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西鉄バスジャック事件24年後の教訓:少年犯罪と社会の責任


西鉄バスジャック事件から24年

1999年5月3日、福岡県で西鉄バスジャック事件が発生しました。この事件は、17歳の少年が西鉄バスをジャックし、包丁で乗客を刺殺したものでした。少年はインターネット上で「ネオむぎ茶」というハンドルネームを使い、事件の計画を予告していたのです。

この事件は日本社会に大きな衝撃を与え、少年犯罪に対する厳罰化の議論を巻き起こしました。この事件に関わる記事を先日見かけたので、今回はその記事の感想を踏まえて自身の考えをまとめていきたいと思います。

少年犯罪の厳罰化の是非

西鉄バスジャック事件を機に、少年犯罪に対する厳罰化の声が高まりました。多くの人々が少年の残忍な行為に対して怒りを覚え、厳しい処罰を求めたからです。

少年法の改正や少年院の強化など、法的な対応もある程度は進められましたが、厳罰化が本当に解決策となるのかという点については、依然として議論が続いています。

厳罰化は一見、犯罪の抑止力となるように思えます。しかし、少年犯罪の背後には複雑な社会問題が存在するのがほとんどです。家庭環境の悪化、学校でのいじめ、社会的孤立などが原因となっている場合が多く、厳罰化だけでは根本的な解決にはならないという意見もあります。むしろ、少年たちが犯罪に至る前に支援する仕組みが必要だという声も少なくありません。

少年犯罪は社会の責任というきれいごと

そうした事実を踏まえると、少年犯罪が発生するたびに出る「社会の責任」という言葉は非常に信ぴょう性があるように感じます。確かに、社会全体として少年たちを支える体制を整えることは必要不可欠です。

しかし、「社会の責任」という言葉だけで片付けてしまうことには危険もあるでしょう。個々の少年の行動を社会全体の責任に帰することは、個人の責任を曖昧にしてしまう恐れがあるからです。

仮に自分自身や家族、友人が被害者となった場合、同じ言葉を口にすることはできるでしょうか。私は自分自身を比較的法理論理と感情論を区別できるタイプだと自己評価しています。しかし、そんな私でも少年だから更生、教育を建前にして軽い刑罰しか受けない、という状況が目の間に存在した場合、それを看過できる自信はありません。

少年の懺悔を受け入れることができるか

事件から24年が経過した今、あの少年は成人し、自らの罪と向き合っているのでしょうか。少年犯罪者が犯した罪に対して懺悔し、更生を目指す姿勢を示すことは社会復帰にとっては重要なプロセスです。しかし、被害者やその家族にとって、加害者の懺悔を受け入れることは容易ではありません。

被害者の痛みや怒りは計り知れないものであり、加害者がどれだけ反省しても、その罪が消えることはありません。懺悔を受け入れることができるかどうかは、被害者の心情に大きく依存するものです。

極論を言えば、被害者は加害者の懺悔を受け入れる必要がないのではないか、と私は考えています。また懺悔を受け入れることを是とする圧力を社会が醸成しないような報道がなされるべきです。

しかしその一方で社会全体としては粛々と更生を支援し、再犯を防ぐための取り組みを整備、継続することが必要でしょう。

終わりに

西鉄バスジャック事件から24年が経ち、少年犯罪に対する社会の視点や対応も変わってきました。厳罰化の議論は依然として続いていますが、同時に社会全体での支援体制の構築も進められています。少年犯罪は社会の責任と個人の責任が交錯する複雑な問題であり、一筋縄では解決できません。

私たちが忘れてはならないのは、犯罪の厳罰化を叫ぶことも、更生のための支援の充実に力を注ぐことも重要だが、それだけではないということです。それらは否定するべきではありませんが、真に求められているのはそうした犯罪を起こさないように事前に予防する仕組みの構築です。

日本の福祉体制そのものは決して脆弱ではありません。少なくとも制度自体は世界の国々の中でも充実しているのは間違いないでしょう。しかし、そうした制度が上手く利用されていないという問題があるのも事実です。貧困や孤独などの犯罪を誘発する因子を洗い出し、事件が起こる前にいかに福祉につなげるかを事件の反省とすべきなのではないでしょうか。

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