日本人とは純ジャパのことである、という幻想—◯◯系日本人という考え方
私は日本人の考える純粋な日本人、つまり「純ジャパ」そのものだ。日本人の両親を持ち、日本で生まれ育ち、日本の教育を受け、日本で働いた経験がある。そして4年ほど前にニューヨークに移り住むまで、海外に住んだ経験はなかった。こちらで会う日本人の方に「留学経験があるんですか?」「小さい頃海外に住んでいたんですか?」とよく聞かれるが、「いえいえ純ジャパです」とつい答えてしまう自分がいる。
しかし、典型的な日本人である私でも、ニューヨークにいると「日本人」ってなんだ?と考えさせられる出来事が多々ある。
ニューヨークで遭遇する「日本人」たち
ニューヨークの街中で日本語を話していると、日本語を解するニューヨーカー(見た目が日本人のようには見えない人)から日本語で話しかけられることが度々ある。よくあるのは、日本の文化が好きで、日本語が少し分かる、または勉強中で、日本語が聞こえて来て嬉しくなり話しかけてくるパターン。次に多いのが、流暢な日本語で話しかけて来て「私は日本人」と言ってくるパターン。今回言及したいのは、後者のパターンである。
インド人のように見える日本人
ある日、住んでいるマンションのエレベーターで日本語を話しているとインド人のように見える人に流暢な日本語で話しかけられた。「なぜそんなに日本語が上手なの?」と聞くと「日本人だから」との答え。「純ジャパ」にとらわれているその時の私は冗談を言われたのかと思い、つい「え、本当?」と聞いてしまった。彼は少し悲しそうにこう答える。
「日本で生まれて日本で育ったんだもん、私日本人だよ」
後日、彼の妻とその子どもたち(中学生くらい)と同じようにエレベーターで遭遇した。彼の家族はみな、インド人に見える。彼の妻は日本語で話せるのが嬉しいのか、私にどんどん話しかけてくる。印象的だったのは子どもたちのリアクション。
「ちょっと、恥ずかしいからやめてよ」
と小声で母親を止めに入っている。私とは目を合わせようとしない。子どもたちは見た目はインド人だけれども、仕草や話す言葉は日本人のように見える。以前、インド人に見える彼が主張したことは本当だったようだ。
フィリピン人のように見える日本人
ある日、近所のカフェでコーヒーを注文した。店員さんは最初、英語で応対してきたのだが、私たちが日本人だと分かると日本語で話しかけてきた。ネイティブレベルの日本語である。いつものように「なぜそんなに日本語が上手なの?」と聞くと、彼もまた「僕は日本人です」と答えた。
「両親はフィリピン人、でも僕が小さい頃に移住したので日本で育ちました。5年前にニューヨークに来るまで、ずっと日本に住んでました。最近英語しか使わないから日本語が変になってないといいけど」
そして彼は「ありがとうございます、また来てくださいね」と言って小さくお辞儀をした。
アメリカで生まれた人はどんな人種でもアメリカ人
この2つの経験から、彼らは血統でなく育ちやメンタリティで「私は日本人」だと言っているのだと理解した。そのことは、純ジャパが日本人だと信じていた私に大きな衝撃を与えた。
アメリカでは、アメリカで育ったアメリカ国籍をもつ人はどんな民族であろうと◯◯系アメリカ人と呼ばれる。日系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、インド系アメリカ人…。同じように、私がニューヨークで出会った「日本人」たちはそれぞれ、インド系日本人、フィリピン系日本人、という認識なのだと思う。
◯◯系日本人という呼び名が馴染まない日本
ところが、日本では◯◯系日本人という呼び名が一般的ではない。彼らは日本に住んでいたとき、在日インド人、在日フィリピン人と呼ばれていたのだろう。血統主義が色濃く残る日本では、彼らはあくまでも外国人という位置づけだ。こう考えたとき、作家の金城一紀さんが自らのことを「コリアンジャパニーズ」と呼んでいたことを思い出した。
そのときは理解できなかった「コリアンジャパニーズ」というこだわり
私は中学生のとき『GO』という小説と映画が好きだった。この作品は私に「日本には自分のことが何人かわからず悩む人がいる」ということを教えてくれた(私にはない悩みだった)。日本では在日と呼ばれ、祖国では外国人だとみなされる。日本には日本人しかいないと思っていた私に、アイデンティティに悩む若者の姿は新鮮であり、自分の狭い視野を広げるきっかけになった。
