経済的負担が不満ならば部活動をするべきでは無いというのは暴論か
公立中学校の部活動の地域移行が徐々に進んでいます。
しかしその一方で経済的負担に関する懸念が広がっているようです。
これまでが異常だったという認識が必要
費用負担に関してはさまざまな議論がなされていますが、この議論の前提としなければならない事が一つだけ存在します。
それはこれまでが異常だったという認識を持つ事です。
これまで部活動は費用負担をほとんどせずに生徒は活動をする事ができました。
もちろんユニフォームや個人利用の道具類に関しては個人で負担していましたが、それ以外のもの、特に講師への謝礼や授業料を個人が負担する事はありませんでした。
しかし、よく考えたらこれはあまりにも異常な事です。
同じスポーツで考えればよくわかりますが、例えばスイミングスクールに無料で通う事は可能でしょうか。
文化活動で言えば、ピアノや書道を学ぶのに無料という事はあるでしょうか。
特殊なスキルを学ぶために特殊なスキルを持つ人から教えを乞い、それ相応の報酬を払うというのは当然の仕組みです。
どうして野球やサッカーだけはそんな当たり前が成立しないと言えるのでしょうか。
(クラブチームならばそんな当たり前が成立しているのに、です)
部活動での教育効果はあくまでも個人的な価値でしかない
学校という教育機関においては、義務教育の場合その費用負担は存在しません。
(もちろん諸費用はありますが)
それは実際には負担をしていないのではなく、社会全体で広く浅く費用を間接的に負担しているために負担に気づかないだけなのです。
このシステムは学校が提供する教育が社会にとって有益であり、その教育は個人に資する以上に社会全体に価値を生み出すと見なされているために成立しています。
では、部活動はどうでしょうか。
そもそも部活動は学校の正規の活動ではなく、あくまでも課外活動とされています。
つまり、その活動を通じた個人の成長は当然存在するが、それは公的負担をする価値は無いと社会全体で認識しているという事です。
そのために学校は教員に部活動に関する報酬は支払わないし、あくまでもボランティアとして位置付けられているのです。
部活動が贅沢品であると受け入れる時期が来ている
残念ながら日本の人口は減少し、その経済力は低下傾向にあります。
経済成長も中期的には困難であり、これまでと同じサービスが当たり前のように受けられる時代ではなくなっています。
それは部活動も同様です。
もはや部活動は贅沢品であり、正規の授業以外のスポーツや文化活動はきちんと費用負担ができる層に許された道楽、趣味、修養となっているのです。
こうした庶民にとって不都合で不条理な現実は受け入れる時期が来ています。
それが出来ないのであれば、より重要度な高い公的サービスまで削減されかねない状況が今の日本の現実なのではないでしょうか。
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