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フッ素は毒?

たまに質問をいただく「フッ化物(フッ素)の害」について、正しい情報をまとめておこうと思います。

まともな歯科医療従事者は「フッ素」とは呼ばない。

まず、まっとうな歯科医療従事者であれば「フッ素」という表現はしません。フッ素は原子番号9の元素名で、電気陰性度は全元素中で最も大きく、通常単体で存在することはありません。非常に強い酸化作用があるため、他の元素と結びついた化合物として存在しています。もし、フッ素元素が単体で存在すれば、それは間違いなく猛毒です。なので「フッ素は猛毒」というのは実は正しいのです。その類の発信の誤りは、まずもって基本的にフッ素は単体では存在せず、化合物としてなにと結びついているかによって性質が異なることを理解していないことからくるものがほとんどです。
ただし、きちんと知識のある歯科医療従事者でも一般の方々に伝わりやすいように「フッ素」と表現することはあります。

歯科医師であれば誰でも知っているはずの痛ましい事故

もうひとつ、知識のある歯科医療従事者が「フッ素」という表現を避ける理由には、痛ましい事故が背景にあります。
一般に「八王子市歯科医師フッ化水素酸誤塗布事故」として知られる事故です。
歯科医院でむし歯予防のために使用するフッ化物は通常、ナトリウムと結合した「フッ化ナトリウム」という化合物などです。
この事故は、フッ化ナトリウムを発注する際に「フッ素」と書いて発注したため、歯科技工物などにも用いる工業薬品であるフッ化水素という化合物の水溶液である「フッ化水素酸」が納品され、誤って子どもに塗布し、死亡させてしまったというとても悲しいものです。
二度とこのような事故を起こしてはいけないと当時広く周知され、歯科医師国家試験にも出題されていますので、多くの歯科医師はこの事故のことを知っています。
尊い命が失われているこの事故の記憶を薄れさせないためにも、安易に「フッ素」と呼ぶべきではない。これは歯科界全体の反省の現れでもあるのです。
同時に、フッ化物はどの化合物なのかによって性質が大きく異なることも強く認識しておかなければなりません。

ここからは、フッ化物に関する代表的なデマ情報を例として挙げ、解説していきます。

ナチスがフッ素を人体実験に使っていた?

いかにも「ありそうな話」としてよく語られているナチスの人体実験デマで、「フッ素入りの水道水を囚人達に飲ませて精神的な悪影響を利用して非反抗的にしていた」というものです。
まずもって、ナチスがフッ化物を使った人体実験をしていたという記録はありません。
どうたどっても「使っていたらしい」という噂話しか出てこないはずです。
多くのデマ情報がそうであるように、確たる根拠が示されることなく噂の噂として広まってしまう典型とも言えます。
そういうときに反論として出される、証拠は隠蔽されているのだ!というのはまさに陰謀論ですね。

WHOがフッ素を禁止している?

次によくあるのが、「WHOがフッ素を禁止している」、「アメリカではフッ素を毒物として扱っている」、「ヨーロッパでは脱フッ素の方向性になっている」などといった誤情報です。
これは、WHO1)やアメリカ歯科医師会ヨーロッパ小児歯科学会2)などが6歳未満のフッ化物洗口を非推奨としていることを拡大して誤認したものと思われます。
6歳未満はうがいがうまくできない可能性が高く、本来吐き出すべき洗口剤を飲み込んでしまうリスクがあるため、これを非推奨としているのです。
なお国内では6歳未満でもフッ化物洗口を推奨される場合はありますので、個々の判断については直接診察をしている歯科医療従事者の意見を優先してください。
なぜ6歳という年齢で区切るのか、飲み込むリスクとは何かについては後述しますが、リンク先の情報を見ていただければ分かるように、WHOもアメリカ歯科医師会もヨーロッパ小児歯科学会も、フッ化物の配合された歯磨き粉の使用を推奨していますし、歯医者さんで塗る高濃度のフッ化物についても推奨しています。
ちなみに専門的な話になりますがフッ化物局所塗布は海外ではフッ化物バーニッシュを用いているため、日本でよく用いられるジェル法(トレー法)は6歳未満は非推奨の表記になっています。