その作者、金城一紀さんはアイデンティティに悩んだ末、自身のことを在日韓国人三世ではなく「コリアンジャパニーズ」と呼ぶことにしたようだ。私は当時、その呼称へのこだわりが理解できなかった。在日韓国人もコリアンジャパニーズも同じではないのか?と思っていた。
しかし、今なら分かる。在日韓国人はあくまで外国人に対する呼称で、日本に住んでいる韓国人。コリアンジャパニーズは韓国系の日本人。大きな違いである。あの時好きだったあの小説の作者がこだわっていたことに、今になってやっと私は気付くことができた。
複数の国籍を持つ子どもたち
今では国際結婚で生まれた子どもたち、いわゆる「ハーフ」(ダブル、ミックスと呼ぶ方が好ましいが、ここでは一般に知られている呼称を使う)の子が日本でも増えて来ている。日本にいると、「自分は何人なのか」で悩んだり、差別されたりすることも多いかもしれない。しかし、ニューヨークにいると「ハーフ」のように国籍を複数もつ子は多い。
私の日本人の友人には、イギリス人の夫がいる。彼女はニューヨークで出産したので、彼女の息子は日本、イギリス、アメリカの国籍を持っている。
複数国籍をもつのは「ハーフ」の子ども達だけではない。私の息子は、日本人の両親をもちながら、出生地主義のアメリカで生まれたため、日本とアメリカの二重国籍である。彼はまだ、日本に行ったことがない。もし、数年で日本に本帰国するなら、私の息子は「帰国子女」ということになるのだろう。しかし私たち夫婦は、今のところ日本に本帰国する予定はないし、アメリカ以外の国にも住んでみたいと思っている。もしこのままアメリカに住み続けるとしたら、彼は日系アメリカ人になるのだろう。
自分は何者なのか、自分で決める時代
日本は複数国籍を持つことを許可していないので、私の息子はいつか、自分の国籍を選択することになる。だから私自身は「純ジャパ」なのだが、複数の国籍(その中に日本国籍)をもつ人の動向が気になる。
そのなかのひとり、大坂なおみ選手はスポーツ選手という特殊な状況から、登録国をひとつ選択しなければならない。彼女がどの国の国籍を取得するのか、ということに注目が集まっているが、私は彼女が自分についてどう思っているのか、ということに関心があった。だから、アイデンティティについて問われたときの彼女の答えに救われた気がした。(この質問に関しては、彼女に失礼だ、という批判が多いのも事実だが。)
「私は私」
他の人に「容貌が日本人らしくない」と言われようと、「しぐさやメンタリティが日本人らしい」と言われようと、彼女という存在が揺らぐことはない。自分が何者なのかは、自分で決める。私の息子も彼女のように、他の人に何と言われようと自分らしくある存在でいてほしい、と強く感じた。
日本人=「純ジャパ」という方程式はもはや成り立たない
日本は、単一民族国家であると思われている。確かに、日本に久しぶりに帰国すると、すれ違う人のほとんどが日本人なので、この言葉を信じてしまいそうになる。しかしそれと同時に、私が日本に住んでいた頃と比べると、日本国外から来た旅行者が随分増え、日本人も海外の人に慣れて来たように見える。また、血統的に日本人ではない人や、複数の文化的背景を持つ人も増えている。もはや、日本人=「純ジャパ」という考えは幻想になっている。
私は自分をずっと「純ジャパ」だと思って生きてきた。しかし、私はこのまま3年間アメリカに住み続ければ、アメリカ市民権を取得することができる。日本は二重国籍を認めていないので、もしそのような選択をするとしたら、私は日本国籍を放棄しなければならない。そうすれば私は書類の上では日本人ではなくなる。
日本人に見える人でも日本人ではないかもしれないし、日本人に見えない人でも日本人なのかもしれない。生まれてからのほとんどをアメリカで過ごしている私の息子も、日本国籍を選択するかもしれないし、「純ジャパ」である私も、いつか日本人でなくなるのかもしれない。
これからの時代、あの人は◯◯人だ、と定義付けすることは、もはや意味がないのかもしれない。これから「あの人は日本人だと認められない」という発言が出てくることがないように、「自分が何者なのかを決めるのは私」という考えが浸透して行けばいいと思う。
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