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対話1-B 二村ヒトシから石田月美へ――モテとか欲望っていうのはさ……(二村ヒトシ)

石田月美さま

こんにちは。

月美さんが僕の姿を初めて眺めたときのことを書いてくださったのを読んで、精神病院の患者さんたちにむかってもっともらしく愛だの穴だの流暢に述べている自分を「いかがわしいな」と思ったのですが、しかし世間の人がAV監督に対して感じるいかがわしさと、通俗心理学や幸せの話で人の心を掴む者に対して掴まれてない人が感じるいかがわしさとは、またジャンルちがいのいかがわしさであるか。いかがわしくないとされてる仕事の人が「私はいかがわしくないですよ」って言いながら困っている人の心を救おうとするのはいかがわしいが、いかがわしいとされている僕のような仕事の人間が別ジャンルでいかがわしいのはマイナスとマイナスをかけていていかがわしくないのでは?(そんなテキトウな理屈があるだろうか?)

僕がAV監督をやっているのは、世間からいかがわしいと思われる人になりたかったからです。それは、それなりに恵まれて育ちながら鬱屈もしていた子供時代への復讐であったなどと言うとこれはかっこよすぎてダサいので、まあ「ちゃんとした大人になりたくなく、なるべくちゃんとしてない大人になりたかった」くらいのことです。それとセックスとモテに執着していたので。執着しすぎてたからAV監督になれたので、執着しすぎてなかったら僕は要領はいいほうですからきっと広告代理店とかテレビ局とかにちゃんと就職していてそこそこ権力をえ、今ごろは純粋にセックスやモテを味わうためではなく権力を味わうためのようなセクハラをして時節がら告発され破滅していたにちがいないとも思えます。いかがわしさが身を助けたのかもしれない。

AV男優にもAV監督にもAV女優のマネージャーにも、いかがわしくない人物といかがわしい人物がそれぞれいます。セックス関係のことでお金を稼いでいるため世間からは「いかがわしい」と言われながらも、ずるいことはあまりせず、しかも人の心や愛についても特に何も語らず、モテようともせず、ただ粛々とセックス関係のことでお金を稼ぐ、さわやかな人たちが「いかがわしくないセックス業界人」です。そういう人になりたい人生だった。と思ったりすることもあるのですが……、いや、でもそれ本当に俺はそう思ってんの? 自分がなれなかったタイプの人を見て一瞬「ああなりたかったかも」と思ってしまうのは真剣な後悔ではなく、たんなる僕の自己肯定感のなさのなせるわざかもしれません。

いかがわしいAV業界人は、僕がAV監督なのに恋愛についての本を書いたりもしていると知ると「いかがわしいですね」とせせら笑うか「うらやましいですね。お金が儲かるでしょう」と真顔で言う人はまだいいが、口では「すごいですね」と言いながら顔には「いかがわしい野郎だね」と書いてあったりする人も中にはいまして腹が立つ、だが実際ぶっとばすわけにもいかないので気持ちの上でぶっとばしたいという動機で仕事をつづけている部分があります。いかがわしく思われたいのか、いかがわしくなく思われたいのか。

以上のような矛盾や面倒くささは、さしあたって僕の心の穴だと思えてきました。

わかったようなわからないような話なので話を変えます。言われてみれば、どうして僕は「心の穴」という言葉を使い始めたんでしょうね。

すべての人間の心には穴があいていると考えることで、なぜ人間が恋愛で(恋愛だけじゃなく友達や肉親との関係とか、仕事をしていく上でのことでも)こじらせてしまったり不合理で馬鹿げたことや本人が苦しいようなことを「つい」やってしまうのか、あの人はなぜあんなにえらそうなのか、あの人はなぜあんなにつらそうなのか、あの人はなぜ他人を支配しようとするのか、なぜ本当は嫌なのに相手に支配されてしまうのか、なぜ自己肯定感が持てないのか、なぜ恋愛やセックスが「できる人」と「できない人」と「できるのに、したくない人」がいるのか、なぜ「人生がうまくいかない人」や「せっかくうまくいっていたのに途中で自ら望んだようにしか見えないかたちで破滅する人」がいるのか、みたいなことをうまく説明できるような気がしたのでしょう。