このように、多くの医療デマは「根拠はないがありそうな話」や「元情報を持論に都合よく拡大解釈した話」などが中心となっています。
騙されないためには、元情報をたどるリテラシーが必要です。

現在分かっているフッ化物の害

そのほかのデマ情報としては、ガンになる、IQが下がるといったものなど、フッ化物の害に関するものが確認されています。
まず、現在分かっているフッ化物の害は、ふたつあります。

1つ目が、急性中毒です。
一度に大量のフッ化物を摂取した場合に、嘔吐するなど短期間に症状が発症するものを指します。
これは先程のフッ化物洗口の洗口液であれば5歳児が40人分摂取するような量となりますので、かなり大量に摂取した場合に限られます。
とはいえ、ご家庭では子どもが大人用の歯磨き粉のチューブを丸ごと飲み込むようなことがあれば起きえますので、特に高濃度のフッ化物が配合された歯磨き粉の管理には気をつけなければいけません。

2つ目が、慢性中毒です。
こちらは「フッ素症」とも呼ばれ、歯に起きるものと骨に起きるものがあります。
毎日少量ずつフッ化物を摂取することによる害ですので、「フッ素は毒」という主張をする人たちにとって最も気になるところかとも思います。
骨に起きるものについては、飲料水のフッ化物濃度が高い地域で確認されているものですので、現在の国内では通常起きないと考えて良いでしょう。
しかし、歯に起きるものについては、実は十分に起きうると言えます。

歯のフッ素症は、子どもが「0.1mg/kg体重/日」のフッ化物を毎日摂取すると起きうる、とされています。
6歳未満が使用を推奨されている1,000ppmのフッ化物濃度の歯磨き粉で想定すると、1g中に1mgのフッ化物が含まれることになります。
6歳未満は通常0.25g程度を使用する推奨となっていますので、8回歯みがきをする量を全量飲み込むとその量に達します。
推奨通り使用していれば起きませんが、たとえば大人用サイズの歯ブラシ全体に乗る量を使用したりしていると、十分起きうる量となりますので、適切な使用量を守ることはやはり大切です。

2023年に入ってから、日本口腔衛生学会、日本小児歯科学会、日本歯科保存学会、日本老年歯科医学会の4学会が合同で歯磨き粉の使い方を発表しています。
普及版はこちらから見ることができます。

4学会合同のフッ化物配合歯磨剤の推奨される利用方法 普及版

内容はほぼヨーロッパ小児歯科学会の推奨と同じです。
日本のほうが慎重な傾向がありましたので、以前の推奨は低年齢には500ppmを使用する記載があったのですが、むし歯予防効果があまり高くないことが明らかにされている3)ため、今回の推奨からは除外されています。
そのほかには、6歳以上を成人と扱い、1450ppmの濃度を推奨していることも特徴的です。
前述のフッ化物洗口でも6歳をボーダーとしていましたが、これは前述の「歯のフッ素症」に配慮しています。
また、子どもが誤ってチューブごと食べたりしないように注意書きがされています。
むし歯予防のための一般的なフッ化物の使用方法の中で起きうるのは「歯のフッ素症」と「急性中毒」。このふたつだけです。

それ以外の害については?というと、「これまでのところ証明されていない」というのが誠実な回答となるでしょう。
ここに、医療デマの付け入るスキがあるとも言えます。

「悪魔の証明」

きちんと科学的な思考を学んでいる歯科医療従事者は、「ない」ことは証明できないことを知っています。
証明できるのはあくまでも「これまでのところはない」ということだけなのです。
これから先に絶対起きないということは誰も言うことはできない。
この科学の原理を知っておくことは、医療従事者としてはとても重要です。
なので「今後絶対に他の害が起きないと言い切れるの?」と聞かれた場合には「絶対とは言えない」という回答になってしまうのです。
医療デマを流す人々は科学的な思考をしないことが多いので、「ほーらみろ」と鬼の首を取ったかのように扱うかもしれません。
逆にもしも一例でも「ある」ということが分かれば「ある」ということは証明できるのです。
フッ化物について急性中毒と慢性中毒以外の害について述べられているときに、それが通常の歯磨き粉や洗口剤などで起きたとされているかどうかを確認してみてください。
実際の例は示されていないか、むし歯予防の製品ではない話か、対象がヒトではないものしか出てこないと思います。

