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「ChatGPT」の 有効な取り扱い指針を文科省は作れるのか。

「ChatGPT」の取り扱い指針を文科省が示すという話題がニュースになっていました。

ICTの導入期などもそうですが、新技術に対し教育現場が対応できずその指針を国が決めるというケースが存在します。

指針を作ることが可能か

そもそもの問題として、こうしたAIの利用に関して教育的な効果の高い指針を作ることができるのでしょうか。

現状ではAIの教育利用は世界中でも一部でしか行われておらず、効果的な活用法や禁止事項などがデータとして出そろっていない状況です。

さらにこの手の文書生成型AIの場合、言語環境によってもその活用法や活用レベルには差があり、日本語環境での利用データはさらに少なくなります。

にも拘らず、この段階で新技術を過剰に恐れて、利用を制限するような内容が出た場合、世界中の教育の潮流からさらに離れた教育を日本国内では行うようになってしまうでしょう。

国の一律の指針が教育の自由を奪っている

日本では学習指導要領が全国一律で定められいます。

2000年代以前においては、この制度の成果は非常に高く評価されてきました。

人口1億人を超えるかなり規模の大きい国家であるにもかかわらず、PISAの学力調査で常に高い順位を維持していたという成果は明らかに発展途上国の目標とするモデルともなり得たのでしょう。

しかし、IT革命、情報産業における敗北と30年に及ぶ経済の停滞はそうした教育制度の限界を示すきっかけとなりました。

一律の教育課程を全国に課す制度は、工業的モデル、均質な人材を作り上げるという意味では非常に効果的ですが、個々の能力特性や凹凸を意識した指導を行うことは難しくなります。

文教地区に住む富裕層と、貧困地域に住む低所得層が同じ教育課程を受けるのは一見すると平等に見えますが、どちらにとってもミスマッチが起こっています。

それぞれの生徒の能力差や状況を考慮すれば、仮に一定の基準は必要だとしても、一律の教育課程を敷くことは決して能力を伸ばすことには繋がらないでしょう。

つまり国の示す指針はそうした教育の自由を奪いかねないということです。

「指針」であるという言い訳を使う文科省

文科省の役人は常に逃げ道を用意して言葉を使います。

彼らは一律に決めた強制的なルールを「指針」と言い換えて、あくまでも基準だ、運用面で柔軟に対応するといった言い方をします。

しかし、実際には現場で働く地域の教員からすれば、いつどこでとられるかわからない揚げ足のリスクを冒してまで教育の自由を主張することは非常に難しいでしょう。

まして、彼らの上役は減点主義におびえる状況のなかで、個々の教員の自由を認めるということはほとんどないはずです。

現にICTの導入時にも同様のことが常に見られてきました。授業中にしか電源をつけない、持って帰らない、といった端末利用の指導はそうしたものの典型例です。

どんな指針が出てくるのか

もしかすると、私の心配は杞憂であり、AIの積極的利用を促す進歩的な指針が生まれる可能性もゼロではないでしょう。(限りなくゼロに近いでしょうが)

とりあえずは楽しみに待ちたいと思います。

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