都立大田工業高校 甲子園行くんだってよ



セレクション前日


6時間目終了のチャイムが鳴った。

帰りの学活も終わり、担任の先生が白くなったチョーク入れを持ち、「それでは、また明日」と言って教室を出ようとした時、振り返るようにして、「あ!鈴木、明日、玉川小杉高校野球部のセレクションだったな。

頑張ってこいよ」と、言った。

セレクションとは、野球の実技試験のことで、甲子園出場常連校などが、いい選手を、一般受験前に、自分の高校に引き入れようと行われる試験のこと。

セレクションとは、野球の実技試験のことで、甲子園出場常連校などが、いい選手を、一般受験前に、自分の高校に引き入れようと行われる試験のこと。

就職試験の、青田刈りのようなものである。

翼の前の席、小学生の頃から空き地を探しては一緒に野球をやり、中学でも、野球部で共に過ごした竹内が、

「じゃ、お前、明日、学校来ないんだ。

頑張れよ、区大会で決勝戦で負けて、都大会に行けなったけど、区大会準優勝。

なんせ、区内の首位打者だからな。

お前が受からない訳が無い。

リトルリーグ上がりになんか負けるなよ。

草野球魂、見せてやれ」と言って、腕をまくり、こぶしを振り上げた。

翼は、「おう、任せておけ。

でもな、区大会の決勝で負けたのは、お前のさよならエラーだぞ」と、翼は言った。

隣のクラスから、翼の幼馴染の麗華がやってきた。

麗華はテニス部で、3年生の夏の大会の後、引退したが、健康そのものの。

日焼けした顔で、ショートヘヤーが似合い、目じりがちょっと垂れた可愛らしい女の子。

学校のアイドル的存在だった。

天然なのが、たまに傷だが。

麗華は翼の前の席に後ろ向きに座り

「いよいよ明日だね」と、翼に言うと

「こりゃまた、お邪魔だね。

お先に失礼」と、言って、竹内は、カバンを肩に担ぎ、「じゃあな」と、言って教室を出て行った。

麗華は「区大会の決勝戦の後、玉川小杉高校の人が、セレクション受けに来てくれと言ったんだから大丈夫だよ。

私も、玉川小杉高校一本に決めたから。

チアガール部に入る。

絶対に甲子園に連れてってよ」と、言い、「はい、これ翼のラッキーカラー、

ブルーだったよね。お守り袋作ったから」と言って、青いお守り袋を翼に渡した。

青いお守り袋は、黄色い糸で縁取られるように縫われていたが、どう見ても縫い目がジグザグで泳いでいた。

「お前、縫い物下手だな、俺のほうが器用だぞ」と、翼が言うと、「いいじゃない、気持ちの問題よ」と、麗華が言った。

お守り袋をの真ん中には、なにやら動物のようなものが付いていた。

「これ何」と、翼が麗華に聞くと、

「何に見える」と、逆に麗華が翼に聞いてきた。

翼は隣の席の、ちょっと、ぽっちゃり系でおかっぱ頭にめがねを掛けたマリコに、「これ何に見える」と、お守り袋を見せた。

今までのやり取りを聞いていたマリコは、お守り袋を見て、ぎょっとした顔で、小さな声で「悪魔」と言った。

マリコは、天は二物を与えないと思った。

麗華は、「何言ってるの、龍に決まっているじゃない。

龍の様に天高く舞い上がって、天下を取って欲しいから」と、言った。

翼は、マリコに、肘で押され、「龍に見えてきた」と、言った。

「明日、これ持っていってね。

じゃね」と言って、振り返って麗華は教室を出て行った。

振り返り際、少しいい香りがして翼は、麗華が教室を出るまで見送った。

マリコは「麗華は、相変わらず、いい女だね。

翼には、もったいないよ。

ねえ、私で手を打たない」と、言った。

翼は、「考えとくわ。高校行って、誰れも付き合ってくれなかったら、宜しくな。

じゃ、少し体動かしてから帰るかな」

と、言って教室を出ていった。

マリコは、「翼は、ホント、女心が分かっていないね。

私も、玉川小杉高校、単願でいくかな」と、小声で言った。

帰り道、翼は、近所の穴守稲荷に立ち寄った。

穴守稲荷は、お父さんとよく来た思い出の神社だ。

お参りをした後、翼は奥之宮に向かった。

ここの神砂(お砂)は、持ち帰って携帯すると願いがかなうと言われている。

翼は、この神砂の由来をお父さんから聞いた事を思い出した。

「あるとき、漁師の老人が漁から帰って釣った魚を入れた籠を覗くと湿った砂しかなかった。

翌日も翌々日も大漁だったが同様であったため、村人たちにこのことを話すと、村人は狐の仕業だとして穴守稲荷神社を取り囲んで一匹の狐を捕まえた。

しかし老人は狐を許して放した。

それ以来、老人が漁に出ると必ず大漁となり、籠には多くの魚とわずかの湿った砂が残るようになった。

老人がこの砂を家の庭に撒くと、客が次々と来るようになったため、老人は富を得た」

と、言う話だ。

翼は、麗華にもらった青いお守り袋をポケットから取り出し神砂を少し入れた。

いよいよ、明日が、翼の人生で初めての大勝負。

興奮しない訳が無い。

翼は家に帰って、早めに布団に入ったが眠れなかった。

翼は狭い、キッチンに水を飲みに行ったが、お袋は、まだ仕事から帰ってきていなかった。

「今日の俺の仕事は、早く寝て、体を休めること」翼は布団に戻り、制服のポケットから、麗華にもらったお守り袋を取り出し、握り締めた。

微かに麗華のハンドクリームなのか、いい香りがした。

すると不思議と、心が落ち着き、眠りにつくことが出来た。

セレクション当日

「行ってきます」

翼は、仏壇のお父さんの写真に手を合わせ、台所にある弁当を手に持った。

今日は、いつもよりお弁当が少し重いような気がした。

家を出ると、ドアの向こうで、かすかにお袋の「頑張って」

という声が聞こえたような気がした。

マフラーを首に巻きながら家を出てすぐ、翼は「あ!」と

声を出して立ち止まった。

ズボンのポケットに手を入れ、昨日、麗華からもらった、青いお守が入っているか確認した。

翼はポケットに入っていたお守りを取り出し、手に持って見つめると、「よし!」と言う言葉が口から出て、ちょっと笑顔になり、ポケットに、お守りをしまった。

時間に余裕をみて、駅に向かったが、朝の駅は通勤ラッシュでホーム混んでいた。

野球道具の入った大きな遠征バックと、バットが邪魔になると思い、一番空いているホームの端に、翼は進んだ。

電車が来るのを待ちながら、空を見上げると、青空が広がっていた。

初冬の冷えた空気で、綺麗な青空だった。

こんな美しい空を見ていると、今日は何もかもうまく行きそうな気がした。


セレクション会場に行く乗換駅、普段使う駅ではないので、少し迷ってしまった。

早めに家を出て良かったと翼は思った。

また、混雑を避けてホームの端へ向かった。

黄色い線の内側で、電車を待っていると、麗華との約束を思い出した。

「私も、玉川小杉高校行って、チェアになるから、絶対に合格して、私を甲子園へ連れて行って」

「電車が通過します。ご注意ください」という放送がホームに流れ、少し経つと、電車のけたたましい警笛を鳴らす音がした。

驚いて、電車が入ってくるホームの端を見ると、茶色いコートを着て、ポケットに手を入れた、中年の男性が、一歩踏み出せば線路に落ちるようなホームの端に、一人うつむいて立っていた。

翼は反射的に、その男性に向かって走り、体当たりするように、その男性をタックルし、電車にぶつからないように倒れた。

その瞬間、電車は「シュー」という非常ブレーキをかけながら目の前を走り過ぎるのを風を感じた。

思いっきり倒れた翼は、頭をぶつけたのか、意識が遠のいていった。


どのくらい時間がたったのだろうか。

翼は、気がつくと駅の事務室にいた。

「大丈夫か。君!

