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パブリック私生活

 日記のようなものを公に向けて書くことに、躊躇いがある。そもそも私は日記を書く習慣を持たないので公も何もないのだけれど、私の中で日記とは「その日に体験した出来事の、書き留めておきたい何事かを記す私的文書」と認識されている。純粋に生活の一場面を書き連ねたり、忘れたくない気持ちをなぞり書きしたり、あくまで自分自身に向けて書くもので、他者の目を意識した途端に虚飾が生まれる気がする。エッセイは自己完結というより感性の共有や価値観の交換を楽しむ他者向けの媒体だけれど、日記となると本当のことをそのまま書いたのではプライバシーに関わる場合もあるし、事実の羅列は退屈だし、誰かに読まれて困るようなことが書けなくなって結果、嘘になる。小説になってしまう。でもそう思ったら、なんだか突然そんな日記を書いてみたくなった。日常にひと匙かふた匙の脚色を、許される範囲で加えたい。

 という訳で以下の文章は、何の変哲もない、私のとある休日を綴った日記であります。


 「タコとイカとエビのうち、どれか一つしか食べれなくなるとしたらどれにする?」

「エビ」

そう答える自分の声で、目が覚めた。

 あでも、薄く切ったタコのカルパッチョすきなんだよね。ひんやりしてて。ううん、イカの竜田揚げとか、中華の塩炒めにブロッコリーと一緒に入ってる柔らかいモンゴウイカとか、もっとすきかもしれない。けどやっぱりエビかな一番は。エビフライでしょ、エビカレー、天むす、エビしんじょう、ガーリックシュリンプ、エビ焼売、エビクリームパスタ、エビグラタン、エビドリア、とりわけクリーム系と相性が良い。とにかく圧倒的にエビです、当然のことながらエビです、エビチリなのです。夢の中の私、ちゃんとエビを即答していて偉かった。その揺るぎのなさ、讃えるよ。

 ひとしきりお目覚め前のすきな海鮮ランキングを繰り広げた後、エビになった私は、もそもそベッドを抜け出して階下へ降りて行った。

 蛇口をひねると、と言ったららしさがあるとはいえ家の水栓はひねるタイプじゃなくコックを上げるタイプで、コックを上げると、水が出た。まだ若い透き通ったエビが数珠つなぎにつらつらと、出てきたりしなかった。現実にそんな文脈ありきのファンタジーを期待した所で甲斐もないことは、人生を通して思い知らされている。緑茶色の石鹸をネットでもこもこにして(泡は至って普通のミルク色)、今に窒息しそうになりながら洗顔をする。もこもこ泡を立てていたら、いつしか雲みたいにふくらんでふくらんで、泡は洗面器から溢れ出して洗面所を一杯にし、玄関に続く階段まで広がり、ドアを突きやぶり、門を通り抜けて村を満たしてゆきます。隣の家からその隣の家へ、公園へ、駅前広場へ。運河へ、船に乗って港へ、海へ、バブルバブルと音を立て、もう村じゅうが大さわぎ。村長さんもおまわりさんも、なんとか泡を止めようとあわあわ、懸命に駆けまわりますが、どんどん広がる泡に辺りは一面、真っ白な泡景色。村は、すっかり泡に包まれてしまいました。さんずいに包むと書いて、泡。村の人たちはみんな無事なのでしょうか。

 洗顔終了。タオルを顔に押し当てる時って、かなりの割合で息を詰めている。洗顔くるしい。

 100m走のコースを石灰粉で引く要領でオリーブオイルを一周させたトーストに、アボカドと茹でたエビをサンドする。アボカドってアボガドじゃないんだよ。アボカドなの。濁点、多い。地団駄と同じだけ濁点付けるのは良くないよ。アボカドは焼かない方が絶対、美味しいね。譲れないよね。焼くとあおむしの味する。サラダに胡麻ドレッシングをかけて、レタスに胡麻の風味をドレスする。ドレスするとかいう表現、気取っててすきでないな。まあ胡麻の介入によって、気取りが作用してない感はある。朝からエビを食べれてうれしい、とまでは思わないです。最初あんなにエビを評価しておいて実はそこまでエビ党ってわけでもなくて。でも美味しいのは本当だから。ああもう、そんなに気落ちしないで。美味しいから。

