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【読了】やめるときも、すこやかなるときも

誰もが傷を負って生きている。それぞれ形も深さも色も違う。違うが故に側からは見えないもの。そんな当たり前を深く突きつけられる。
それと同時に、欠けた心同士がぎこちなくも融和していく様子が、愛おしさとなって目の奥に染み込んでいく。


壁のカレンダーを見た。もうすぐ十二月。三十一個ある数字のひとつに僕の視線が止まる。今年もまたその日がやってくるのかと思う。

暦の中のとある一日、ありふれた風景の一角、何気なく交わした会話。自分以外の誰もが気にも留めないものに自分だけが心を乱される。いやに呼び起こされる記憶がある。彼にもまた、思い出と昇華するにはあまりに悲痛な過去が消えずに残っていると思うと、眉が脳の裏側から引きつられるような感覚だった。


僕はその夜になにか大事なものをあの古ぼけたホテルの一室でなくしてしまったのかもしれなかった。

記憶を覗かれたような気分だった。
「何か大事なもの」とは何か。僕にはわからない。彼と同じように喪失感に共感はできても、何をなくしてしまったのかがわからない。それが傷が塞がらない原因なのだろうか。
最後に見つめ合ったあの時に、なぜか止めどなく零れた涙。白い肌へと落ちる雫に混じり、何かが僕の中から抜けていった。
赤らむ頬の愛おしさと、重ね合わせ伝わる体温の心地良さと、それ以外の全てを記憶の奥底に磔にして。
行き場のない愛を抱えたまま決別を選択した自分は正しかったのか。心の玉座に置かれたままの錆びれたそれを捨てられないまま時は流れている。
彼もまた、同じなのではないかと酷く共感した。


「......この人だと......やっと思えたんだろう。俺みたいになるなよ。一人になるなよ、」

一人が駄目だとは思わない。
だが、病床の折、思い出すように、悔やむように、導くように伝えるその言葉には、どうしようもならない無念が込められている。
唯一の愛が実らないまま死に迫った時にこんなにも思いやりのある言葉が言えるだろうか。

その温かさを私は受け止めてもいいのだろうか。ほんの一瞬そう思ったけれど、私はその手をもう離すことはできなかった。

愛の傍には不安が付き添うものかもしれない。
それでも、始まる前に終わってしまうよりはずっと良い。手放すことができないような、そんな相手に出会えた彼女はきっと幸せなのだ。もう縛られることも突き放されることもない。
抱えた心の傷は不意に、そして自分が思っていたよりもたやすく癒えることがあるのだろう。

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「やめるときも、すこやかなるときも」
この言葉の印象とはやや違って見えた二人の関係性。
だけど、二人を見ていると少しだけ、自分の中の濁った記憶が透き通っていくような気がした。