今、救急車が来るから、寝ていなさい。」と、帽子のつばの端をつかみながら駅員さんが言った。

翼は、少し頭が痛かった。

そして、すぐに翼は、ホームでの光景を思い出した。

少し離れた、長いすに、膝の上に手をついて、うな垂れている中年男性が座っていた。

翼は、その男性に飛び掛って、胸ぐらをつかみ、「何で、そんな事をするんだよ」と言った。

翼の目から、涙が止め処なく溢れた。

男は、ただ何も言わず、胸ぐらをつかんで思いっきり引き寄せた翼の体に、うな垂れるだけだった。


慌てて駅員さんが、翼と男の間に割って入り、

翼の気持ちを引き止めてくれた。 

そして、冷静になった翼は、

今日が大切な高校の野球部の

セレクションであることを思い出した。

慌てて、汚れた詰襟の制服を叩いた。

見てみると、膝と肘が擦れて、切れていた。

腕時計を見ると、もう、30分近く経っていた。
 
「まだ、間に合うかも知れない」

と思った翼は、遠征バックと、バットを慌てて持ち、

駅員さんに、一礼をし、駅の事務室を後にしようとした。

その姿を見て駅員さんは、

「君、救急車が来るから、病院に行った方がいいよ。

警察の人も色々聞きたいみたいだし」と言った。

しかし、翼は、駅員が止めるのも聞かず、

「今日は、俺にとって大切な日なんです。

失礼します」といい、駅のホームへ走り、

ちょうど来た電車に飛び乗った。


受験する玉川小杉高校のグランドある駅で、ドアが開くと同時に、翼は飛び降り、ホームを走った。

ホームにある大きな時計の針は8時45分を指していた。

9時の集合時間に、急げば、間に合いそうだった。

あせっている時に限って時間の歩みが早く感じ、いらいらした。

翼は一分も経たない間に、何度も腕時計を見た。

ホームの乗客をかき分けるように、バットや大きなきな遠征バックを振りかざし、翼は改札口に向かった。

そして、駅から続く坂道を駆け上がり、多摩川の土手に出た。

河川敷の奥にバックネットが見えた。

野球場だ。

翼は最後の力を振り絞り、野球場に着いた。

翼は、全力で走って来た、あまりの苦しさに、頭を下げ、両手をひざにつき、肩で息をして立ち尽くてしまった。


息を切らしながら翼は顔を上げると、そこには、すでに受験生が各校のユニフォームを着て整列していた。

集合時間9時を1分過ぎていた。

翼は、大きな声で「受験番号5番 鈴木 翼 到着しました」と、言った。

すると、サングラスをかけ、ファイルを持ち、ユニフォームにスタジアムジャンパーを着た監督らしい人が、ゆっくりと振り返った。

肩で息をする翼の姿を上から下まで眺めるようにして、その人言った。

「時間に遅れてくるようなやつは、どんな理由があろうとも、玉川小杉高校の野球部には必要ない」

翼は、言葉を発する事が出来ず、時間が止まったように感じた。

「それでは、これから、多摩川小杉高校の野球部セレクション試験を行う」という声が聞こえた。

翼は、ゆっくりと、一礼をし、グランドを後にした。

しかし、不思議な事に怒りは、こみ上げてこなかった。

唯一、残念だった事は、麗華と同じ学校で、甲子園を目指せなくなってしまった事だ。


翼は、すぐに家に帰る気にはなれなかった。

お袋が作ってくれたお弁当を、朝、あの男性を助けた駅のホームのベンチに座り食べる事にした。

遠征バックを開けると、今日のために、きれいにアイロンのかけられたユニフォームが入っていた。

アンダーシャツをバックから取り出し両手で強く握り締めてた。

すると、ぽとんと、何かが落ちた。

死んだ親父が、いつも持っていたお守りだ。

このお守りも青かった。

お守りを握りしめると、翼は、オヤジとのキャッチボールを思い出した。

親父は仕事で疲れていても、いつも「お前は、野球がうまいな」と、笑顔で、キャッチボールの相手をしてくれた。

それが子供ながらに嬉しかった。

親父が死んだ時、翼は、このお守りを握りしめ、「おやじ、甲子園に連れて行くからな」と、言った事を思い出した。


家に帰る前に、翼は穴守稲荷に立ち寄った。

セレクションに合格しなかったのに、お礼参りというのもおかしく、おこがましいかもしれないが、1人の命を助けられた事をお礼した。

翼は「これでよかったわだよね」と、心の中でつぶやいた。

どこかで、お父さんが頷いてくれているような気がした。

家に帰ると、お袋はいつものように、仕事で家にはいなかった。

でも、翼は大きな声で、「ただいま」と、言った。

卒業式

玉川小杉高校に行けなくなって以来、翼は、麗華とは、一度も話をしなかった。

というか、翼から麗華を避けていた。

そして、ついに卒業式を迎えた。
 
卒業式が終わり、翼は一人、帰ろうと校門を出ると、麗華が、校門にもたれかけ、少しうつむき加減に足元にある何かを蹴っていた。

麗華は、翼の気配を感じたのか、部活を引退し少し長めになった髪をなびかせ翼に、近づきいてきた。

麗華は、

「学校が違っていてもいいじゃない。私を甲子園に連れってよ」と、言うと翼の学ランの第二ボタンを引きちぎって走っていった。

都立大田工業高校入学

母子家庭の翼の家では、野球推薦で授業料無料の恩恵がなければ、とても私立の野球名門校に行くことは出来ない。

結局、翼が進学したのは、授業料が安く、将来、少しでもお袋を楽させようと、技術を身に着けられる都立の工業高校。

都立大田工業高校である。

羽田空港の近くにある学校で、多摩川の河川敷も学校から近いので、きっと、野球部の練習環境も良いのではないかと、翼は勝手に思い込んでいた。


入学式の後、翼が真っ先に向かったのは、勿論、野球部の部室。

運動部の部室は、校舎裏のプレハブ2階建ての建物で、二階にある野球部の部室に向かう階段は、何となく埃ぽかった。

男子校ではないが、ほぼ男子生徒しかいない、工業高校だから致したないのかもしれない。

翼は二階、一番奥の野球部のドアをノックして、ドアを開けようと、ドアをガチャガチャと、押したり引いたりしたが、ドアは開かない。

すると、そこへ赤いバスケのユニフォームを着た角刈りの先輩らしき人が、立てた人差し指の上でバスケットボールを回しながら、翼にこ声をかけてきた。

「野球部入るの、野球部廃部になったんだよ。

タバコがばれてね。なんなら、バスケ部入らない」と、言いながら金属の階段をカンカンカンと音を立てながら、勢いよく降りて行った。

翼は、ちょっと上目づかいで、その先輩に挨拶をして見送った。


ショックだ。

野球部が無いなんて。

翼は、この学校に入学した事を少し後悔した。

野球部が無ければ、甲子園どころか、野球すら出来ない。

とりあえず翼は、野球部を何とか復活できないものか、元野球部の顧問を尋ねる事にした。

担任に、野球部顧問の先生が誰かと聞くと、自動車学科の木知(きしり)先生と教えてくれた。

翼は、早速、木知先生を訪ねた。

木知先生は、小柄で、黒縁のメガネをかけた、いかにも技術系の先生という雰囲気だった。

翼は、甲子園に行くことが夢で、そのために野球部を復活させてほしいと、木知先生に懇願した。

木知先生は、鼻から少し下がったメガネから、横に立つ翼を上目使いで見ながら、

「野球部復活させるのはかまわないが、人数集まるの?

まあ、無理だと思うけどね。

集まったらまた声かけて。

あ、それから、まともな部員集めてくれよ。

また、不祥事で、管理不届きで、こっちが怒られるの、たまんないからね」

と、言いながら、棒の先に、野球の硬球を付けた物で、肩を叩きながら言った。

という訳で、翼は早速、部員集めに奔走することになった。


とはいえ、入学したばかり。

まだ、クラスメートすらまともに分からない状況。

翼は、1年生の各クラスを回り、野球部部員を勧誘した。

しかし、工業高校だけに、皆、専門知識を学び、在学中に多くの資格を取得して社会に出て行こうとする生徒がほとんどで、勉強時間が時間が必要なため、部活に興味のある生徒は少なく、野球部勧誘は難航した。

そして、もう一つ、翼は当たり前だと思って「野球部は、練習は厳しいが、勝った喜びは最高。一緒に甲子園に行こう」と、勧誘していたが「野球は好きだけど、厳しい練習がな」と今更、厳しい練習なんて御免だと、皆には受け入れられない事が分かった。