 洗おう洗おう、と思っていた冬物セーターを、意を決して洗うことにした。まず、乳白色の桶にぬるま湯をため、おしゃれ着用洗剤とやらをくるりと垂らし、紺色のセーターをざぶんと浸す。浸したばかりの頃は、すぐには水に馴染めなくて(初めの一歩がゆっくりなの、私もだよ)表面にたっぷり反抗的な泡をまぶしていたセーター君も、時が経つにつれ角が取れていつしか大人になり、ゆったりと水に身を横たえるようになるまでが遠足です。はい、ざぶんじゃぶん。水を吸ってダークモードにシフトした重たいセーターを、何度も何度も押しながら洗う。お湯の色が、ごく薄い青に染まる。そうして「これは果たして本当に正しい行いなのだろうか」などと逡巡せずに済む行為のありがたみを享受する。単純作業、機械的に体を働かせている分思考が自由になるからすきかもしれない。洗い物とか。ざぶざぶ、しゃばしゃばーー、とぷん。泡が目に入る、痛い、慌ててお水で流す。泣いてるの? 全然、泣いてないよ。小さい頃から人前で泣くのは恥みたいな、武士みたいな精神がずっとある。私たぶん前世、武士か騎士だと思う。血が苦手だから、作戦会議だけ参加して現場に赴かないタイプの武士。それでみんなから非難されて、島に流されて自己嫌悪に陥って、ハラキリも無理だし現実逃避に走ったの。あれ、あんまり成長してないな。現世って、前世で果たし得なかったことをするために存在するの? ええー困るって、荷が重いよ、前世で片を付けといて下さい。よろしくお願いしました。

 眠って起きてしばらくしたらまたベッドの中に戻っているって、世界の三大七不思議だよね。え、うん、七不思議だけど。どうかしたの。
 本を開く、開いたそばから音楽を聴きたくなる。本を読みながら音楽を聴けない、ご飯を食べながら映画も見れない、会話をしていると食事が滞る、そんな君はどうしたって聖徳太子にはなれません。早いとこ諦めた方がいい。

 人生を通じてどれだけ自分と対話しながら生きていることか。対話する人間が賢いと自分の愚かさ加減に消えたくなったりするけど、対話する人間の9割が自分だから、大概誰も引き留めてくれはしない。それはおかしいとか間違ってるとか、そんなことも知らないのとか、言われた方がまだましだと思う。永遠わけのわからない、正しさも誤りにも気づけずに、思考の迷宮をナンバプレート無しでスピード違反しながら走り続けている。無免許で。

 音楽を、何かの儀式みたいに聴く。イヤホンを装着して横になって目を閉じると、音だけが身体を通過する。今流れている音だけの世界になって、自分がいなくなる。いや、いるんだけど。主張する側の自分じゃなくて、雨の染み込む大地みたいに、受け入れる側になる。ちがうな、受け入れるより「通過する」かも。トンネルかも。音、通りまーす。どうぞどうぞ、ご遠慮なくお通りになって。トンネルなの、私。向こう側までシースルー、するんとスルーしてね。

