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「元教諭の不服審査請求に対する批判」は権利侵害以外の何物でもない

2019年に起きた熊本市立中学1年の男子生徒の自死に関し、元小学校教諭(小学6年時担任)が関与し、また複数の生徒に対する行き過ぎた指導や体罰があったとして懲戒処分を受けました。

この件に対して、元教諭が処分を熊本市人事委員会に対し不服審査請求を行ったということがニュースになっていました。

Yahooニュースのコメント欄、あるいはTwitterなどでもこの不服審査請求を出したこと自体に対して批判的な意見が多くみられるようです。

「全く反省していない」、「退職金が目当てなのか」といった言葉が散見されるようです。

事件の真相と処分の妥当性

今回の事案は、当該生徒を含む複数の生徒に対して42件の不適切な指導があったと市教育委員会は認定したようです。

さらにその後、熊本市体罰等審議会は元教諭の審議内容を公開しないことを決定しました。

この決定の是非はともかくとして、内容の深刻さや関係者への心理的配慮、重大性とその影響などを考慮して非公開としたいうことですので、おそらくは報告が上がった内容がかなり激しいものであったことは想像に難くありません。

そして、仮にその内容通りであるのならば懲戒免職という処分自体は妥当と言えるでしょう。

不服審査請求の権利の保障

教員を含む地方公務員には不利益処分のに関する審査請求の権利が保障されており、今回の元教諭もその手続きに則って請求を行ったものと思われます。

地方公務員法49条(不利益処分に関する説明書の交付)
1項「任命権者は、職員に対し、懲戒その他その意に反すると認める不利益な処分を行う場合においては、その際、その職員に対し処分の事由を記載した説明書を交付しなければならない。」
地方公務員法49条の2(審査請求)
1項「前条第1項に規定する処分を受けた職員は、人事委員会又は公平委員会に対してのみ審査請求をすることができる。」

こうした権利は法律には明記されていますし、基本的に行政の何らかの処分や取り扱いに関しては不服審査請求をできるのが当然です。

逆にこうした権利を保障しない社会は、極めて独裁的な恐怖政治が行われている国家であり、民主的な社会でありません。

すなわち、今回の事例に関して、元教諭の「審査請求を行った行為」そのものを批判することは、市民が行政や権力に対して抗う力を削ぐ事でしかなく、その批判が自らを傷つける刃となって降りかかってくるとさえ言えるのです。

何を批判するのか

今回の事案において、仮に元教諭が行った行為が真実であるのならば、元教諭本人やそうした人材を教育現場に放置した管理者や設置者は批判されるべき対象でしょう。

あるいは、情報公開を適切に行っていない教育委員会や体罰等審議会に対しての批判も妥当性があります。

しかし、この件に関して「不服審査請求を行った」という一点を批判することはあってはならないと思うのです。

もちろん、自死した生徒の家族や友人、体罰の被害者や関係者であればそうした言葉を口にするのも致し方ないでしょう。

しかし、関係者でもない人間が個人の権利の正当な行使を批判するような状況は不健全だと思うのです。

こうした状況は今回以外にも多々見かけることがあります。例えば、刑事裁判において控訴や上告をするケースです。

あるいは、再審請求なども同様でしょう。

批判をするという行為によって社会が健全性を保つのは事実です。しかし、何を批判するのか、できるのかは常に考える必要があるのではないでしょうか。

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