なぜデマ情報や陰謀論は生まれるのか。

フッ化物に関するデマや陰謀論について解説をしてきましたが、人はなぜデマ情報や陰謀論を作り出してしまうか、それを広めようとしてしまうか、そしてそれを信じてしまうのかについても少し考えたいと思います。
多くの場合その背景には「科学不信」があります。
「きちんと歯みがきをしているつもりなのにむし歯ができてしまった」という体験など、現在の医学を信じてもうまくいかなかった経験などから生まれていることが多くあります。
実際には、フッ化物配合の歯磨き粉を使わない歯みがきではむし歯予防効果は示されないことが明らかになっています4)。
しかし、残念ながら一般的な認識では「むし歯予防といえば歯みがき」という傾向が強いでしょう。

歯みがきをしても結局むし歯になってしまう。フッ素は毒だという情報を見たこともある。むし歯は結局食習慣が原因だから、余計なものは使わずに健康を守りたい。

そのような気持ちはとてもよく理解できますし、フッ化物も要するに薬ですから、使わずに歯を守れるのであれば、急性中毒、慢性中毒のリスクも回避できるのでそれにこしたことはないと僕も思います。
しかし以前の食習慣とむし歯に関する記事にも書いたように、縄文人にもむし歯はあるのです。

現代において食習慣だけで歯を守ることはとても難しいことです。ある程度精製された食品を口にしながら健康を守るために、歯みがきもするし、適度にフッ化物を用いることが推奨されるのです。

分かっている害のリスクを回避しながらメリットを得るためにも、正しい知識が必要なのです。

もうひとつ、デマ情報や陰謀論が生まれてしまう背景には、とても情けないことではありますがきちんと知識を更新していない歯科医療従事者もわずかながらいる、ということもあると思っています。
一般の方々に正しい知識を伝えるどころか、自らが陰謀論に染まってしまう、利益のために科学的根拠のない商品を販促してしまう、ということも稀にあるのです。
こうしたことが「歯科医療従事者の間でも意見が分かれている」という誤認に繋がってしまうのだろうと思います。

そこにいるのは「フッ素賛成派の歯科医療従事者」と「フッ素反対派の歯科医療従事者」ではありません。
「科学的根拠に基づいて知識を更新している歯科医療従事者」と「そうではない歯科医療従事者」がいるだけです。

こうした歯科界の問題を解決するためにも、科学不信に陥ってしまう方々のためにも、必要なのは「対話」だと思っています。

フッ化物に不安を感じる方々や、陰謀論に染まってしまっている歯科医療従事者の方々とも、僕は喜んで対話をしたいと思っています。

なぜそのように感じているのか。
どうしてそう考えるのか。

しっかりと対話をして、もしも僕のほうが誤っていると考えれば、その考えを180°変える覚悟をもって議論をすることをお約束します。

いずれにしてもそこにいるのは「健康を守りたい」方々だけだと思っていますので。

1) O'Mullane DM, Baez RJ, Jones S, Lennon MA, Petersen PE, Rugg-Gunn AJ, Whelton H, Whitford GM. Fluoride and Oral Health. Community Dent Health. 2016 Jun;33(2):69-99. PMID: 27352462.
2) Toumba KJ, Twetman S, Splieth C, Parnell C, van Loveren C, Lygidakis NΑ. Guidelines on the use of fluoride for caries prevention in children: an updated EAPD policy document. Eur Arch Paediatr Dent. 2019 Dec;20(6):507-516. doi: 10.1007/s40368-019-00464-2. Epub 2019 Nov 8. PMID: 31631242.
3) dos Santos AP, Nadanovsky P, de Oliveira BH. A systematic review and meta-analysis of the effects of fluoride toothpastes on the prevention of dental caries in the primary dentition of preschool children. Community Dent Oral Epidemiol. 2013 Feb;41(1):1-12. doi: 10.1111/j.1600-0528.2012.00708.x. PMID: 22882502.
4) TORELL P. TWO-YEAR CLINICAL TESTS WITH DIFFERENT METHODS OF LOCAL CARIES-PREVENTIVE FLUORINE APPLICATION IN SWEDISH SCHOOL-CHILDREN. Acta Odontol Scand. 1965 Jun;23:287-322. doi: 10.3109/00016356509007517. PMID: 14321743.


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