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揺れる東京五輪2020によせて ナポレオンの遺した幻想

・はじめに

周知の通り、東京五輪2020は昨年実施される予定だった。しかし新型コロナの世界的流行の影響で今年に延期になり、未だ新型コロナの影響は留まるところを知らず、果たしてワクチン等で五輪の時期までに抑え込むことは可能なのか、その開催に関して極めて懐疑的な目が向けられている。
五輪が開催できるかは免疫学的な側面、経済的な側面等多方面からの検証が必要なことから、専門家の方々がしかるべき判断をなさると思われるのでそれを受け入れるしかない。菅首相の言うよう「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証として」五輪が開催されればどうなるか。また日本人は1年間のウサ晴らしとばかりに「ニッポン!ニッポン!」の大合唱となるか。こんな光景が繰り広げられるのは、実はナポレオンの影響ということはあまり語られていない。ナポレオンの遺した「ネーション・ステート」の影響について、五輪に思いをはせながら振りかえることとする。

・フランス革命とナポレオン

1789年フランス革命勃発。ルイ16世の旧体制は崩壊しフランスは「自由・平等・友愛」を旗印にする国民議会が実権を握った。それに対しプロイセンやイギリスは王政の維持のため革命が自国に飛び火するのを恐れ、フランスに次々と戦いを挑んだ。しかしフランス軍は自ら作り上げた新政権を守るため、臆することなく外国と戦った。そんなフランスから出現したのがナポレオン(1世)だった。
ナポレオンはフランスを守るため、諸外国の包囲網を打ち破るべく戦いに次ぐ戦いを繰り返したほか、ナポレオン法典などの法制度の整備を進め、フランスの人々に「フランス国民」の意識を植え付けていった。それに対しドイツ哲学者フィヒテは、「ドイツ国民に告ぐ」という演説を通じ、ドイツに住む人々に「ドイツ国民」という意識を植え付けた。こうしてフランス革命の「自由・平等・友愛」の精神に基づいた「ネーション・ステート(国民国家)」の概念は欧州、中南米を皮切りに世界中にあっという間に広まっていった。1815年にはウィーン体制やロシア等による神聖同盟など、反ネーション・ステートの動きもみられたが、1848年のヨーロッパ革命などでいずれも革命軍が勝利をおさめ、地球上をネーション・ステートが覆うこととなった。鎖国によって世界事情から切り離されていた日本も、明治4年の廃藩置県をきっかけに「日本」という国家が出現した。

・「ネーション・ステート」という想像の共同体

私が歴史小説や時代劇(大河ドラマ等)を見るたびに留意しているのが、ネーション・ステート確立以前と以後では「国」の概念が違うということである。私はネーション・ステート以前の「国」は「勢力」と似たようなものと解釈しているがどうだろうか。
ネーション・ステート出現以降、国家は「国民」と「国土」を持った。地球上に元より存在しない「国境」が出現し、単一の言語が定められ、「学校」が作られて統一された指導が子供に対してなされるようになった。国民はその国の政府に対し納税等の義務を負い、逆に国家は国民のためにサービスを提供する。我々がごく当たり前に受けて入れている「日本政府」「日本人」などという概念がこうして生まれた。19世紀半ばからのことと考えれば、この当たり前の概念が生まれたのはたかが150年ほど前でしかないということである。
ベネディクト・アンダーソンは、このネーション・ステートを「想像の共同体」と呼んだが、まさに的を得ていると思う。この想像上の産物でしかないものに、日々我々は振り回されている。やれ緊急事態宣言が遅いだの尖閣を侵攻するなだのニュースを見ない日はない。ちなみに自らが「日本人!!」であることを振りかざす時、つまりナショナリズムを意識する時は、やはり他国との戦争の時であろうか。しかし幸いなことに日本は75年ほどそれは避けられている。ではその次は?やはりスポーツの国別代表選ではないか。

・五輪やサッカーW杯の力

国家単位で「戦う」となると一番目に見えやすいのがスポーツである。中でも一番代表的なのは五輪とサッカーW杯だろう。五輪を主催するのはIOC、サッカーW杯はFIFAだが、IOCは1894年、FIFAは1904年にそれぞれ設立である。ちょうど「ネーション・ステート」の概念がほぼ広まったころとなる。そもそも「国家ごと」でスポーツの試合を争うという概念も、それまでの時代だったらあり得なかったと思われる。歴史にIFはないが、ナポレオンがいなかったら五輪もサッカーW杯もなかったのかもしれない。当然「ニッポン!ニッポン!」の大合唱もなければ、ペレやマラドーナや羽生弓弦も「発見」されなかったかもしれず、このあたりは全ては空想するしかない。ただ多くの人にとって五輪やサッカーW杯が大切な財産であることもまた事実である。

・東京五輪の行方はいかに

「はじめに」で述べた通り、夏の五輪が開催されるかどうかは専門家の判断にゆだねられるべきと思う。私はスポーツ・ファンでもあるので、やれるものならやってほしいがいかがなものか。カタールW杯の予選も今年から再開する予定である。また私はテレビにかじりつきつつ、「日本」という何の根拠もない想像上の産物に心を躍らせることになろうかと思う。ま、そんな人々(自分含めて)の人生がそれで豊かになるなら、それもそれで良いのではないか。ナショナリズムにアレルギーを持つ人で、今回のコロナ禍にかこつけ「五輪中止!」を叫んでいる人も多いが、楽しめるものは楽しんだ方が勝ち。そんなことをスポーツの代表戦を見るたびにふと思う。

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