そう、スポーツとは、楽しむものという事を、翼はすっかり忘れていたのだ。

小学校のころ、街の空き地で、落ちていた木の板をベースにして、毎日、野球をしていた事を思い出した。

あの頃は、野球自体をやることが楽しかった。

たいした野球道具が無くても。

学校が終わると、友達と、路地に集まり暗くなるまで野球をして遊んだ。

やわらかいゴムボールと、プラスチックのバットだけという、たいした野球道具も無く、ファーストベースは電柱。狭い路地だから、ホームベースと

ファーストベースだけ。

それでも野球をする事が、ただたに楽しかった。

その野球をする、楽しかった気持ちを翼は、忘れかけていた。

「野球を楽しもう、そして甲子園に行こう」で、部員を勧誘しなければ誰も集まらない。

翼は、勧誘方法を変えることにした。

最初の部員

「野球、楽しもう。そして、甲子園に言こう」と、部員を勧誘し、最初に話に乗ってくれたのが、同じクラスの高橋 茂治。

家は、中華料理店で、「放課後は、家の手伝いをしなくてはならないから、あまり練習には参加できないかも知れないけれど、いいか」と、尋ねて来た。

翼は、勿論、OK。

いっしょに野球を楽しもうということになった。

その日の放課後、学校のグラウンドが、部活としてまだ認めらておらず、使えないため、多摩川の河川敷で、高橋とキャッチボールをした。

ただ、ボールを投げるだけのキャッチボールが、なんて楽しいことか。

野球が出来る喜びと、野球の楽しさを、翼は改めて感じた。

キャッチボールをしていると翼は、土手の上から何となく視線を感じた。

どうやら視線は、土手にいる自転車に乗った、同じ大工生(都立大田工業高校の略)からのようだった。

彼は、ちょっと寂しげな表情に見えた。

翼が、彼を見ると、彼は慌てて自転車を反対に向け走り出そうとした。

翼は、大きな声で、「おい、ちょっと待って」と、自転車で走り去ろうとする彼に声をかけると、彼は後ろを振り返った。

翼と、高橋は、土手を走り、彼の元に向かった。

翼は、「君、野球好きだよね」と言うと、彼は、静かに頷いた。

「同じ、大工生だよね、じゃあ一緒に野球やろう」と、翼は言った。

しかし、彼は、少しうつむいた。

少し時間をおいて、彼は話初めた。

彼は、「僕は、耳が悪いんだ。

補聴器を使っている。

まったく聞こえないわけではないんだけれど。

でも、スポーツは大好き。

小学校のときは毎日野球をやっていた」と、少し明るい顔になった。

「でも、中学に入学して、野球部に入ろうとしたら、断られた。

理由は分からないけど、どうも、耳のせいらしい。

多分、フライが上がった時、耳が聞こえないと交錯してしまいケガをしてしまうからかもしれない。

僕がケガするのは構わないけれど、チームメイトがケガをしたら・・・

野球部の顧問の先生も、やっかいに感じたのかもしれないな。

教室の窓から皆が野球をやっているのを見ると、うらやましかった。

高校でも、きっと、断られるんだろうなと、思ったんだ。

でも、君が、野球部員を募っているのを見て、つい、付いてきてしまったんだ」と、彼は言った。


翼と、高橋は、顔を見合わせて言った。

「何を断る理由があるんだよ、一緒に楽しく野球をやって、甲子園に行こう」と、言った。

彼の名前は、津田 隼人。

電子工学科だった。

早速、三人でキャッチボールを始めた。
 
津田は、足も速く、機敏な動きをした。

翼は、津田は、ショートか、セカンドがポジションに向いていると思った。

彼が、耳が不自由で、補聴器を付けているなどという事を、まったく感じなかった。

桃源の誓い

いつの間にか、河川敷が茜色に染まっていた。

高橋が、「俺んちは、穴森稲荷で中華屋やっているんだ。

歩いてそんなにかからないから来いよ」と言って、有無を言わせず、歩き始めた。

高橋の家の中華屋は、穴森稲荷駅から、穴森稲荷に向かう、ちょっとした商店街の一角にあった。

高橋が、「今日は、まだ、3人だけど、野球部発足、決起集会を行おう」と、言った。

高橋の家の中華屋は懐かしい、決して綺麗ではないが、昔ながらの街の中華屋さんという感じで、何を食べても絶対に美味しいという感じがした。

高橋が、「ただいま」と、言って、店に入ると、お父さんらしい、店のオヤジが「どこほっつき歩いているんだ馬鹿やろう。

早く手伝え」と、言った。


いきなり、店に入りにくい雰囲気に、翼と津田は、顔を見合わせてしまった。

高橋は、制服のYシャツの腕をまくり、腰にゴムで出来た、白いエプロンを掛けると、洗物を始めた。

翼たちが、店に入るのを躊躇したのを見て、高橋は「早く入れよ」と、言った。

翼たちが、「お邪魔します」と、言って、店に入ると、オヤジさんは、

「いらっしゃい」と、お客と間違えたのか、カウンター席から満面の笑みで迎えてくれた。

「まあ。カウンターに座って」と、高橋は言った。

翼と、津田は、赤いテーブルのカウンターに座った。

壁には、少し油で汚れた短冊のメニューが下がり

ジャイアンツのカレンダーがかかっていた。

カウンターの下には、これまた、ちょっと油でベトベトする週刊漫画が積み重なっていた。


そして、「おやじ、俺、野球部入ったから。

こいつら、チームメイト」と、高橋は言った。

おやじさんは、「せがれがお世話になります」と、

腰を低くして、また挨拶をした。

「ちがうよ、先輩じゃないよ、同級生だよ」、と高橋が言うと、高橋のオヤジは、「何だ、早く言え」と、チャーハンを炒めながら、態度急変。

「お前が、野球部。

甲子園にでも行くのか」と、ちょっと、言ってオヤジは笑った。

高橋は「そうだよ、甲子園に行くんだよ」と、言った。

そして、「笑わせるじゃねえか。

まあ、野球やってもいいけど、家の手伝いも疎かにするなよ。

お前は大切な、働き頭なんだから」と、なべを振りながら言った。


暖簾をくぐって、グレーの作業服を着た常連さんらしいお客さんが入って来た。

「いらっしゃいまし」と、またしても、満面の笑みで、オヤジさんはお客さんを迎えた。

常連さんは、「おやじさん、とりあえずビールと、レバニラ」

と注文した。

高橋は、すかさず、冷蔵庫からビールを取り出し、ビールの栓を開けると、お客のテーブルに出した。

常連さんは、「お!息子、元気か」と、言った。

すると、高橋のオヤジが、「こいつ、大工に行きましてね、野球やるっていうんですよ。

おまけに甲子園に行くって。

笑っちゃうでしょ」と、言った。

常連さんが、「大工野球部、確か、部員の喫煙で、廃部になったんじゃないか」と、言った。

「お前、タバコ吸ったのか」と、高橋のオヤジが言った。

「俺じゃないよ、先輩たちだよ。だから、俺たちが、野球部をまた、立ち上げるんだよ」と、言った。


「野球部、復活できそうなのか」と、常連さんが聞いた。 

高橋は、ちょっと下を向きながら、

「まだ、ここに居る、俺たち3人しかいないけど」と言うと

翼は、たまらず立ち上がり、カウンターに手を突き、

下を向いたまま「必ず行きます。甲子園に」と、言った。

高橋のオヤジは、レバニラ炒めを作る手を止め、ちょっと焦って

「お、おう」と言った。

そして、翼の迫力に押されたのか、

「わかった、今日は俺のおごりだ、いっぱい食べけ」と、言った。

高橋は、翼らの方を見て、厨房の中から小さくガッツポーズをした。


店がの忙しさが一段落すると、高橋はエプロンを取り、カウンターに座った。

すると、高橋のオヤジが、ラーメンどんぶりを、カウンター越しに、「はい、お待ち」と、言って、差し出した。

ラーメンどんぶりには、厚切り、チャーシューが麺が見えないほど敷き詰められていた。

「野菜も、ちゃんと、取らないとな」と、刻み、ネギをバサっと、オヤジが載せてくれた。

翼たちは「うおー」と声を上げた。

高橋は、「今日は、高橋スペシャルだ。

うちの店、小さくて、汚いけど、うまいんだぞ」と、言った。

キャッチボールの後で、空腹だったため、翼と津田は、わき目も振らず、ラーメンをすすった。

懐かしい昔ながらのしょうゆラーメンで、本当に美味しかった。


ラーメンをすすりながら、高橋が「3人で甲子園に行くと誓うというと、

三国志の桃源の誓いみたいだな。」と、言った。

「だれが、劉備だ」と、翼が言った。

 津田は、「野球部を立ち上げようとした、翼かな」、と言った。

翼は、「じゃ、張飛は、津田だな」と、言った。

高橋は「えー、俺は、関羽がいいなまあ、張飛、豪傑だからいいか」と、

言った。

じゃ、「諸葛孔明は」と、津田が言うと、

皆、ラーメンどんぶりを持ち、スープを飲みながなぜか高橋のオヤジを見た後、

そして、お互い見合いながら「ナイナイ」と、三人そろって言った。

高橋のオヤジは、「何だよ」と、怪訝そうな顔をした。


オヤジは、食べ終わると「雀荘に出前行って来い」と、おかもちを、高橋に渡した。

翼たちは、高橋の出前の間、洗物の手伝いや、お客さんの食べ終わった器をテーブルから引くのを手伝った。

高橋のオヤジは「悪いな」と、言い、間を置いて、ちょっと笑顔で、「あいつのこと宜しくな」と、言った。

翼と津田は、無言で、うなづいた。


第四の男


それでも野球部員は、まだ3人しか集まっていない。

とりあえず頭数揃えなければ、野球部の復活はありえない。

すると津田が、同じ電子工学科に中学の時に野球をやっていて、都大会で準優勝までいった浜田という有望な選手がいると言った。

翼は、「浜田、どっかで聞いたことがあるな」と、言った。

「とりあえず会いに行こう」と、高橋が言った。

電子工学科の教室に入ると、浜田は、掃除当番にも関わらずサッカーをしてふざけていた。

浜田は、あまり背は高くなく、ちょっとふっくらとしていた。

翼は「君、浜田君」と、尋ねると、

浜田は、サッカーをやめることなく「そうだよ、何か」と言いながら、浜田は、体を回転させながらシュートを決めた。

見事な、体さばきだ。

「君、野球やっていたよね」と、翼が聞くと、「ああ、やっていたよ。でも、もうやめた」と、浜田は言った。


「何で野球やめたんだ」と、翼が聞くと、

「もう、野球漬けの日々はこりごり、自由に過ごしたいんだよね。

俺、最近、ラーメンの食べ歩きにはまっていて、俺の生きがいは、野球から、ラーメンの食べ歩きに変わったんだよ」と、言った。

「ところで、お宅ら、美味しいラーメン屋知らない?」と、浜田が言った。

「知ってるよ。これから、一緒に食べに行かないか」と、高橋が言った。

「本当にうまいんだろうな」と、浜田が言った。

「うまいよ。世界一うまいよ」と、高橋が、胸を張って言った。

「じゃあ、行こう」と、浜田が言った。

「でも、一つ条件がある」、高橋が言った。

「もし、これから行くとこのラーメンがうまかったら、俺たちの話を少し聞いてくれるか」と、言った。

「ああ、いいよ」と、浜田は言って、一緒に学校を出た。

高橋が案内した店は、勿論、高橋の家のラーメン屋だった。


高橋の中華料理店の前に着くと、浜田は、「あ!ここの店知っている」と、叫んだ。

続けて、浜田は「でも、不思議なんだよ。

ネットで、丁寧な仕事をしたスープ。

竹で打った自家製の麺は、中太麺で腰があってうまく。

自家製チャーシュウが絶品と書いている人もいれば、スープが臭くて飲めたもんじゃないと書く人もいて、どっちが本当か、分からない店なんだよ。

この前の休みの日に、友達とお昼に、この店で食べようと思い来たんだけど、早く来すぎて、そこの喫茶店で時間潰して、この店の話をしていたら、前の席で、スポーツ新聞を読みながら、モーニング食べていたおっちゃんが、急にスポーツ新聞たたんで、後ろを向きに

『お兄ちゃんたち、悪いことは言わない、あそこの店はやめておいた方がいい。お金の無駄だ。

蒲田の人が並んでいる店に行った方がいい』て、言うんだよ。

結局、おっちゃんの言う、蒲田のお店に言ったんだけど、大して美味しくなかったんだよな」と、言った。


高橋は、浜田が会った、その喫茶店おっちゃんが、高橋の家のオヤジだということがすぐに分かった。

オヤジは、朝、仕込が終わると、浜田が行ったという喫茶店で、モーニングを食べながらスポーツ新聞を読むのが、毎日の楽しみ。

特にジャイアンツが勝った翌日は、この喫茶店で、我が事のように喜んで、前日の試合を、身振り手振りで大げさに話す。

まるで寅さんのように!

