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ミカと吉松、リリベルから『リコリス・リコイル』を捉えなおす。

リコリス・リコイルを見たわけだけど、最後千束が亡くなるのではなく生きる描写なのが単なる自己犠牲の賛美に回収されなくてよかった。露骨な性描写やローアングルもなくてストーリーに無駄がないのもいい。内容についてはもう言わずもがななので、リコリス・リコイルを見ていて思ったことを書いていきたい。


ミカと吉松シンジの関係について

まず何よりこのアニメでデカい存在はミカと吉松シンジだと思う。ミカという黒人(見た目が)でゲイセクシャリティの描写が日本アニメに入ってくる意味はかなり重要なのではないか。

ミカと吉松は元々恋人関係でゲイセクシャルであったことが遠回しに示されている。このセクシャルな関係性がリコリス・リコイルをただのガンアクションアニメではない複雑な人間ドラマのある作品へと深めている。

考えてみると、今までのアニメが人種やジェンダーを縛りすぎていたのかもしれない。オネエキャラや性に奔放すぎるキャラなど、ステレオタイプで誇張されたジェンダーの描き方しかしてこなかったために、セクシャリティが全て性的興奮材料かギャグにしか寄与してこなかったように思える。

だからこそリコリス・リコイルのあくまで現実的、過度な描写を抑えたゲイセクシャリティは単純化されていないゆえに物語に複雑性を与えている。それは概念ではなく端的な事実として、同性愛が存在することを描いているからではないだろうか。

もちろん複雑な人間ドラマ、セクシャリティを描いてきたアニメは過去にもあっただろうが、ここで重要なのはそれが美少女アニメに輸入されたということである。(美少女アニメという言葉ももう古い気がするが他に言葉が浮かばなかった、、、)

ゲイセクシャルやレズビアン、バイセクシャルという設定はあってもここまでリアルな描写を美少女アニメにおいてはしていなかった。だからこそ、人の多様性を描き出すと物語がグッと深くなるということをリコリスリコイルは実証できたのではないだろうか。

ミカの存在によって物語が明るすぎず、トーンを落としたシリアスな場面を演出できる。ミカと吉松がいなかったらただのガンアクション美少女アニメになっていただろうし、もっと特撮っぽいアニメになっていた気がする。

とはいえ疑問点としてはミカと吉松とリコリスの対比、作画の違い(年齢差やシリアスすぎるとこも含めて)が若干の認知不和を起こしていると言えなくもない。

(第七話のバーでミカと吉松が千束について話し合っている時なんかは別のアニメを見ている気持ちになった)

そこのノイズって今までの日常系(?)アニメになかったものだから慣れていなかったのかもしれない。


リリベルを描けない日常系の限界

恋愛要素の排除という点から考えてみると。リリベルという「男子」が疎外、対立されているのも恋愛要素の種を持ち込ませないためだろう。
リコリス・リコイルは「異性」の排除をしているという点では日常系アニメのコードを利用している。

日常系アニメは女性同士の友情、若干百合要素を含んでいて、女性だけの世界で完結している特徴が挙げられる。男性がいない女性の世界を男性が見るという窃視症的なアニメ群だといえる。

その点ミカは千束の保護者としての男性であり、しかもゲイセクシャルであることによって、千束やたきなにとって恋愛関係にはならないことを端的に意味している。ミカと吉松は日常系アニメに侵食することのない特異な「男性」なのだ。
日常系を維持するためにゲイというコードまで使っているのがある意味徹底していると言えなくもない。 

そのようにすれば日常系アニメの拡張として『リコリス・リコイル』があることがわかる。だからこそ、男子部隊のリリベルを描くことの難しさがあったはずだ。

リリベルとはリコリスの男子部隊版と単純に考えられているが、決して両者は協力体制ではなくむしろ敵対しており、コロシアイの関係であることが語られている。しかし、リリベルが具体的に出てくるのは12話においてのみであり、それも個人のキャラクターとして出てくることはない。つまり、集団としてのリリベルしか描かれていないということである。

