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【~連載~静岡の歴史を学ぼう219】Why was the position called 'Sumpu Jodai' created?  Part 1        なぜ「駿府城代」という役職が作られたのか パート1

※ この記事は「静岡移住計画Facebook」に掲載しております。

静岡市歴史博物館が注目されています。しかしここが元々、駿府城代の屋敷があった場所だとはあまり言われていません。そもそも駿府城代って何をしていたのでしょうか。また駿府城代という役職がなぜ出来たのでしょうか。

静岡市歴史博物館前に立つ
「駿府城代邸址」の石碑

Why was the position called 'Sumpu Jodai' created? Part 1

なぜ「駿府城代」という役職が作られたのか パート1

’Jodai’ was a samurai’s social position to manage a castle.

「城代」は城を管理する武士の役職です。

When looking over the translation of ‘Jodai’ in English, the meaning is defined as a "castle keeper".

「城代」を英語訳で調べてみると、その意味は「城の管理人」として規定されています。


駿府城 巽櫓 提供:静岡市

A high-ranking samurai from Edo was appointed as 'Sumpu Jodai' to manage the Sumpu Castle castle.

江戸から高い位の武士が駿府城を管理するために「駿府城代」として任命されました。

高い位の武士のイメージ

His term was about 5 years on average.

任期は平均5年くらいでした。

It is considered that this position was created due to unavoidable historical circumstances.

この役職はのっぴきならない歴史的事情により作られたと考えられます。

The first owner of the Sumpu Castle was of course Tokugawa Ieyasu.

駿府城の初代城主は言わずと知れた徳川家康でした。

徳川家康公像 駿府城公園にて

In 1609, this castle was succeeded by his tenth son, Tokugawa Yorinobu, who was just seven years old.

この城は彼の10男である、徳川頼宜に引き継がれました。彼はたったの7歳でした。

However, in 1619, he was moved to Wakayama by the second shogun Tokugawa Hidetada three years after Lord Ieyasu passed away.

しかし、家康公が亡くなった3年後、1619年、徳川頼宜は2代将軍徳川秀忠により、和歌山に移されました。

Tokugawa Yorinobu became the founder of Kishu han (domain).

徳川頼宜は紀州藩の始祖となりました。


徳川頼宜

It is believed that Hidetada wanted his son Tadanaga to be the owner of the Sumpu Castle, which was prestigious due to the foundation by Tokugawa Ieyasu.

秀忠は自分の息子の忠長に駿府城主となってほしかったと信じられています。この城は徳川家康が建てたため、権威があったからでした。

Tokugawa Tadanaga, Ieyasu’s grandson became the third owner of the Sumpu Castle.

徳川忠長は家康の孫で、駿府城の三代城主となりました。

徳川忠長

Unfortunately, he was not suitable to be the castle owner.

不幸なことに、彼は城主にはふさわしくありませんでした。

It is said that he was so jealous of his older brother, the third Shogun, Iemitsu.

彼は自分の兄である三代将軍家光に対し、嫉妬心を持っていたと言われています。

In his childhood, Tadanaga was so wise that he was expected to be the third shogun.

彼の幼少時代、忠長は賢かったので彼こそが三代将軍になると周りから思われました。

However, Tokugawa Ieyasu chose Iemitsu since he was the first son of the Tokugawa family.

しかし、徳川家康は徳川家の長男だからという理由で家光を選びました。

Lord Ieyasu wanted to keep the regulation that the first son succeeded the head of the family.

家康公はその家の長男が家を継ぐという規則を守りたかったのです。

Tadanaga became twisted and had problematic behaviors.

忠長は性格がひねくれ、問題行動を起こしました。

He was protected by his father, the second Shogun Hidetada while he was alive.

父である二代将軍秀忠が生きていた頃は、彼は父により守られていました。

However, after accumulating problems, the third shogun, his brother Iemitsu finally ordered Tadanaga to commit honorable suicide in 1632.

しかし、問題が重なって、1632年、彼の兄である三代将軍家光によりついに切腹を命じられました。

As a result, the Sumpu castle became an ownerless castle.

その結果、駿府城は城主のいない城となりました。

静岡市歴史博物館

(参考資料)

「駿府城」まるわかり   静岡市発行

徳川家康と駿府城下町  黒澤脩著 静岡谷島屋


駿府城代屋敷があった場所
駿府城全体模型より

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