まあ、お店の常連さんも「また始まったか」と、呆れてみているのだけれど。

「ただいま」と、言って、高橋は店に入った。

「え!何!ここ、お前の家なの」と、浜田は驚いた。

そして浜田は店に入り、オヤジの顔を見ると「あ!この前、喫茶店で会ったオッチャンだ」と、浜田は二度驚いた。


高橋のオヤジも、浜田を思い出したようで

「お!おまえさん、蒲田の店に行ってよかったろ」と、言った。

浜田は、「あそこの店、美味しかったけど、何か、当たり前の味で、

たいしたこと無かったですよ。俺には合わなかった」と、言った。

高橋のオヤジは「偉そうなこと言いやがって。

うまいラーメン、自分で作れるようになってから言え」と、言った。

それから、浜田は店内を見回しながら

「ラーメンて、味もそうだけど、お店の雰囲気も大事なんだよね。

赤いテーブルのカウンター

手書きのメニューの短冊

そして、油でちょっとベト付いた週刊漫画がカウンター下の手荷物を置く棚にあり、荷物が置けない。

完璧だ。

これだけ懐かしい雰囲気があるということは、それだけお店が、長く続いている。

つまり、固定客のいる、いいお店に決まっている。

いいお店には、いいお客さんが集まるんだよね。

学校だってそうじゃない。

いい奴の周りには、いい奴が集まり、

変な奴の周りには、へんな奴が集まりるから。

俺、ここのお店の雰囲気好きだな」と、言った。

「何だか、褒められているのか、けなされているのかわからないコメントだな。

若いの、分かってるじゃないか」と、高橋のオヤジは言った。


「じゃ、今日は、当店特製、自慢の美味しいチャーシュー麺を作ってやろうじゃないか」と、言って、オヤジは、夕方の仕込みを中断し、沸騰したお湯を張った中華なべに、上から麺を解すようにパラパラと落とした。

翼たちも、あの美味しいチャーシュー麺を、また食べれると言うことで、思わずガッツポーズをしてしまった。

浜田に感謝しなくては。

浜田は、「俺、ラーメンも好きだけど、世の中で一番うまいものは、チャーハンだと思っているだ。

子供のころ、家の近くの銭湯の隣に、万幸っていう、中華料理屋があって、そこのチャーハンが大好きだった。

ちょっと、甘辛い赤いチャーシューがゴロゴロ入っていて、これが、ご飯に合うんだよね。

それに美味しいラーメンをすすり、チャーハン食べ

ラーメンスープをすすれたら、もう最高」と、言った。

津田も、「俺も、万幸、知っている。出前で頼むと、バイクに乗った兄ちゃんが、くわえタバコで来るんだよ。

ちょとダミ声で『お待ちどー様でした』て、

スープは、小学校の給食に使っているような、

アルミの丸い容器を、オカモチに引っ掛けて、家でスープの器に移してくれるんだ」と、言った。

浜田も、「そうそう。でも、あの万幸、いつのまにか、無くなっちゃったんだよね。

あの味、また、食べたいな」と、言った。


「おい、チャーハン作ってやれ」と、オヤジは、アゴをちょっと上げながら、息子の高橋に言った。

高橋は、厨房に入ると、カウンターの反対の棚を開け、吊り下げられている赤いアメ色をしたチャーシューを取り出した。
 
浜田は「これ、これ、

このチャーシューだよ」と、浜田は言った。

オヤジは「うちのチャーシューは、本場香港と同じ味。

蜂蜜を付けて丁寧にじっくり焼いたものさ。

それに、ホン・ツアオ使っているから本物だぞ。

そこら辺のラーメン屋のチャーシューとは、一味も二味も違う。

作るのに時間かかっているんだ」と、言った。

「ホン・ツァオ?聞いたことが無いな?」浜田が言った。

「チャーシューの周りの赤い色、あれがホン・ツァオだ。

漢字で書くと、紅という字に、コメ辺に三国志の曹操の曹と書き紅糟。

中華街に行くと赤いチャーシュー、よく吊るしてあるじゃない。

あの赤い色は、ホン・ツァオの色なんだ」と、オヤジは、言った。

「そうなんだ!難しい漢字だね」浜田は、カバンからノートを取り出しメモを取った。

「おいおい、随分勉強家だな。

じゃ、もう少し教えてやろう。

糟って漢字、何て読む。

漢字準1級の問題だ!」

高橋のオヤジが、浜田に質問した。

「どこかで、見たことのある漢字だよな」

浜田は、腕を組んで、頭を捻りながら思い出そうとした。

「思い出した、かすだ!酒糟のかす!」

叫ぶように、浜田は言った。

高橋のオヤジは

「おう、よく分かったな。合格だ。

かす汁、かす漬けなど、この漢字を使う。

つまり、麹の事だ。

麹には三種類あるんだ、黒、赤、黄色。

黒は、お前らには縁が無いけど、沖縄のお酒、泡盛を作るのに使うんだ

黄色は、いつもお世話になっているお味噌や、醤油。

そして赤がこのホン・ツァオだ。

でもな、最近は、なかなか手に入らないんだ。

横浜の中華街に行ったって、置いてあるお店は少ないんだぞ」

浜田は、エ!と言う顔をして、高橋のオヤジに質問した。

「じゃ、中華街のお肉、何で赤いの」と質問した。

高橋のオヤジは

「にわかに信じがたいんだが、勿論、すべてのお店では無いと思うが

食紅を使っている所が多いんだ」

浜田は、その答えを聞いて、残念そうな顔をした。

高橋のオヤジは、そんな浜田の顔を見て

「安心しろ、さっきも言ったが、うちはホン・ツァオ使っているから本物だ。

麹って、肉をやわらっく、そして味が良くなるから、最近人気だろ。

だから、ホン・ツァオを使っている家のチャーシューは、柔らかくて美味しいんだ」と、高橋のオヤジが言った。

丸太を切ったような、そのチャーシューをまな板に載せ、長方形の大きな中華包丁で、高橋は丁寧に、少し厚めにスライスし、サイコロ状に切った。

そして、中華なべを熱くし、多めに入れた油から少し煙が出たところで溶き卵を入れジュート炒めた。

炒めると言うより、多めの油の上に卵がグツグツ踊り、揚げているような感じだった。

「卵も、こだわっているんですよね」と、

浜田が言うと、オヤジは「いや、スーパーの特売、

今は、卵、高いからな。

昔のワンパック100円の頃が懐かしいよ」と、言った。

「そこは、こだわらんのかい」と、浜田は小声で言った。

「一人ワンパックまでだから俺と、オヤジと俺で並んで買ってくるんだ。

今度、特売の時は並んで買うの宜しくな」と高橋が言った。

「それに、特売日に、常連さんが

卵ワンパック買ってきてくれる。

ありがたいことだ。

高い食材使って、旨いものが出来るのはあたりまえ。

高い食材使って、まずかったら詐欺だもんな。

安いもので、いかに旨いものを作るかが、料理人の腕の見せ所。

勿論、いくら安くても体に悪いものは、うちは使わないようにしているんだ。

どこが産地か分からないような、冷凍食品の野菜とか。

卵は、このご時世だから。

でも、近所のスーパーで、いいたまごが安く入る時は、教えてもらって買うようにしているんだ。

スーパーでも、安心して食べられる卵は、値段が高いから、売れ残ってしまう事があるからな」と、オヤジ言った。

高橋の鍋振りは流石、中華屋の息子、見事な鍋さばき。

さっさっさーと炒めて、大きな黒いオタマで、ご飯をほぐし鍋を振った。

そのお玉に出来たチャーハンを入れると、ポンとオタマを皿の上で、ひっくり返し、まわるいチャーハンの山が出来上がった。


「うちのチャーハンは、最近はやりのパラパラ系じゃなくて、しっとり系なんだ。

ぱらぱらチャーハンも、勿論美味しいと思うけど、

俺は、炊きたてご飯のしっとりしたのが好きな日本人には、

このちょっとしっとりしたチャーハンのほうが合うと思うんだよね」と、高橋は言った。

そして、チャーハンの上には、グリーンピースが3つ載せた。

浜田は

「おー、これこれ、チャーハンにはグリンピースが載っていなきゃ。

最近、グリンピースの載ったチャーハンにお目にかからなくなったもんな」と、懐かしそうに言った。


チャーハンが出るのと、同じタイミングで、オヤジの作ったチャーシュー麺も出来上がった。

あの、飴色にローストされたチャーシューが、今回も麺が見えないほど埋め尽くされていた。

「はい、お待ち。チャーハンとチャーシュー麺。

高橋スペシャルだ」と、言って、オヤジがカウンター越しに出してくれた。

高橋もカウンターに戻り、「頂きます」と、言って手を合わせ、食べ始めた。

浜田は、チャーハン一口食べると、満足という顔をして、すぐにラーメンスープを啜った。

「この味、しっとりとしたご飯のチャーハンに、かみ締めると、あの角切りチャーシューが・・。

そのまま、ラーメンスープを口に・・・。

最高だ!

