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忙しいふりをする練習

忙しいふりをする。というのは現代において必須のスキルのように思える。

というのも世の中の「しなければいけない」ことのほとんどが、実際の中身をどうこう問われるよりも、その中身をいかに良く見せるかに焦点が当てられているからだ。

思い返すと、僕たちは幼少期から忙しいふりをする練習を重ねてきた、と言えるのではないだろうか。

例えば小学校から中学校の掃除の時間を思い浮かべてほしい、自分のやるべき掃除の担当場所を終えると、ほとんどの人は友達と喋って時間を潰していたはずだ。

しかし、先生の気配が近づいてきた途端、僕たちは他にも掃除場所が残っているように、掃除場所を探し出す(忙しいふりをする)。いっときの真面目さの演出に時間と労力を使うわけだ。

ここでは、実際に掃除をしているかどうかは関係ない。同じ場所を掃除することもあるし、掃除をしていなくても誰も気にもとめないような場所をわざわざ見つけ出して、掃除をして当然であるかのように振る舞い続けるのである。

そして僕は気づいてしまったのだが、世の中をうまく生きるコツというのは、この「忙しいふりをする能力」が高いこととほぼ直結するのではないだろうか。

先の例で言えば、学校では掃除を効率良く手早く終わらせることより、時間内でできる限り掃除をしているふうに見せかけることの方が評価の対象になってしまう。このようなことが、社会生活のありとあらゆるところに浸透してきているように感じる。

バイト先では、与えられた仕事を手早くこなすのはナンセンス。なるべく、時間をかけて仕事をやっているように振る舞うのが理想である。また、大学の講義では、話し合いの要点をまとめて手短に終えることよりも、会話が煮詰まりつつも肝心な答えが出ないように振る舞うことの方が重要である。

監視の目が届く範囲では、なるべく会話を絶やさないことの方が重要だからだ。

これらのことは全て社会に出て必要となるスキルであると考えている。

なぜなら僕たちは社会人になる、大人になる、ということは現代においてはやりがいはあれど本当に忙しくて低賃金の仕事をするか、あたかも自分達の仕事は有意義であるかのように忙しいふりをしてまともな給料をもらうかの二つでしか無くなっている。ということに薄々気づき始めているからだ。

僕が嫌なのは、このように忙しいふりをする、ということが日常生活にも介入してきているのではないかと疑問に思えるからである。例えば、面接書類に書ける資格を取得することに人生の目的を見出しているような人は昔よりずっと増えたのではないだろうか?そうして資格取得の勉強をして、忙しくしていることがさも有意義なことのように語られてしまっている。

さらにいえば「遊ぶ」ということさえ、忙しいふりをする一種のゲームに絡め取られてしまったようだ。どのような体験をすることが1番魅力的な自分になれるか、個性的になれるかという評価経済のシステムにうまく組み込まれてしまっている。

その中では、何もしないことは悪であり、地味であり「ダサい」ということになっている。こうして、仕事という公的な側面でも、かたや休日をどう過ごすかという日常的な側面でも「忙しいふりをする」ことの方が重要になったというわけだ。

裸の王様になるためには「忙しさ」という布を纏って、踊り続けなければならない。

つまり、現代人たるならば、忙しいふりをする練習が必要なのである。

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