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「仏教」と「脳🧠」と「幻想」と「現実」

ものを見るとは?

ものを見る視覚は、目に入ってきた光の信号を
→目の奥の網膜の神経細胞が"電気信号"に変換する
その電気信号が視神経を伝達して大脳皮質の後頭葉の神経細胞を興奮させる
後頭葉は視覚を感じる領域なので、
われわれは脳の中のスクリーンに現れた映像を見ているだけだが、
あたかも"現実"や"本当の世界"を見ているかのように感じている

感覚は?

同様に音は耳の奥の内耳で、味覚は舌の味覚神経で、
においは鼻の奥の嗅神経で、体の痛みなどの感覚は皮膚にある感覚神経で、いずれも"電気信号"に変換されて脳に送られ、
それぞれの知覚として感じられる

つまり、外界の出来事を電気信号に変えて脳が勝手に
「あなたが感じたいものはこんな感じ?」
という都合のいい"解釈"や"幻想"に過ぎない。

じゃあ現実はどのように映っている?

人間の体は高性能なセンサーネットワークのようなもので、
目、耳、舌、鼻、皮膚などの感覚器官が周囲の環境からの情報を
電気信号に変換し、それを脳へと送る。

日常生活において、毎日見たり耳にして肌で感じるものは
"自由意志"とは裏腹に"無意識"に処理されいる。
このとき、「嗅覚と聴覚の調子がいい」などと
大半の人が意識的に感じることはほとんどない。

そして、脳はその信号を解析し、我々が体験する「現実」を形成する。
故に、我々が感じている「現実」は、
→実際には脳内で再現(シミュレーション)されたものだと考えられる。  

仏教とシミュレーションの関係

少し哲学的な話になるが、
人間は世界を直接見ることができない」とも言える。
つまり、脳が電気信号を介して、
「目の前にある」と思っているものが実はあるかどうかわからない
(存在するように感じているだけか、そう思い込んでいるだけの可能性)

理論物理学者や哲学者はこのような理解を今も真剣に考えているが、
2000年以上も前から存在していた仏教の般若心経でいうところの、
この世はすべて空である」という考えにつながる。
この視点は哲学や宗教、特に仏教の教えと深く結びついてるため、
我々が経験する現実は、我々の感覚と脳によって"解釈"されたものである。

本を読んで感じたのは、
お釈迦様ははるか昔からこの世の摂理とまでは言わないまでも、
未だに強い影響力や何千もの間その考え方や思想が脈々と受け継がれている歴史を考えると脳の仕組みをある程度見抜いていたのかもしれない。

また、仏教の考え方としての「」という概念に通じる。
」は、すべての物事はそれ自体に"固定的な実質性"や"絶対的な自己性"を持たず、人それぞれの知覚解釈によって形成されるという視点。

これは科学的な理解とも共鳴している。
科学では、我々が体験する「現実」は感覚器官が捉えた情報を元に
脳が創造した"再現映像"に過ぎないとされている。
だからこそ、実験や観察は"客観的な真実"を追求する上で重要とされる。

「この世はすべて空である」という哲学的な思考は、
現代の神経科学や物理学とも"相互補完的な関係"にあるともいえる。

ところどころ解釈や理解が難しかったり、抽象的な言葉も多かったりして
間違っている可能性はあるが、
これを知っているだけで"困難に遭遇"したときかなり楽になる。

最近は、何かしらうまくいかないときや思い詰めた時の対処法として
「所詮、脳内が勝手に生成した"幻想"を体験しているに過ぎない」
と捉え直すようにしている。

そうしたことで、
現金6万円相当の金額を引き下した直後の財布を紛失しても、
"合理的に諦める"ことができた。
(ちなみにクレジットカード、運転免許証、保険証、学生証、ボルダリングの回数券、その他ポイント系のカードも全て含まれている)

短期的に考えれば悲劇的な出来事だが、"長期的視野"と"心に余裕"を
持っておくことでサッカーと同様に次の行動への"選択肢"が広がった。

※まだ財布は返ってきてない。


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