チャーハンに入っているナルトもいいよね」と、言うと、浜田は無心で食べた。

オヤジは、「どうだ、うちのラーメンスープ、うまいだろ。企業秘密だけど、

栄養になるものが一杯入っているんだ」と、言った。

「だから、麺を残しても、スープは残すなって、昔からオヤジに言われているんだ。

香港でも、毎日、色々な野菜、お肉などを継ぎ足して、美味しくて、栄養のあるスープを毎日食べるんだって。

あの医食同源の香港や中国の伝統を受け継いでいるのさ。

うちのスープも、同じように作っているから美味しくて、健康に良いに決まってる」と、高橋は自慢げに言った。

その隣で浜田は、うなづきながら、食べ続けた。


「今回は、チャーシュー麺を付けているから、スープは出さなかったけど、

チャーハンに、どうしてスープが付くか知ってるか」と、オヤジが言った。

浜田は「ご飯に、味噌汁みたいなものですかね」と、オヤジの方を向いて言った。

「まあ、それも、間違いじゃない。

チャーハン作るのに、ラード使うだろ。

これが、一般家庭と、中華料理屋のチャーハンの旨さの違いの一つなんだ。

ラードを使っているから、家庭では出せない、美味しい中華屋のチャーハンになるんだ。

でも、このラードってやつは曲者で、冷めると固まってしまうわけさ。

油を多く使ったチャーハンを食べると、やはり水分がほしくなる。

ここに、冷たい飲み物を胃に流し込んでみろ、

冷蔵庫に入れた、豚の角煮の脂身みたいにチャーハンが

お腹の中で固まっちゃうて訳さ。

お前らには、まだ関係ないけれど、チャーハンを食べながら冷たいビールを流し込むのは邪道って事よ。

常連さんは、仕事上がりに冷えたビールで、喉を潤してから食事するわけだ。

これでチャーハンを食べてみろ。

お腹の中でラードが固まっちまうだろ。

俺は、チャーハン頼んだお客さんにチャーハン出す前に、

先にスープを出すわけだ。

スープで、内臓を暖めてもらってからチャーハンを食べてもらえれば、

問題ないって事よ。

中華屋も、意外とお客さんの健康に気を使ってるんだぞ」と、オヤジは言った。


「中華じゃないけど、ピザも同じさ。

チーズも、冷たい飲み物と一緒に食べると、

お腹の中で固まっちゃうからな」と、オヤジは言った。

「だから、ピザを食べた時、コーラ飲むと、胃もたれを感じるんだ」と、浜田は頷いた。

「俺は、まだ行ったことが無いから知らないが、

スイスでは、溶かしたチーズにフランスパンを付けて食べる

チーズフォンデユを食べる際には、

ビールではなく飲み物はワインにするそうだ。

そうしないと、チーズがお腹の中で固まってしまうからな。

俺は、ピザには、ワインじゃなくて紹興酒かな」と、オヤジは言った。

「え!オヤジさん、中華屋なのに、ピザ食べるの」と、浜田は言った。

「あたぼーよ!日本そば屋だって、ラーメン食べるだろ、それと一緒さ」

と、何か、わかった様な、わからないような言い訳をした。

「オヤジさん、何でも知っているね」と、浜田が言うと、

「あたぼーよ、食べ物に関しては何でも聞いてくれ」と、オヤジは言った。

浜田は「昔から疑問だったんだけど、チャーハンと、シュウマイには、

なんで、グリンピースが付いているんだろね。

最近、付けないところも多くなってきたんだけど」 と、オヤジに聞いた。

オヤジは黙ってしまった。


浜田は、チャーハンを、一粒も残さず食べようと、

レンゲをカチヤカチャ動かし、最後に、ラーメンどんぶりを両手で

抱えるようにして、スープを飲み干し

「あー、美味しかった。」と、オヤジの方を向いて、満面の笑みで言った。

その声を聞いて、翼と、高橋は

「今、美味しいて、言ったよな。ん、言った。」と、

念を押しながら、浜田を見た。
 
浜田は、「あ!言っちゃった。だって、こんなに美味しいんだもん。

ずるいよ」と悔しそうに言った。

「じゃ、聞いて貰いましょうか」と、翼たちは浜田に、

野球部の再建の経緯を話した。


浜田は、頷きながら野球部再建の話を静かに聞いた。

話を聞き終わると、浜田は話し始めた。

「俺も中学3年間、一生懸命野球をやってきた。

おかげで、都大会で準優勝まで行った。

でも、3年の夏の大会が終わった後、中学の生活を振り返ると、

野球の事しかなかったんだよ。

確かに、野球に3年間打ち込んだ事は、素晴らしい事だと思うんだけど、

それだけでよかったのかと思ったんだ。

勿論、野球は好きだったけど、

自分の好きな事って、野球だけじゃないじゃない。

勉強だって、正直、おろそかになる。

まあ、勉強は、あまり得意じゃないけど。

だから、もう、野球づけの生活はいやなんだ。

1回しかない人生、後悔したくないからね。

せめて、日曜ぐらい自由にさせて欲しいじゃない。

それって、悪いことなのかな。

中学の野球部にいて、本当に疑問に思ったよ」と、言った。

俺たちにも、浜田が、本心を言っている事が分かった。


翼は、浜田に話した。

「俺も、中学の野球部時代、同じようなことを思っていた。

でも、安心してくれ、大田工業野球部には、監督もいない、先輩もいない。

俺たちがルールを作っていけばいいんだよ」


「じゃあ、まず、こうしよう。皆、聞いてくれ」と、翼は言った。

高橋も、津田も、浜田も、カウンターから身を乗り出すように俺を見た。

「練習試合などは土曜日に行い、日曜日は、公式戦などが無い限り完全な休みにしよう。

日曜日は、野球以外の好きなことに時間を費やせばいい。

どうだ」と言った。

「それ、本当だろうな、信用していいんだろうな」と、浜田が言った。

「ああ、本当だ」

高橋も、津田もうなずいた。

浜田は少し黙って、うつむいた。

その浜田の姿を見て、高橋は、

「もし、一緒に野球をやらないなら、浜田、

この店、出入り禁止だからな」と、言った。
 
「えー!そりゃ無いだろ。最強な脅迫だな」と、浜田が言った。

少し、間を置いて「分かったよ、じゃ、一緒に野球やるよ」と

浜田は言った。

「その代わり、俺にも条件がある。

日曜日に、この店で修行させてくれ。」

と、浜田は言った。

「修行!」、翼たちは、顔を見合わせた。

「今まで、ラーメンの食べ歩きをしていたけれど、

今度は、自分の手で美味しいラーメンを作ってみたいんた。

これが、俺の、今の一番やってみたい事なんだ。

これを受け入れてくれなければ、野球部入部の話も無しだ」

高橋は、親父の方を見て「親父、どうする」と、言った。

「どうするも、こうするもないだろうちはバイト代、安いぞ」と、

親父は言った。

浜田が、小さくガッツポーズした。

高橋は「浜田が、日曜日に修行すると言う事は、

俺にも日曜日、休みがもらえるて事か。」と、

手を組んで、天を仰ぎながら言った。

高橋にとっては、まさに、棚から牡丹餅であった。

オヤジは「ばか、こいつが使えるようになるまでは、だめだな」と、言った。

高橋は、浜田の手を両手で握りしめ「頑張ってくれ」と、

目を潤ませながら言った。


翼は「よし、今日も、団結式だ。

桃源の誓いに一人加わったな。

と言うことは、お前が、諸葛孔明か!」

浜田は、何の事かと、皆を見回した。

「まあ、がんばれや、甲子園に行って一勝したら、

ここで、食べ放題パーティーやってやるから」と、オヤジが言った。

「そのときは、北京ダックも宜しく」と、浜田が言った。

オヤジは、「任せておけ。甲子園に行くだけじゃないぞ、

甲子園で一勝だぞ」と、オヤジは念を押した。


浜田は、「何で、こんなに美味しいのに、ネットでは、評価が低いのか」

と、オヤジさんに尋ねた。

おやじは、

「確かに、ネットで、この店が美味しいと書いてもらうのは、

ありがたいことなだよ。

俺は、ネットの世界のことはあまり、よくわからないんけど、

きっと、評判を聞きつけて、色々なところからお客さんが、

やってくると思うんだ。

遠方からはるばるやってく人もいるんだろうな。

でも、そういう人は、近くに住んでいないから、

なかなか常連さんにはなってくれないと思うんだ。

きっと、色々な店のものを食べたいと思うことだろうし。

都内に住んでいたとしても、わざわざ、こんな東京の端っこまで、通って来ないだろ。

そういうネットの人たちが、評判を聞きつけてやって来たら、きっと、この狭い店だから店が、一時的に一杯になってしまうと思うんだ。

そうなったら、常連さんが入れなくなってしう。

常連さんには、いつものように、知った顔ぶれで、気持ちよく食べて飲んでもらいたいからさ。

おまけに、夜や、土日は、こいつに手伝ってもらっているけど、平日の昼間は俺一人でやっている。

ネットで評判良くなって、沢山来られても、回らなく困るんだよな」

と、言った。


「目の前が、羽田空港だから、飛行機で行った出張の帰りに、必ず寄ってくれる常連さんもいる。

海外の航空会社の乗務員さんの、常連もいる。

市場も近くにあるから、早朝には、トラック運転手、それにタクシードライバーさんも。

どうせ、仕込みで、朝まで起きているから、店あけちゃっているんだけどな」と、オヤジは言った。

「え、そんなに店開けているのに、おじさん一人でやっているの」と、浜田が言うと

「お袋、病気でいっちゃたからさ」と、高橋が言った。

浜田は、「ごめん」と、小さな声で言った。

「だから、お前みたいな、やつが来て、

ネットに書かれそうになったら、うまいもの出すから、

この店まずいって書いてくれってお願いしているんだ。

でも、SNSて言うのをやっている奴、

見た目で分からないやつもいるじゃない。

