スマホと学力低下とその真相:スマホ悪玉論は金科玉条か否か
スマホ悪玉論
昨今、スマホを目の敵にした言説を見ることは少なくない。東洋経済のオンライン記事にいまさら目新しさの無い記事が一つ加わっているのを発見しました。
まあ中身は所謂「スマホ悪玉論」の練り直しであることは間違いありません。しかしこの記事には少し異なる点が存在します。
今回の記事は、この手の記事に対して批判的な意見となる「スマホを使用している分だけ勉強や睡眠にあてる時間が短くなるから」という主張を崩すものとなっているのです。
では実際にはどのような結論を導き出した記事なのでしょうか。
記事の中身
記事の流れとしては「榊浩平(著)川島隆太(監修)『スマホはどこまで脳を壊すか』(朝日新聞出版)」の2018年の調査やグラフを用いながら進めていくものです。
その中で特徴的なのは以下の点です。
ではその驚くべき事実について見てみると、以下のような調査結果を利用しています。
要はスマホ利用時間が長いほど成績が低い傾向を表すデータです。
そして最後のデータがスマホを1日に3時間以上使用する生徒のデータです。そこには当然ながら成績上位者はおらず、彼らは睡眠時間や勉強時間があっても成績が低いことが示されています。
それに対しての分析が以下のものです。
ここではスマホを3時間以上使用する子供の場合、学習時間が3時間を超えていても成績が下位であることに注目し、スマホそのものが学力影響を与えている可能性を示唆しています。
この分析の胡散臭さ
この分析はあまりにも自分の誘導したい方向を向きすぎたものです。なぜならば、このアンケートの回答自体に信ぴょう性が感じられないからです。
例えば1日に3時間以上スマホを利用する子供がそれに加えて3時間以上の学習をすることが可能でしょうか。仮に睡眠時間を不足としない場合、7時間は睡眠時間を確保する必要があります。その場合、常識的な登校時刻から起床時間を想定すると就寝時間は24時と設定するのが自然です。小学生が学校が終わって家に帰りつくのは16時~17時。食事や入浴などの時間を抜くと7時間程度しかありません。仮にスマホを3時間もする子供が、残りの4時間を学習に使っていると考えるのはどう考えても不自然です。
また、中学生の場合はさらに帰宅時間が後ろにずれ込みます。こちらにしてもどう考えても学習時間が確保できるわけもなく、仮に学習時間を無理やり設定した場合はスマホの時間を夜間の寝床で利用している可能性もあります。どちらにして学習、睡眠時間が十分に確保できる可能性は低いでしょう。
加えて言えば、成績上位者の多くは学習塾を利用しています。彼らのスケジュールを考慮すればスマホを3時間使える可能性は低く、スマホ3時間集団にはその層は存在しないことも自明でしょう。
また脳機能に関しても写真を使っての説明がなされています。インターネットを長時間使用した子供の脳に成長阻害が見られるという調査です。しかしこれにしてもインターネットという特定のものしか刺激を受けない生活をしたために脳機能の成長に異常が見られた可能性があります。この調査はネットをした、していないではなくネット以外の何か特定のものに傾注した状況と比較しなければ意味がありません。
正直なところ、このデータと記事ではスマホを悪の権化とするには少々無理があるように感じます。
自己管理能力が低下するのか、低い層がスマホ中毒となるのか
こうした批判に対してよくあるのが、スマホの依存性を危惧する意見です。スマホがいわゆる「報酬系」を刺激する道具であることは異論ありませんし依存性があるのは事実でしょう。
しかし、それは買い物などの子供でも可能な行動でも同じです。少なくともスマホが極端にそれらよりも凶悪な依存性を持っているという定量的なデータは存在しませんし、仮にそれが明るみになれば年齢や利用時間などが法律で制限を受けるでしょう。事実酒やたばこは未成年に許可されない行為なのです。
そもそも成績上位層はその大前提として自己管理能力が高いがゆえに、その成績を維持しています。自己管理ができない層がスマホ中毒になるのは必然であり、彼らがスマホを持てば成績が悪化するのは特段不自然なことではないはずです。
悪玉論を疑う
こうした新しい技術や文化に対して、現代社会が欠ける問題の諸悪の根源であるとする「○○悪玉論」は手を変え品を変え時代ごとに表れています。
かつては「小説」、「映画」、「テレビ」、「マンガ」、「アニメ」、「ゲーム」などが存在し、今回はその対象にスマホが移ったというだけなのです。
事実、これらはかつては「○○をすると馬鹿になる」と揶揄されていましたものでした。しかし今や小説読みはインテリ扱い、映画は高尚な趣味、テレビは正確な情報を伝えるメディア、マンガやアニメはcoolJapanとして海外へ輸出、ゲームはプロスポーツ扱いです。
結局のところ普及が進み、一定割合の人間に受け入れられさえすれば定着するのです。その後には、這いつくばっておこぼれにあずかろうとする人間たちと彼らにほめそやされ、いっぱしの文化扱いへと変化する出世物語がみられるというのはなかなかの皮肉でしょう。
今回のスマホ悪玉論を全否定するつもりはありません。少なくともこれまでやっていたことを機械に譲り「楽」をしようとする道具であるのは間違いないからです。しかしそれをズル、堕落と捉えるか、時短や効率化、省力化ととらえるかはその考え方ひとつです。
明確に何が悪いものかなど、一市民には分かるはずもありません。ただ少なくとも私は、新しい技術や道具を否定する懐古主義者にはなりたくないという思いがあるだけなのです。
時代に即した技術を否定せず、その可能性を最大限に引き出すことこそが、人類の未来を形作ると信じているのです。
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