「人間は本能が壊れた動物だ」という考えが、ずいぶん昔に読んだ、岸田秀という人がフロイトの精神分析について説明した本に書いてあったように思います。人間は全員、心に穴があるってことにしようって僕が思いついた元ネタはこれでしょうね。本能≒心の本来の機能で、その一人一人の壊れかた=個々人の穴のかたち≒性格や感受性の個性。

動物に人間のような心があるのかどうかは議論の分かれるところなんでしょうが、すくなくともペットではない野生動物は本能で行動しているのでしょう。その行動を邪魔されたときに初めて、怒りなどの原始的な感情が自然に湧くんじゃないでしょうか。

ところが人間の感情のスイッチの入りかたは、もうちょっと不自然です。それほど怒る必要がない場面で怒るほどじゃない言葉に対しても怒ってしまったりする。さらに人間は「もっとモテたい」とか「もっとお金が欲しい」とか「もっと愛されたい」とか「もっともっと尊敬されたい」などの欲望につき動かされてしまうことがある。人と自分を比べて苦しんでしまうことも。

「もっとモテたい」とか「インターネット上でつねに怒っている」とかは、本能じゃないですよね。欲望に忠実すぎる人を馬鹿にしたり畏れたりするとき「あいつは本能のおもむくままだな」なんて言いますが、それがもし本能だったら自分の体にとって必要なだけ求めて(つまり「分を知る」ということができて)充分になったらそれ以上は求めないでしょう。ですが本能とちがって「欲望」や「人間の感情」というバケツはときに底が抜けます。底のないバケツが、すなわち心(≒本能)にあいた穴だと思うのです。

心に穴が、というのはよく聞く表現です。月美さんは「二村の発明」と書かれましたが、失恋で私の心にはポッカリ穴があきました、と隠喩として心の穴って言葉を使った人、まるで心に穴があいているような虚しさを感じると直喩した人は、あたりまえですが僕が最初ではない。僕が『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』という本の中で書いたのは「さみしい人や生きづらい人の心にだけ穴があいているのではなく、あらゆる人間の心に穴(なんらかの欠落)があって、個々人は無意識にその自分の穴にコントロールされている」ってことでしたが、そういう意味のことを言ったのも僕が最初じゃないでしょう。

人は恋人とか生きがいになっていた仕事とかを失ったそのときに、よく「心に穴があいた」と表現するわけですが、そこで感じた穴はじつは前からあいていて、楽しく恋愛や仕事をしていたときは埋まってる(ような気がしている)から穴の存在に気をとられなくてすんでいただけなんじゃないか。

本能に欠落があるのが人間だから、かならず人間は「さみしい」。そもそも最初からさみしいわけで、だから穴を埋めようとして人間は動物がやらないいろいろなことをする。なにか目標のある勉強だったり、やりがいのある仕事だったり、たのしい趣味だったり仕事だったり、たんなる発情ではない恋だったり、夢中になれるセックスだったりギャンブルだったり麻薬だったり。やりがいがない仕事や楽しくない仕事だったら穴は埋まったような気がしませんから、生活していくための仕事だけをして誰からも感謝されなかったら、さみしいままです。

なぜ、さみしさを埋めるために(あるいは、さみしさを自覚しないまま)ある人はやりがいがある仕事をし、ある人は麻薬をやるのか。なぜ穴を埋めるためにやっているのに「Aさんは性格の悪いBさんのことを好きになるのに性格の良いCさんのことは好きにならない(Cさんのことを好きになっといたほうがどう考えてもAさんの人生はうまくいくのに)」とか「子供を欲しい人と欲しくない人がいる」とか「AV監督になる人間と、ならない人間がいる」とかいうことが起きるのか。それは、めぐりあわせや運や体質、なにが得意で不得意かといったわかりやすい条件もありましょうが、心の穴のかたち(本能の壊れかた)が人間一人一人ちがうという要因が大きいのだろうと僕は思います。

じゃあその穴のかたちは、いつごろ決まるのか。おそらく幼児のころから思春期より前くらいまでにかけて、人間らしい心が形成されていくころでしょうね。その人を育てた、その人が幼いころに近くにいた誰か(たいていは親やきょうだい)との関係や、子供のころの友人関係によって穴はあけられてしまうのでしょう。