そういう奴が、うまいって書いちゃうんだよね。

まあ、自分の仕事のキャパシティを超えないように仕事しているわけさ」

と、オヤジが言った。

浜田は、「なるほど」と、言った。


「そして、もう一つ理由がある。

そろそろ来るかな」と、オヤジが言うと、

「おっちゃん、こんばんは」と、

元気のいい小学生の子供たちが入って来た。

「よし、今日は、どうする。まずは手伝いからするか」と、オヤジは言った。

時間は5時過ぎ、学校の学童保育が終わった子供たちみたいだった。

「じゃあ、小さい子供たちは、玉ねぎ剥きしてくれ。この前みたいに、小さくしすぎて、らっきょみたいにするなよ。

茶色い皮が無くなればいいからな。

高学年のお姉ちゃんは、洗物と、店の中を綺麗に拭いてくれ

高学年のお兄ちゃんは、チャーシュー作りだ。

ここの兄ちゃんたちが、いっぱいたべちまったからな」と、オヤジはテキパキと子供達に指示を出した。

こいつら、家に帰っても、お母さんも、お父さんも働いているから、寂しいんだよ。

だから、手伝いをしてもらって、いつも食べさせてやっているんだ。

労働の見返りってやつだな。

こいつらの居場所も作ってやらないとな」

高橋は、カウンターから、厨房に移動し、

冷蔵庫を開けて、あまっている食材などを探し、ささっと野菜をいためた。

相変わらず、手際がいい。

子供達の仕事が一段落した頃

「よし、出来たぞ。手を洗っておいで。今日は、特製酢豚だ!」

子供たちが「ワー!」と、嬉しそうな声を上げた。

子供たちの人気のメニューなのだろう。

高橋は大皿に、酢豚を盛り付け、

店の奥に一卓だけある円卓の真ん中に酢豚を置いて言った。

「おれ、一人っ子だけど、ぜんぜん寂しくないんだ。

兄弟が沢山いるみたいで」

と、高橋は子供達を見つめて言った。


6時、夜の本格営業になる前に、

子供たちは、自分たちの食べた食器を綺麗に洗い、

「ご馳走様でした」と、言って、二階に上がっていった。

「ちゃんと、勉強するんだぞ。」と、

オヤジは二階を覗き込むように言った。

前回、ここに来たとき、二階が賑やかだったのは、

これだったのかと翼は頷いた。
 
それと、入れ替わるように、「こんばんは」と、中学生たちがやってきた。

どうやら、部活が終わってやって来たようだ。

オヤジは、中学生に「今日も、やつらの勉強見てやってくれ」と、言った。

塾に行けない子供たちに、中学生が教えているようであった。

中学生は「はい、教えてあげると、

俺たちも理解が深まりますし」と、言って二階に上がっていった。

翼たちは食事を頂いたお礼に、店の手伝いをた。

高橋は「浜田、目の前の雀荘に出前、

行って来てくれ、集金はいいから」とオカモチを渡した。

オカモチを見て、浜田が「あ!」と、叫んだ。

オカモチには「万幸」と、書いてあったのだ。

「そうよ、お前が、世界で一番うまいと言った万幸は、うちよ!」

と、高橋は、勝ち誇ったように言った。

数年前、銭湯の廃業に合わせて、駅の近くに店を移したのだった。


帰り道、駅まで、皆で歩いていると、浜田が言った。

「何か、いいよな」

翼は「何が」と言って、浜田の顔を見た。

「中学校の三年間、野球やっていたけど、何か心から楽しめなかった。

野球部の中でも、正直、レギュラー争いがあって、

野球部員の中でも、人間関係がギスギスしていたような気がするんだよね。

でも、今回は違うような気がする。

きっと、いい高校生活が送れるような気がするんだ。」と、浜田が言った。

「ああ、きっといい三年間になるよ」津田が言った。

少し、まだ肌寒かったが、夜風が心地よかった。


まあ、ともあれ、浜田が加わり、野球部員は4人となった。

これからの追い上げが凄かった。

浜田の、口八丁手八丁が炸裂。

「旨い物を食わせて、落ちない女と、

野球部員はいない。」と、万幸を武器に、

あっという間に、9人が集まり、どうにか試合ができるようになった。

ちなみに浜田に、翼が

「落とした女はいるのか」と、聞くと

「聞くだけ野暮だろ」と、はぐらかされた。


9人集まったところで、翼たちは、

野球部顧問の木知先生にに、野球部復活のお願いに行った。

木知先生は

「9人、

これじゃ部活として認めるわけにはゆかないな。

だって、練習の時、各ポジションに付いたら、

バッター、いないじゃない。

サッカーじゃないけど、せめて、11人は集めないと!」

と、言った。

もっともな話である。

俺たちは、早々に、入部した部員を含めた9人で、

手分けして、部員勧誘に再び奔走した。

ともかく、部員をあと2人集めようということで、どう見ても野球をやりそうでない生徒にもどんどん声をかけた。

みんなの努力のお陰でで、どうにか11人集まり、野球部復活を成し遂げた。


日曜の朝


11人の部員が集まった事を祝って、土曜日の夜、

高橋のオヤジが野球部立ち上げパーティーを開いてくれた。
 
常連さんも、店に来る子供たちも含めてパーティーを楽しく過ごした。

翌日の日曜日、浜田は、始発の電車で万幸に向かった。

ゴールデンウィークで、始発と言うのに羽田空港行きの電車は混んでいた。

駅から、静かな薄藍色をした街は、4月後半と言えども少し寒く、

浜田はポケットに手を入れて歩いた。

万幸がみえると、高橋のオヤジが、仕込みが一段落したのか、

店の前で小さな椅子に座って、空を見上げてコーヒーを啜っていた。

浜田に、オヤジが気がつくと

「よ!早いじゃか。まだ、せがれは寝てるぞ」と、言った。

「今日は、店の手伝いに来ました」と、浜田は言った。

オヤジは 「まあ座れや」と、

外にあるビールケースを一つ取って、埃を払い浜田に渡した。

浜田は「ありがとうございます」と、言い座った。

「お前さん、何で、そんなにラーメンにこだわってるんだ」と、

オヤジは、浜田に聞いた。


「オヤジさん、ごめん。俺、世界で一番旨いラーメン、

実は、ここのラーメンじゃないんです。

俺が一番美味しいと思っているラーメンは、

うちのおやじの作ってくれたラーメンなんです。

うちのオヤジ、狭所恐怖症てやつで、乗り物が苦手なんですよ。

飛行機は勿論、新幹線、京浜急行だって乗れない。

昔は、会社のセールスで、鉄道に乗って

日本中を走り回っていたみたいなんですけど。

きっと何か、いやな思いをした事があるんでしょうね。

家族には、何も言わないけど。

だから、ウチでは家族旅行ていうものは無いんです。

勿論、乗り物に乗れないから野球の応援にも来てくれなかった。

そのオヤジが毎週日曜日、家族にラーメンを作ってくれたんですよ。

たぶんオヤジは、家族をどこにも連れて行かない罪滅ぼしに、

ラーメン作っていたと思うんですけど。

素人が作るものだから、めちゃくちゃ美味しいもんじゃないんです。

でも、美味しかった。

それって、味だけじゃないんですよね。

なんて言っていいか分からないけれど」と、

浜田は、少し空を見上げるように言った。


高橋のオヤジは「うちのラーメンだって同じだ。

確かに、ラーメン、俺は丁寧に作っているよ。

でも、それだけじゃ美味しくならない。

皆が笑顔で、居られる店じゃないと。

どんなに美味しいものを食べていても、

一人じゃ美味しいけど、美味しくないだろ。

きっと、みんな、この美味しさ、幸せを共有したいんだよな。

だから、一人で来る人は、誰かと、この喜びを共有したいから、

SNSて奴をやっているんじゃないかな。

うちの店は、こんな町工場が集まる所にあるだろ。

いろんな人が常連さんで来てくれるんだけど、

みんな、明るい家庭を持っているわけではない。

一人で孤独に耐えながら、必死に生きている人も居るんだ。

俺、そういう人巻き込んじゃうんだよ。

みんなと話が出来るように。

そのきっかけが作りやすいのが野球かもしれないな。

野球って、不思議な力を持っているんだよ。

野球やらない人でも、野球選手の名前知っていたり。

野球の事で、話のきっかけが作れたりするからな」と、言った。


「ところで、お前のオヤジさんは、元気なのか」と、

高橋のオヤジは、浜田に尋ねた。

「元気にやってますよ。うちのオヤジも野球好きなんですよ。

俺、野球も好きだけど、オヤジの笑顔が見たくて、

野球やっていたのかもしれない」と、浜田は言った。

「親孝行息子だね」と、高橋のオヤジは言った。

「最近、うちのオヤジが言うんですよ。

万幸のラーメンが、また、食べたいって」と、浜田が言うと

「じゃ、お前のおやじさん、店に連れてくれば、

話、早いじゃないか」と、オヤジが言うと、浜田は、首を振って言った。

「うちのオヤジみたいに、俺が作ったラーメン、

ご馳走したいんです。それも、万幸の味の」と、言った。

すると、オヤジが「両膝をたたき「よし、仕込みの続きをするか。

まずは、麺打ちだ」と、言って、店の中に入っていった。


店に入る時、オヤジは思い出したように振り向いて、

浜田に言った。

「そうそう、何でチャーハンや、シュウマイに

グリンピースが付いていたか、俺なりに考えたんだ。

昭和の時代、まだ、冷蔵庫が無かったろ。

だから、一年中、野菜を、用意できなかったんだよ。

そんな時代に、安くて手軽に緑の彩が付けられたのが、

グリンピースだったわけさ。

まあ、これは、俺の勝手な考えで、

『諸説あり』て、とこかな。」と、自慢げに言った。

浜田は「オヤジさん、それちがうよ」と、

言った。

「じゃ、何でだよ?」高橋の親父は、

ちょっと不機嫌そうに口をとがらせて言った。

