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推しにリプライを送るのが苦手だ



推しにリプライを送るのが苦手だ。多分、自意識が過剰なんだと思う。



先日は、ある推しのお誕生日を祝うべく、たった3行のおめでとうメッセージを30分以上推敲してやっとのことで送り、その後送ったリプライを見直して「うわ、送ってしまった。重かったかも。きもかったかも。うわうわうわー!!!」と、また30分くらい画面を見ていた。

※自分が送ったのだけそう見えるのであって、リプを送ってる方のがそうとは全く思ってません。



ありがたいことに、私の推したちはみんなSNSをしている。ずっとテレビやラジオ、ステージの上だけに存在していたはずの推しが日常的に同じプラットフォーム上に現れて、プライベートな話の報告をしてくれたり、アーティスト仲間と仲良くやりとりしているのを見れたりする。簡単に個人的にメッセージを送れてしまったりする。なんと、たまにいいねや返信で反応を返してくれたりもする。まじ最高。ありがとう推し。



ずっとSNSをしていなかったとある推しが昨年、満を持してツイッターを始めたときは、まさに「神様が下界に降りてきてくだすった」みたいな感覚だった。だって、十数年間ライブでしか会えなかった推しが、私が鼻ほじりながら「腹減った」「かえりたい」とかやってるタイムラインに突然同列で現れるんですよ。令和、まじですげえよ。怖えよ。



アーティストの仕事名義のSNSアカウントはほとんどがファンサービスの一環みたいなものだと思うので、ステージから手を振られたらきゃーって言ったり、手を振り返したりするみたいに、ファンもできるだけ多く反応を返したほうがいいんだろうな、と思う。


自分も誰かからリアクションをもらえると嬉しいのと同じで、きっと推しも反応がたくさんあると嬉しいはずなので、できることならいいねだけじゃなく、どんどんリプライも送りたい。伝えられる機会が増えたのだから、伝えられるうちに惜しみなく好きを伝えたい、とも思う。



しかしながら、どう話しかけたらいいのかがわからない。

ブログにコメントを残していた頃よりも、SNSは、より個人対個人として話しかけている感覚が強いような気がする。

ファンとはいえ、推しからしたら通りすがりの得体のしれない他人である私が、本来は神と下界の民くらいの距離感があるはずの私が、彼らにどんなテンションで話しかけていいものか、よくわからないのだ。

いつも通り愛称で呼んでいいのか、いや、馴れ馴れしいな、敬意をこめて当然苗字にさん付けだろ、、、でもちょっと固いな、名前にさん付け?どっかの良妻きどりみたいだな、ど、どうしたら、、、と、名前の呼びかけ方からもう悩み始める。



しかも、一方的な愛(しかもめちゃくちゃ重いやつ)を投げつけて、うわ、こいつきしょ、とか思われたらもう死しかない。いや、私の推したちはそんな酷いことを言うキャラでは決してないんだけど。


先日書いた読書感想文記事が作者さんご本人に反応を頂けた時も、すごくすごくすごく嬉しい反面、あのくそでか感情が本人に伝わってしまったのかと思うと、ぶっ倒れそうになった。


長年拗らせた片思いみたいになっている。というか、実際そんなようなものなのだ。


もっと言うと、自分がどう思われるか、より、相手にどう思わせるか、のほうがもっと恐ろしい。

最近は、リプライどころか、ツイートした内容が万が一エゴサしたご本人に見られたときに、悪気はなくとも嫌な風に伝わったら、と思うと、ちょっとでもミスリードを起こしそうなものはすぐ削除してしまう。推しの名前や作品、公式のハッシュタグをいれるツイートをする時は、特に気をつかうようになった。

例えば、愛情表現のつもりでも、相手を不快にさせるような言葉を使っていないか、ということは、かなり気になるところだ。

もしも自分が推しと同じようにバンドマンとして音楽活動をしていたとして、見知らぬファンの人からかけられる言葉がどのように聞こえるか、想像してみる。

音楽を褒められるのはものすごく嬉しいだろう。見た目や性格や行動を褒められることも、多分悪い気はしない(音楽だけを評価してほしい、というタイプのアーティストの場合は違うのかもしれないが)。

じゃあ、例えば「〇〇ちゃんが大好きで毎晩抱きしめて寝たい。等身大のフィギュアほしい」とか言われたら?うーん、それは私ならかなり怖いかも(異論は認める)(ちなみに一応言っておくとこれは一例であって私が欲しいと思っているわけでは断じてない)。

こんな感じで、所謂三次元の推しを推すときは特に、『相手がどう思うか』は常に考えていかなきゃいけないことなんじゃないかと思う。なんとなく、自分と同じ人間をコンテンツとして消費することの危うさ、みたいなものを考えてしまう。大なり小なり、自分もそのひとりであるという自覚があるからこそだ。

あと、よく言う『愛あるディス』みたいなものも、気をつけなきゃいけないなと思うようになった。思っている以上に、単なる文字列の奥にある人の気持ちって、伝わりにくい。どんな顔で、どんな思いでそれを書いてるのかまではわからないことが多い。どんなに親しみを持って書いたことでも、愛が伝わらなきゃ、それはただのディスなのだ。


なので、生配信イベントのチャット欄等、本人の目が触れるとわかっている所に書かれた、悪気はなくとも平気で推しをけなすような言葉を見て、にわかに信じがたいものを見た心地になることがある。普通に失礼に感じるのではないか、とハラハラしてしまう。



これに関しては、ただ単に『いじり』みたいな、ノリで生まれる『他人を落として生まれる笑い』が苦手なせいもあるかもしれない。頭が固いことは百も承知だ。


でも、親しき仲にも礼儀あり、というか、本当は親しくもなんともないんだぞ、ということは、これからも肝に銘じておいたほうが良い気がしている。自戒として。

他人との距離が近くなったからこそ、ネットに放つ言葉にはもっともっと気を配っていかなきゃいけない。四角い画面に放ったつもりの言葉は、それを通じて生身の人間にきちんと届いている。

その上で、以前より少しだけ近くにきてくれている推したちからの恩恵を、ありがたく受けとっていけたらと思う。




なんだか話が逸れたが、推しが以前より近い存在になったのは大変喜ばしいことだが、同時に悩ましいことも増えた、ということを言いたかった。


誰よりも心が近いような気がする人であり、実際はただの他人であり、この世でいちばん大好きだと言っても過言ではない、近づきたいけど近づくのが恐れ多い彼らに、SNSというフラットな場でどんな接し方をするのが正解なのか、私は未だに見いだせていない。

こうして今日も、推しのツイートにそっといいねだけして、ツイッターを閉じるのであった。



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