あらゆるわがままを叶えてもらえる子供はいないわけですから、人間は欲しいもの(愛情だったり、食べ物だったり)を欲しいだけ100%は貰えないまま成長します。文庫版の『すべてはモテるためである』という本に収録した哲学者の國分功一郎さんとの対談で、僕は國分さんから「人間の性格は、断念(あきらめ)の集積によって形成されていく」ともフロイトは言っているよ、と教えてもらいました。

それと、その人に対して親がやっていた独特なことや矛盾したことを無意識に真似するようになってしまうというか、ほかのやりかたがわからない、やりかたや考えかたを刻みつけられてしまうということもあります。人の心に穴をあける「その人の親」にも、やはり心に穴があるわけですから。

心の穴は「押しつけられ続けてきて、慣れてしまった」かたちにあくか、「欲しかったけど得られなかったもの」「本当はそれが欲しかったのに、成長していく過程で欲しかったことを忘れてしまった(無理やり忘れさせられてしまった)もの」が本来あるべきだった場所にあくのではないか。

穴なんて言わずに、それを「傷(トラウマ)」と呼んでもいいのかもしれません。穴のえぐられかたが重症で、いつも血が流れ出て穴がズキズキ痛んでいる人の場合は、そう呼ぶべきなんでしょう。ですが一般的な社会で普通に生きていくことが一応できている人は、血は止まっていて、だから自分がコントロールされている穴の存在を自覚できていません。そういう普通の人が、ときどき自分の穴に蹴っつまづいたり、深くて大きい自分の心の穴に落ちて出られなくなって破滅したりしています。

ある種の人の心の穴のかたちは、その人に矛盾した行動をとらせ、その人を生きづらくさせます。愛している相手を愛しながら傷つけるとか。かならず自分を傷つける相手に執着して愛してしまう(自分を傷つける相手だとわかって憎みながら、愛することもやめない)とか。そういう穴を子の心にあける親の心にも、やはり矛盾した衝動や行動を生む穴があいていたのでしょう。

人間の恋愛は、基本的に「親子関係で与えられて続けてしまったことを、繰り返している」 か「親子関係で得られなかったことを求めて、やりなおそうとする」かの、どちらかあるいは両方を無意識にやってしまうことなのだと思います。

それと、もう一つ。もしかしたらこれがいちばん重要なことかもしれません。心の穴はその人の欲望や生きづらさや他人に迷惑をかける欠点の源(みなもと)でもありますが、同時に魅力の源でもあります。誰かを好きになるということは、その人の心の穴が生み出すものに惹かれる(その人の存在が自分の心の穴を埋めてくれるんじゃないかと思いこむ)ということであり、恋愛とは二人の心の穴が惹かれあうことです。でかい心の穴があいている人が穴の大きさゆえに魅力的だったりすることがあります。なので、心の穴は良いものでも悪いものでもない。だから僕は「傷」という言いかたをあまりしたくない。傷ほどウエットではない「穴」と呼びたいのです。

さほど生づらくない人の心にだって穴はあいていて、穴が完全に埋まってしまったら欲望や衝動がなくなってしまうのですから、そうしたらその人は何もしない人になってしまうのではないかと僕は思いますし、つまり穴は「なくそうとするべきもの」ではないのではないか。穴が痛みつづけている「傷」だったら適切な治癒がなされるべきですが、そうでなければ、なんとか自分で「生きていきやすいような穴のかたち」に変えていければいいのではないか。

幸せな恋愛をするためには、相手をコントロールするテクニックを学ぶ(相手の心の穴を利用するようになれる)のではなく、自分の欲望や衝動を無きものとしようとするのでもなく、まずは「穴のかたちを知り、なぜそんなかたちの穴があいたのかを思い出す」べきなんじゃないか。そうすれば「自分が本当は何がしたかったのか、幸せになるために本当は何が欲しいのか」を感じられるようになる。それが「心の穴が、自分自身をあまり苦しめないかたちに変わっていく」ということなのでは。

僕が考える心の穴とは何なのか、駆け足でしたが、おさらいしてみました。書きたいことはまだあるのですが長くなったので今回はこのへんで。月美さんの違和感や痛みのほうは、いかがでしょうか?

追伸、月美さんの『ウツ婚!!』は抽象論ではなく具体的で、とても人の役に立つ本だと思いました。

石田月美『ウツ婚!!――死にたい私が生き延びるための婚活』晶文社、2020

この往復書簡も連載が終わって本になるなら、そういう本にしたいものです(と、これは自分に向けて書いておきます)。

二村ヒトシ