浜田は「シュウマイのグリンピースは、

イチゴのショートケーキをまねしたんだよ」と、言った。

高橋のオヤジは、「なんだそれ」と、言って腕を組んだ。

「シュウマイって、中国で作られ始めた時から、

元々グリンピース載せていなかったんですよ。

グリンピースをシュウマイに載せたのは日本なんです。

学校給食が始まった時、シュウマイも学校給食に登場したんだけど、

子供たちに、夢のある物を食べて欲しいという事で、

当時、大人気だったイチゴの載ったショートケーキを真似てシュウマイに

ニュージーランド産の甘みの強いグリンピースを乗せたんですよ。

そうしたら、子供たちに大人気になって

シュウマイにグリンピースを載せるようになったそうです。

最近のシュウマイは、グリンピースが載っていないのは、

日本での中華料理が、本格的なものとなり、

元々のグリンピースが載っていないものに

戻っただけだそうですよ」と、浜田は答えた。

高橋のオヤジは「ほー!そうだったのか」と、

ちょっと斜に構えてうなづいた。

そして、「お前、何でそんなこと知っているんだ。

それだったら俺に聞かなきゃいいじゃないか。

俺は、寝るときも、このことが頭から離れないから、

寝不足になっちまったじゃないか」と、言った。

浜田は「だって、この前、TVで、ちこちゃんが言ってたんだもん」と、

言った。


財政難


いよいよ、ゴールデンウィーク明けから、

都立大田工業高校 野球部が始動した。

野球部が復活できたと言っても、課題は山済みだった。

まずは予算、部費である。

一度、解散した部だけに、今年度は部費が下りないと、

悲しい知らせを顧問の木知先生から聞いた。 

という訳で、ボール一つ買うにも、来年度までは自費という事になったのである。

さしあたり部室を掃除しながら、どんな野球道具があるか調べてみると、

金属バット、ヘルメットなどはあったが、ボールは10個ほど、

当然ながら、グローブなどのは全くなかった。

おまけに、監督も、コーチも、マネージャーもいないので、

自分たちで練習プログラムも組まなければならなかった。

これらの問題を解決し、野球を出来る環境を整えなければ、

折角集まった11人の部員の心も、野球部から離れてしまうと思い、

翼は焦った。


翼は、朝、トレーニングを兼ねて、

多摩川の土手を毎日ランニングして学校に通っていた。

こうすれば、勿論、体力も付き、電車の定期券代も節約、一石二鳥だったわけだ。

そのランニングで、毎日、新聞配達する、大学生と思われる人と顔を合せていた。

毎朝、同じ時間に会うので、軽く会釈するのが、

いつの間にか日課となっていた。

ある土曜日の朝、野球部の部活に学校に向かおうと、

翼は、いつものように多摩川の土手を走っていると、

あの新聞配達の人が、川原の芝生でストレッチを行っていた。

今日は、もう新聞配達が終わったようであった。

いつもは自転車の前や、後ろの荷台に、一杯の新聞を載せ、

立ちこぎで自転車に乗っていたので分からなかったが、

スリムで、いかにも長距離ランナーという体格であった。

翼は土手の道から駆け下り、思い切ってその人に声をかけてみた。


「おはようございます、毎朝、お会いしますね。」と、

翼は声をかけると、その人は振り向き、

「おはよう、君も、毎朝、頑張るね。」と、答えてくれた。

その人は「ふっ」と、息を吹き、

ちょうどストレッチを終えたのか、

土手に座り、タオルで汗を拭いた。

翼も、「座っていいですか」と聞くと、

「どうぞ」と、その人は言った。

翼は「失礼します」と、言って、一緒に座った。

聞いてみると、その人は近くの体育大学に通う大学生で、

陸上競技部に所属し、箱根駅伝に出場することを目指していた。

名前は伊丹さんと言った。


翼は、この人なら相談に乗ってくれると思い、

はじめてお話するにも関わらず、伊丹さんに、

野球への情熱、甲子園を目指していること、

そして、野球部の財政難状況を話した。

すると、財政難に関して、伊丹さんは

「受身じゃ、いけないんじゃないかな」と言った。

「部が財政難なら、自分たちで、お金をどうにかするしかないんじゃない。

スポーツって、お金かかるんだよね。

僕のしている陸上も

靴とランニングウエアーだけあればどうにかなりそうだけど、

実際には、試合に行ったり、遠征にいったり。

結構、お金かかるんだよ。

親に、お金出してもらっている人もいるけど、

僕の周りには高校を卒業して、大学に行かず社会人として、

一生懸命仕事している友人もいるわけだ。

その姿を見ていると、僕は、それは違うだろと思って、

新聞配達をはじめたんだ。

トレーニングになって、おまけにお金がもらえるんだから、

一石二鳥だよ。

好きな事をするなら人を頼る前に、

自分達でどうにかしなきゃ」と、言った。


「でも、野球部復活するのに、ちょっと強引に部員を集めたのに、

その上、バイトしろなんていったら、きっと、

みんな、やめてっちゃうんじゃないかな?」と、翼は言った。

「君は、皆に、なんて言って部員を集めたんだい」と、

伊丹さんは聞いた。

 俺は、「俺の夢は、甲子園に行くことなんです。

俺と甲子園に行こうと言って、誘いました。

でも、みんな、本当は甲子園に行けるなんて

本当は思っていないんじゃないかな。

俺、本当に甲子園に行きたいけど、今は、ちょっと自信がありません」

「なぜ、自信がないと、思うの?」と、聞かれたが、

翼は答えられなかった。


すると、「しっかりと、到達目標を持っていないからだよ」と、

伊丹さんは言った。

「実は、俺も高校までは、野球やっていたんだ。

陸上は、大学に入ってからはじめたんだ。

俺の目標は、箱根駅伝に出場する事なんだ。

でも、陸上での実績が無い俺。

おまけに、体育大学だから、周りは陸上の強豪ぞろい。

ここで、勝ち抜き、箱根駅伝のメンバーの切符を手にするには、

到達目標を持って頑張るしかないと思ったんだ。

おかげで、今度の箱根駅伝には、メンバーになれそうなんだ。


毎月、このタイムで走れるようにと目標設定をして、走るだけでなく、

目標達成のためにはどんな、筋力を付けるべきなのか、

その筋力を付けるためにはどんなトレーニングをすべきなのか。

心肺能力を高めるにはどうしたら良いのか。

常に研究しながら、目標設定を行い、達成してきたんだ。

勿論、うまく行かずに、目標達成出来ず、停滞し

苦しい思いをすることもあったよ。

でも、部内の人間はライバルでもあるけれど、

みんなで、助け合いながら、頑張っているんだ。

だから、今は絶対に箱根駅伝に出られると思っている。

君たちもしっかりとした、到達目標を持って、練習やれば、

絶対に甲子園に行けるよ。

目標達成すると、明確に体力や、技術が上がっているのが分かり

ゲームをクリアするような面白みもあって楽しいよ。

甲子園行をあきらめるのは、到達目標を設定して、

うまく行かなくなってからでも

遅くは無いんじゃないかな」と、伊丹さんは言った。


まあ、まずは、資金調達だけど、それも、到達目標の一つとして、

みんなが、得意なところで、アルバイトして、資金を集めれば

いいんじゃないかな。

君は、俺のところで新聞配達するかい。

最近は、新聞配達の成り手がなくて、販売店のご主人も困っていたから。

でも、皆がアルバイトで得たお金を全て、部費につぎ込むのは

考えもんだよ。

人間、頑張った分、自分にも御褒美が必要だからね。

例えば、新聞配達で1ヶ月に

6万円報酬を得たら、

半分は部費に入れ、半分は、自分の野球用品を購入したり、

自分の趣味に使えばいいんじゃないか。

野球だけが、人生では無いんだから。

1人3万円、部費に毎月入れてくれれば、

部員、11人いれば、月33万円。

年間、396万円、400万円近くになる、悪くないだろ」と、

伊丹さんは言った。

翼の心に、希望の光が刺した。


翼は、その日の練習前に、皆に今朝、伊丹さんとの話をした内容を話した。

まずは、野球部の到達目標を、部室一杯に張れる、大きな紙に書くことにした。

夏の大会に一勝、秋の大会に2勝

その一番最後、2年後、3年生の夏には、

「甲子園出場・一勝」と、大きく書いた。

その瞬間、「おー!」という、皆の声が漏れた。

これで、11人、みんなの心が一つになった。

練習が終わり、部室に戻ると、到達目標の、

甲子園出場の下に、誰かが小さく「彼女が出来る」と書き込んでいた。


翌週から、翼と部員の数人が、新聞配達のアルバイトを始めた。

実は、翼は、新聞配達、初めてではなかった。

小学生の時に新聞配達をしていた。

親父が死んで、せめて自分の分は、自分で稼ごうと思い、始めたのである。

実は新聞配達よりもきつかったのが、新聞の中に広告を入れる作業だった。

朝、3時ごろに新聞配達店に行き、黙々と新聞の間に広告を挟むのだが、

この時の睡魔との戦いは辛かった。

いつの間にか居眠りしてしまい、顔に、新聞のインクが移ってしまい、

そのまま学校に行って笑われた事を思い出した。

でも、翼が育った街が下町気質で、自分の家の商売の友達は

家の手伝いなどしていたから、翼がアルバイトするのも

普通の事だと思っていた。

早朝の新聞販売店で居眠りしてしまう翼を、新聞配達店のオヤジさんは見て

翼のバイトを夕刊だけにしてくれた事を思い出した。

今は、機械が新聞に広告を挟んでくれるのを見て、俺はびっくりした。

随分楽になったものだ。



新聞配達少年の楽しみの一つは、新聞勧誘に使われる野球の切符が、