 午後、街に出かけた。吉祥寺は町なのか街なのか。住みたいまちランキング、の時の「まち」は「街」だった? うーん、まちまちかな、ちまちましたお店たくさんあるけど、ででん、て感じのショッピングモールもたくさんある。人口が多ければやっぱり街か。吉祥寺のすきな所、空気感が自分の身の丈に合っていること。身の丈に合っているというか、しっくりくる。自分好みの服を着ていて、少しも萎縮しないでいられる。街に溶け込める。表参道とかだとそうもいかない。全く嫌いじゃないし普通にすきだけど、吉祥寺の服で表参道を歩くと足元ばかり見てしまう。人目が気になるというより、街目が気にかかる。きりっとした規律正しい剣道部に弛んでる生徒が一名います、先生どうしますか。と言われているような気分。景観を乱すほどの存在感はないけど、ほら、綺麗な珊瑚礁にお醤油を一滴垂らすのは、たとえ一滴でも心苦しいでしょう。それと同じです。だから吉祥寺はすき。西荻窪、高円寺あたりも兄妹だと思ってる。西荻は妹で、高円寺がお兄ちゃん。

 お風呂に入る時は無心解脱僧になるか、空想暴走族になるかの二択。最近は前者が優勢だけども、バランス良くありたいとは思う。昔はよく、人間に捕まった人魚姫ごっこをしていた。おもに冬。これをするとかなり身体が温まる。お風呂の蓋を閉めて、真っ暗闇の中お湯に浸かって、時折ぽとんと跳ねる水音にじっと耳を傾けながら逃げ出す方法を考えているマーメイド。下半身が魚という理由で水の中に入れられてるものの、人魚ってたぶん肺呼吸だよね。こんな遊びをしている身で言いにくいんだけど、全然憧れないな。陸と海両方において不自由すぎる。せめて上半身と下半身、入れ替えてみたら、と想像したらもっと嫌だった。すたすた歩けるのに思考力は魚。王子様と恋とか絶対に落ちれない。それより毎朝、餌をくれる海辺のホームレスのおじ様、すきです。

 本当に、一日を有効に使えた試しがない。人生の中で何日かは有効に使えてたかもしれないけれど、これまで浪費してきた時間の負債を思うと頭痛が痛い。最近は低気圧も低血圧も低いから。今日も起きた瞬間、夜が来ました。そんなお話をいつか書いたっけ。でも実際、夜はやって来るものじゃない。本当の世界はずっと闇夜だ。太陽が巡る朝は「来る」としても、夜は「戻る」がきっと正しい。だから私も、眠りが初期状態なのかもしれない。朝がやって来たお布団の中で、目覚めたはずの私。目覚めたのは夢だった。起きて洗顔して幼稚園に学校に、せっせと試験を受けてスイミングに通って風邪をひいてエビ焼売を食べてお湯から上がってクレジットカードを止めてSLに乗ったり就職したりする夢を見ていた。私はかなり寝起きが良い方。起きた瞬間に夢の続きの鼻歌とか歌えるし、今朝みたいに会話も続けられる。それは起きたのもまた夢だからなのかもしれなくて、だとしても少しも不思議じゃない。

 眠りに戻るためベッドに潜る。何もしない、が私は楽しい。とても楽しい。でもそれと同時に、こっぴどく詰られもする。心の鬼教官に。その人は怖い。ちっとも優しくない。いつも眉間に皺を寄せている。少し前、「そんなに怒ってばかりいて」と言ったら口も聞いてくれなくなった。怒られるうちが花って言うね、つらいな。こんな時は早く寝てしまうことだ。眠りに落ちるってすいみんぐ。潜水。眠りの森へ続く水中トンネルが口を開けて私を待ち受けているのを、音と一緒にするんと通過する。私が徐々に、初期化してゆく。


 書いてみてよくわかった。事実とか虚構とか公私の線引き以前に、文末だけ読んでもこれが日記と呼べないことは明らかである。日記です、と言いながら平日に休日の日記を書いている時点でもうアウトだけど。事実に脚色を加えたかったのに、虚構に真実を加えてるじゃない。日記難しいね。毎日欠かさず日記を書くという習慣をお持ちの方々を、改めて深く尊敬してしまう。私やはり日記はあまり向いてませんでした。やはりあまり。以上です。


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