在でも有用な概念になり得ると私は信じております。

大変失礼な書簡を送ってしまいましたが、お返事がいただけますことを切に願っております。何卒、よろしくお願いいたします。

石田月美