たまに余る時があり、切符を貰えた時は、飛び上がるほど嬉しかった。

特に、巨人戦の切符が手に入った時などは、手から離さないで寝たものだ。

しかし、翼がいつも貰った切符のほとんどは、

「巨人対日本ハム イースタンリーグ」のチケット。

二軍の試合でも、プロのスピードある迫力のプレーが

一軍よりも間近で見られた事は、野球少年には刺激的だった。


翼は、久しぶりに新聞の端を擦り、新聞を鳴らしながら配った。

普通、新聞配達員は、エレベーターの無い団地での配達を嫌うが

この階段を二段、三段飛ばしで駆け上がり、

瞬発力も付き、足も速くなった。

そして、お金がもらえるのだから一石二鳥である。

他にもいいことがあるようであった。

新たに部員に加わった平沢は、

新聞配達すると、毎日かわいい子とすれ違うと、

喜んで新聞配達をしていた。

どうやら、甲子園出場の下に、なにやら書いたのは、彼のようである。


野球部のアイドル


都立大田工業野球部は、11人のメンバーしかいないので、

誰かが欠場しても、すぐに補えるように、

全てのポジションの練習をすることにていた。

ある日、翼は、多摩川の河川敷のグラウンドで、

ライトの練習をしていると、外野の奥の草むらから

ピャーピャーと鳴き声がした。

親と逸れたのか、1匹の子猫が、

おぼつかない足取りで、翼に近づいてきた。

片手に載る小さな猫だった。

翼を親と間違えているのか、ライトの守備位置に戻っても

ピャーピャーと鳴きながらまだ、目も開いたばかりで、

その子猫は必死に翼に近づいて来る。

「おい、練習のじゃまになるよ、踏んづけちゃうよ」

翼は、子猫を抱きかかえ、草むらに運んだ。

しかし、何回、草むらに返しても、翼の元に戻ってくる。

お母さん猫が、近くに居ないか翼は、周りを見渡したが

お母さん猫が、近くに居る気配は全くなかった。

どうやら、親猫とはぐれてしまったか、考えたくは無いが、

誰かが置いていってしまったのかもしれない。


練習が終わり、グランド整備を終え、学校に帰る準備をしていると、

また、ピャピャという泣き声がした。

子猫は、小さな足で、ライトから、ベンチまで

一生懸命ここまでやってきたのだ。

浜田が「かわいいな」と、抱きしめようとしたが

「だめだ、うちは、ペット厳禁のアパートだから

君を飼うことはできないんだよ」と、

抱き上げるのをやめた。


ふと、空を見上げると、カラスが、何羽か飛んでいた。

どうやら、この子猫を狙っているようであった。

カラスを見ると、浜田は「やっぱりだめだ、連れてこ」と、

言って、子猫を抱きかかえ、顔に頬ずりした。

皆が浜田に近づき、子猫を覗き込んだ。

浜田は、「俺、こいつに胸をドキュンと

うち抜かれた。でも、どうしよう」浜田は、子猫を抱えて言った。

津田が、皆の思っている事を、代弁するように、

「部室で飼っちゃえばいいじゃん。

バレナイよ」

と言った。「おう、それがいい」と、

みんな声を上げた。

わが野球部のアイドル誕生である。


さて、部室に子猫を連れて帰り、早速、名前をつけることにした。

名前は「タマ」に決まった。

名前の由来は、多摩川で見つけられたのと、

野球部で、白球を追うということで、満場一致!

ありきたりの名前となってしまった。


みんなが、部室から帰ろうとすると、

タマは、また、ピャアピャア鳴き始めた。
 
こりゃ、一人で残せないな。

「困ったな」と、浜田が言った。

「お前が連れて連れてきたんだから、お前が責任とれ」と、翼が言うと

「だめだめ、グランドでも言ったけど、

俺んち、ペットだめなアパートなんだよ

以前、俺、猫飼って、ばれた前科があるから」

高橋が、「じゃ、とりあえずウチに連れて帰るよ」

と、言った。

翼が、「大丈夫かよ、お前の家、ラーメン屋だぞ。

生き物飼っていいのかよ」と、言うと、

「浜田、お前がオヤジに飼う交渉しろ、

お前の得意な話術で」と、言った。

浜田は、下を向き、モジモジしながら

「頑張ってみるよ」と、言った。


高橋の家、万幸の前に着くと

「本日、貸切のため、夜22:00より営業」という札が下がっていた。

翼が「今日、貸切じゃ、お店の中、入れいな」と、言うと、

高橋は、

「やった、うまく行くかも。

大丈夫だから、入れよ」と、言った。

高橋は、「ただいま」と、言って、いつものように店に入ると、

すぐに白いゴムエプロンを付けて、洗物を始めた。

「こんばんは」と、言って、翼たちが店に入ると、

お客さんは、どう見てもいつもの常連さん。

みんな、テレビに釘付けになっていた。

おやじさんも、カウンターに座りビール片手に

「おう」と、いうだけで、テレビから目を逸らさなかった。

テレビは、甲子園の、阪神、巨人戦の中継だった。


そして、テレビは「9回の裏、ジャイアンツの攻撃、得点は3対2、

ジャイアンツ逆転のチャンスではありますが、

放送終了時間が迫ってまいりました。

この放送の続きは、ラジオでお楽しみ下さい」

と、言った。

「おいおい、こんないいところで、何で中継終わらせるんだよ」と

店の中で、誰かが言った。

オヤジは、慌てて、棚にある、

ちょっと油でうす汚れたラジオを取って来て、スイッチを入れた。

なかなか、チューニングが出来なくて、あせっていた。

オヤジは、「何だ、聞こえねーじゃないか、ぼろいラジオだ」と、言って

ポンポンとラジオを叩いた。

津田は「おじさん、FMになっているんじゃない」

と、言って、ラジオを取って、スイッチを

FMから、AMに変えてチューニングした。

すると、ナイター中継がすぐ入った。

おやじは、ちょっと恥ずかしいそうにラジオを受け取り

「ありがとよ、後で、何でもすきなもん言ってくれ」と、言った。


ラジオからは、すごい歓声が聞こえた。

店の皆が、「どうなったんだ」と、カウンターに集まり、

ラジオに耳をすました。

「ジャイアンツ、逆転サヨナラ勝ちです。

伝統の一戦を制し、首位帰り咲きです」

と、聞こえた。

店の皆が、「よーし」と、沸いた。

「おいおい、いったいどうなったんだ、

まあ、どうでもいいや」と、

オヤジが言って、ビールを煽った。

「皆、今日は、ジャイアンツ、

逆転さよなら勝ち、首位返り咲き。

こんな嬉しいことは無い。

今日は、俺のおごりだ。

がんがんいってくれ」

と、言った。

店のみんなも、「おう」と、

言って、再び沸いた。

どうやら、常連さんは、オヤジの「おごり」と言う

言葉を、期待していたようだ。

高橋は、洗物の溜まった

シンクに両手をつき、首を振りながら

「これじゃもうからねーよな」

と、言った。


すかさず、浜田はドサクサにまぎれて

「オヤジさん、さっき何でも言ってくれって、

言いましたよね」と、言った。

「おおい、言った、言った。

何でも言ってくれ」

と、振り返るように、

ちょっとビールで赤くなった顔で言った。

「おやじさん、猫飼って下さい」と、

津田が言った。

 おやじさんは、「猫?猫でも何でも飼ってやら」

と、言って、「よしゃ、よっしゃ」と、

手を叩きながら、またビールを煽った。

そして、急に真顔で振り向き、「え!猫?」と、いった。

 俺たちは、やばいと、思った。

しかし、オヤジは、酔っ払っているのか、

「猫、なんだか分からね。まあいいか」と、

言って、お客さんと乾杯を始めた。

高橋は、「まったく」と、言いながら、

暖簾を店に入れ、赤提灯の電気を消した。


翌日、翼は、学校で高橋に、タマ

どうなったか聞いた。

高橋は「オヤジ、最初はどぎまぎしていたが、

ちょこちょこついて歩くタマが、

かわいくなっちゃって」と、ちょっと、笑いながら言った。

「タマにミルク上げながら『おいちいでちゅか』だって。

近所のみんなも、かわいがってくれて、

俺もほっとしているよ」と、言った。

それから、野球部部員で、代わる代わる、高橋の店に行き

タマの世話をすることになった。


ボール縫い


野球の道具で、一番痛むのが硬式のボールだ。

使っているうちに、ボールの糸が擦り切れてしまうのだ。

我が貧乏野球部はボールの数が少ないから、

余計に、ボールの痛みが激しい。

練習の後も、一日一人一個、ボールを縫ってから帰ることにした。

高橋がボールを縫いながら、「硬球の縫い目って、いくつあるか知っているか」と言った。

浜田が「知ってるよ108」

高橋が「浜田の煩悩の数と一緒だな。」と、言った

浜田は「失礼な。俺は、心を落ち着け、

無の境地でいつもボールの縫っているのさ。

座禅と同じだな」と、言った。


それでもボールは足りなくなるので、週末、一人二個のボールを持ち帰り、

縫うことにした。

翼は、土曜日、家に帰りボールを机の上に置いて、

日曜日にボールを縫おうとしたが、

日曜日、起きるとボールが机の上に無かった。

お袋は、仕事で出かけているので、夜、お袋が帰ってきてから、

ボールはどこに行ったか聞こうと思っていたら、

高橋の家で、タマの世話をして帰ると、縫われたボールが

机の上に二個置かれていた。

お袋が縫ってくれているのだろうか?


それにしても、

一つは綺麗に縫われているが、もう一つは、ちよっとひどい縫い方だ。

お袋は、まだ、仕事から帰ってきていなかった。

俺は「お袋、ボール縫い、ありがとう」と、置手紙をして休んだ。










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