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5月の書店にて

1.
あとでリダイアルを見れば分かりますので。

その書店員は黄色く変色した受話器を持ったまま店中に聞こえる大声で電話先の相手に説明していた。
相手が納得したのか折れてしまったのかは分からないが、電話はそのひと言がきっかけとなり終わったようだ。
書店員はいつもの場所に戻り伝票の数字をノートに書き写し大きなため息をついた。


2.
今となっては本は一句違わずデータとなり、蝶の鱗粉のようにその体からいくばくかの手数料を落としたのち、正しい折り目で作られた紙ヒコウキとなり静かに僕たちの手のひらに舞い降りてくるわけだ。

なにぶんここが正統派のさびれた書店とはいえ、居候の部屋より居心地がいいのだから本を選ぶためにここに来るしか仕方がなかった。
雨がぽつぽつと降り続いた午後、僕は街の小さな書店にいた。
そしてその正統派のさびれた書店で彼女と出会った。


3.
いつも通り店内中を眺めてシメに文庫棚に向かった僕はそこで彼女と出会った。
赤く染まった5月の桃がふたまわりくらい小さくなったような白い肩が見える仕立ての良いネイビーワンピースを着た美しい女の子だった。

3.5

彼女がこの街の人間でないことは一目で分かった。
僕はこの書店の常連であり、またこの街は春といえ新しい人が訪れることもなかったからだ。


4.

裏返しに置いてあった文庫本を直そうとした時に「ごめんなさい」、と横から声がした。

それワタシの。

僕が直そうとした文庫本はどうやら彼女が買う予定のものだったようだ。

僕らはいびつな会釈を交わし、彼女は文庫本を自分の猫のように抱きかかえあらためて目の前の棚に目線を戻した。

数分たって彼女が文庫コーナーから去ったあとには柔らかいザクロの香水の香りがした。
いつまでたっても僕は救出する文庫本を選べずにさびれた書店の一部となっていた。


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