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判断を誤る魔の言葉

このnoteは事実、論理をベースにしたコラムを心がけておりますが、たまには趣を変えて私の個人的な思いをしたためたコラムでも書いてみます。パパッと読み流してください。


我々が普通に生活していても、「判断」を迫られることは仕事、学校、私生活問わず多々あります。家から近いけど偏差値低いA校にするか、それとも少し遠いけど進学校のB校か、部長に報告すべきか自分で何とかすべきか、アノ子に告白すべきかもう少し待つべきか。人生は判断の連続です。
当然私だってしかり、色々な判断を経て今日ここでこんなものを書いている。そしてこれからもそんな日々が続くわけですね。

で、私が何かしらの判断をする際留意していることがあります。この言葉に引きずられないこと。それは何か。






「せっかく」






私はこの言葉が往々にして誤った判断を下してしまう要因になると思っています。

事例は多々あります。

例えば日本が完敗した太平洋戦争。その犠牲者の大半は終戦を迎えた1945年のものでした。東京大空襲、広島長崎の原爆をはじめ、多くの民間人が犠牲になったのは終戦直前のことです。敗色が濃厚になってきた1944年あたりに止めておくべきでした。しかし「アジアを欧米列強の支配から救うべく」せっかく始めた戦争、ここで負けを認め終わらせてしまったら、これまで散ったあまたのご精霊に申し訳がつかぬ、とか何とか言った(思った)のでしょうか(そんな映画も見たこともあります)。結局サンドバック状態になりながらもダラダラ続けてしまい、あまたの犠牲を生む羽目になってしまいました。

身近な例も挙げましょう。麻雀をやる方はわかると思いますが、麻雀は無論いい役で「上がる」ことも重要ですが、それと同時に「振り込まない」「場を流す」ことも重要です。せっかく作ってきた自分の手を崩すのはもったいない。しかし時には、安全パイを捨て続けることにより、負けることを防ぐこともまた重要なのです。

他にも例えば、オレは4歳からヴァイオリンとピアノの英才教育を受けてきた。将来は絶対ヴァイオリニストか作曲家になるぞ!とばかりに音楽に打ち込んできた。しかし20歳くらいになるとわかります。自分に「才能」があるかどうか。もしないとわかっても、せっかくのこれまでの人生の努力を無為にしたくない!とばかりにプロの音楽家になることにこだわると、とんでもなくひどい目にあうこともある。それが現実です。時には自分の才能の欠如を認め、スパッと諦めることも必要なのです。


例を色々上げましたが、最近テレビのニュースを見ていても、この「せっかく」の呪縛から逃れられていない人を多く見かけます。

例えば最近よく見る高齢者の運転による事故。今の7・80台の方は高度経済成長期、「マイカー・マイホーム」を買うことを夢見て徹夜徹夜を厭わず働いてきた方々です。その奮闘には私も敬意を表します。せっかく手に入れたマイカー運転を手放すなど考えられないのかもしれない。自分の人生を否定された気分になるのかもしれない。しかしそこで自分の能力の衰えを認め、踏ん切りをつけられないと、悲惨な事故を巻き起こしてしまいます。

せっかく選挙で当選して手に入れた政治家の地位。この政治家の地位に固執するばかりに醜態をさらしている人の姿が、折しも最近毎日テレビに出てきています。政治家ではなく大企業のトップであることもあります。私の思春期は特に後者が多かった。あんな醜態は見苦しい、引き際を見誤らないことも重要なんだな、そんなことを感じた高校時代でした。


ではそんな「せっかく」の対義語は何か。「論理的思考」ではないでしょうか。AとBどちらが「より悪くないか」。もしそれがAなら、せっかくBを長きにわたり作り上げてきたとしても、Bがどうしても好きでも、あえてAを選ぶということ。それが論理的思考です。

もし自分の身の振り方に関することであるならば、自分自身を客観的にファクトベースでとらえることも重要となります。自分のことは自分が一番わからぬ存在です。どうしても都合のいいように解釈してしまいがち。

若くてきれいな子との結婚を夢見ているいい歳のオッサンも多いといいます(昔の私も似たようなものでした)。しかしその人は客観的に考えてみるといい。今まで何人若くてきれいな子と付き合えたか。一発逆転なんてそんな話は滅多に存在しません。自分を客観的に評価できるのはファクトのみです。モテないのは事実。相応の理由が存在するはずで、それを認めなければなりません。まあ「絶対に存在しない」とは言い切れないのも、また難しいところなんですけどね。


最後にこの「せっかく」を捨て去り成功した人物のことを紹介して終わりにしましょう。

戦国の覇者織田信長。彼は戦は連戦連勝だったわけではありません。越前朝倉氏との戦の折、同盟関係を結んでいた浅井氏に裏切られ、袋のネズミとなってしまいました。ここで「せっかく出陣したのに、逃げるなど我が名の恥!勇ましく戦い討ち死にすべし!」とはならなかった。しんがりを秀吉に任せ、一目散に岐阜に逃げ帰りました。そこで体制を整え、今度は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り、天下の覇権を手中に収めていくことになります。

維新の三傑のひとり木戸孝允。長州藩士だった彼は剣の達人でした。しかし禁門の変にて長州藩が敗れると新選組から追われる存在となります。ここで木戸(当時は桂小五郎)も無理に新選組と戦ったりはしなかった。兵庫県北部の出石に身を潜め、再起の日を待ち続けました。結局高杉晋作の功山寺決起で長州藩が攘夷派に振れたのを見るや長州に復帰、その後の新政府での活躍はよく知られているとおりです。司馬遼太郎はこの桂を題材に「逃げの小五郎」という小説を書いていますが、この題名は桂を称賛している、と思います。


さて終わりにしましょう。物事を判断するとき、下手な固執があったり、過去の自分を否定されることを恐れたりすると思わぬ事故を巻き起こすこともあります。やはり正しい判断は論理的、数学的になされるべき、歴史を見ても今現在のニュースを見ても、常に私はそんな思いを抱いているのです。

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