日常系アニメとしては、ここで個人のリリベルを描いてしまうと世界観が崩れてしまうことになる。千束とたきなの友情モノとしての演出が消えてしまうのだ。だからこそ男子個人の排除によりあくまで集団としての描写に留まらせているのである。

これをリコリス・リコイルの限界として捉えてもいいのかもしれない。現在の美少女アニメにおいては男子が出てくること=異性間の恋愛につながってしまう解釈を与えてしまうことになるからだ。

ヘテロのコードを使わないように日常系アニメ、美少女アニメとして作品を作りつつ人間ドラマとして昇華する。そのためにもミカと吉松の関係が重要であり必要であったと考えられる。

そう考えてみると真島も結構危うい存在ではあったが、本人も述べているとおりバランサーとして立ち回ってくれていたようだ。


(という考察を長々してみたけど、普通にリリベルに関しては尺の問題っぽい気がしなくもない)

最後に、自己犠牲について

冒頭で千束が生きることによって自己犠牲に回収されなくてよかったということを述べたが、自己犠牲とはそもそもなにか、千束の行為は自己犠牲的だったのかについて考えてみた。

千束は第11話において自分が生きるために恩師である吉松を撃ち殺すかという選択を迫られたときに、撃たないことを選択する。そこで千束が助かってほしいという思いから、たきなは吉松を千束の代わりに撃とうとするシーンがあるが千束に止められてしまう。

「ヨシさんを殺して生きても、それはもう私じゃない。」

この言葉を単なる自己犠牲ととるか、千束のひとつの選択ととるかで大きく話が変わってしまう。

そのためにも自己犠牲についてちょっと考え直してみたい。

まず自己犠牲とは常に自分が我慢することへの賛美が含まれていると言えないだろうか。それは自分が痛い思いをすることそのものを尊ぶ行為だといえる。それゆえに痛みこそが尊いものであるという認識に自己犠牲の精神は結びついてしまう。

ここで先ほどの千束の選択と行為について考えてみると、それは自己犠牲的であったと言えるのだろうか。

我慢をすることでいうと千束は吉松を殺して自分だけが生きることこそが苦痛であり、我慢をすることになり。それを受け入れてはいない。だからこそ殺さないという選択をしている。

ここで吉松を殺してしまったら、それこそ罪の意識を背負ったまま千束は生きていくことになり、その罪の意識は自己犠牲としての罰として描かれてしまうだろう。

だからこそ千束は自分が我慢しないためにも吉松を殺さないで残りの人生を生きることを選択したのだ。

その上で千束は訪れる自分の死を淡々と受け入れている。自らの選択を自己犠牲と呼べるほど感動的なものとして捉えてはいない。それはたきなにかける言葉にもよく表されている。

「でも、私はホントはもういないはずの人。ヨシさんに生かされたからたきなにも出会えた。私だけじゃない。お別れのときは、みんなに来るよ。でもそれは今日じゃない」

「私だけじゃない。お別れのときは、みんなに来るよ」という言葉によって、死を個人に集約するのではなく、あくまで全体の中でのひとつの事実として捉えていることになり。そこにはドラマティックな視点を含まないことを意味する。
また千束は”存在しないはずだった自分が生きれたからこそたきなにも出会えた、そして別れは今日じゃない”と述べたことから、吉松を殺さないことによる自分の死を甘受するどころか、むしろこれまでとこれからの自らの生を讃歌をしたことになる。千束にとって死は客観的な事実であり、生は奇跡的でドラマティックなものなのだ。

だからこそ千束の行為と選択は自己犠牲的なのではなく、千束なりの積極的な生の肯定であったといえるだろう。 少なくとも僕にはそのように解釈できたのだ。

このようにオチがついたところでリコリス・リコイルを自分なりに捉え直す作業は一旦区切りをつけたいと思う。長々と書いたけど単純に作品として良かった、面白かったと言うのが1番の感想だったりするわけです。

あとどうでもいいけど千束って打つ時にチサトと打っても全く予測変換に出てこないから毎回センタバって打って変換していたのが若干の手間だった(どうでもいい)。

もしかしたら追記するかも。ここまで読んでくれてありがとうございました!


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