入試の付き添いで気づいた、デジタルデトックスは苦痛とストレス
先日、子供の入学試験があり、私は保護者として小学校に付き添いに行きました。
保護者も面接試験があるのですが、それ以外の時間は基本的に待ち時間となります。
このご時世ですから、コロナ感染予防から待機室の体育館のドアや窓は開けっぱなしとなっています。
かろうじて大型のストーブを準備していただいていましたが、寒さに耐える半日となりました。
とはいえ、体育館で寒い中長時間待つ、という情報自体は事前にわかっていたため、カイロをお腹と腰に貼り、タイツは2枚重ねなど万全の体制をとっって臨みました。その結果、大変ではありましたが耐えられないほどではありませんでした。
それよりも、個人的に堪えたのが「携帯電話の利用をお控えください」という注意、警告です。
受験の内容の外部流出を防ぐ
説明会や事前のオリエンテーリングで注意を受けたのが、面接内容を事前に知ることがないように、携帯電話の利用をお控えくださいということでした。
説明の中でありましたが、今回の受験者の保護者間で面接内容を話されたり、コロナ対応による追試験受験者への公平性の確保、というのが建前のようです。
(この公平性は微妙ではあります。本来、面接試験の内容を漏らしたくない場合は、受験前後の受験者の待機場所を分けるべきです。また、後日の追試験受験者に対しては本試験の内容を知る、知らないに関係ない試験を行うのが道理です。)
とりあえずは決まりですので、それに従いおよそ半日の間、スマホもタブレットもPCも使わない状況で待つことになったわけです。
デジタルデトックスは苦痛を伴う
こうしたデジタルデトックスを好意的に受け取る方も多いようです。
SNSなどで情報の氾濫に疲弊している人などは、そうしたストレスから解放されるという効果もあります。
では、私の場合はどうでしょうか。
正直、このオフライン状態の半日が本当に苦痛でたまりませんでした。
時間つぶしも兼ねて、自分の考えをまとめるために手帳に記録をまとめていましたが、引用や参考資料をその場で探すことができないというのが本当にしんどかったです。
また、不正確な情報や知識から組み上げることに頼りなさを常に感じ、知識の無い中で物を書くことがまさに砂上の楼閣を建てるようなものと痛感しました。
デジタルデトックスの正の側面
もちろん、こうしたデジタルデトックスは全く意味がないわけではありません。
普段と異なり、自分の頭と知識だけで組み上げる作業は、独自性を持たせやすいですし、何よりも知的遊戯としての価値はあります。
また、論理構成を常に見返すなど、普段よりも数倍は頭を働かせることができます。
しかし、出来上がったものの完成度はやはり、普段のものと比較して数段落ちるものしかできないようです。
ここから分かったことは、私たちは20、30年前と比較してかなり知的レベルがベースアップできているのではないか、ということです。
ネットの無い時代、ある時代
ネットの無い時代、他者の考えや思考を学ぶためには図書館などの特定の施設に行って、そこで文献を探して引用する必要がありました。
現代では、多くの論文などの知的生産物の多くはネット上に公開されており、ある程度は検索をかけるだけで見ることが可能です。
スマホ時代になってからはそうした検索を、場所や時間を選ばずに可能にさえなったわけです。
この結果、私たちはネット上の多くの知恵や知識を外部記憶としてリアルタイムにアクセスできるようになったわけです。
これは明らかにこれまでの時代の人たちと比較して、能力の著しい向上といえるのではないでしょうか。
これを能力の向上と定義することに反対の方も多いとは思いますが、生物学的進化ではなく、情報科学的な進化を人類が遂げたと考えることは決して間違いではないと私は思うのです。
スマホ依存症ではない…はず
私は特段、スマホ依存症というほどではありません。LINEやSNSをそれほど頻繁にチェックしているわけではありません。(そのはずです)
しかし、必要な知識の確認、知らない語彙、参考資料などを使いたいときに使えないことにはとてつもないストレスを感じます。
可能ならば、デバイスを介してではなく、ダイレクトに脳内でリアルタイムに検索をかけ続けたいぐらいに情報に飢えています。
そう考えてみると、どうやら私はデジタルデトックスに最も向かないタイプの人間なのかもしれません。
これを読んでいる方も試してみて、自分に合うのか合わないのか、試してみるとよいかもしれません。
はたしてどちらの方が幸せなのか、それは不明ですが。