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【私の感傷的百物語】第十四話 お化け屋敷

ある時、NHKでお化け屋敷に関する番組をやっていました。老いも若きも作り物のお化けに絶叫しながら怖がっています。その様子を見ていたら、恐ろしい訳でもなんともないのに、不思議と涙がポロポロと流れてきました。落語家の立川談志師匠が、映画の「ザッツ・エンタテイメント」を観て、「悲しくもないのに泣けて泣けて仕方がなかった」といった話をされていましたが、それにちょっと似ているかもしれません。この番組を観てつくづく思い知ったのは、

「お化け屋敷は怖がってこそお化け屋敷だ」

という、単純な、しかし僕が長年見落としていたことでした。

以前の僕は、「脅かされても怖がらないことがカッコイイ」、すなわち度胸試し的な意味合いでお化け屋敷を捉えていました。そのため、小学校の頃は、学校祭でお化け屋敷をやっているクラスがあれば、きっとお化け役の子を茶化していました。また、中学校の卒業旅行で行った遊園地でも、当時「世界一長い」とうたっていたお化け屋敷に入って、友人が「お化けの脅かしが少なくなるお守り(有料)」を買ってくれたのをいいことに、手心を加えてくれるお化けをいじったりしていました。今思えば、さぞかし嫌な客だったでしょう。

ですが、前述の番組を観て以来、僕の考えは変わりました。お化け屋敷は、日常ですっかり失われてしまった恐怖を、安全なかたちで思う存分体験するための施設なのです。普段は絶対に出さないような叫び声を上げて、偽物と分かっていても震え上がる化け物たちに出会った後、我々は自分自身の弱さに正面から対峙することができるのです。そして、帰り道にほんの少し、他者に対して優しくなれるのではないでしょうか。

そういえば、幼稚園くらいの時に初めてお化け屋敷に入った際の記憶が、ぼんやりとですが、残っています。もうどこの遊園地だったかも、忘れてしまっていますが、出口付近の出来事だけは覚えています。僕が泣きながら走り出すと、足元の床が「カアッ」という効果音とともに真っ赤に光って、恐ろしい形相の顔が映し出されたのです(あの瞬間、本当にショックで気絶しそうでした)。暗闇から見た出口は陽光でさんさんと輝いていて、そこをくぐり抜けると、全身が安堵感に包まれ、子供心にも「冒険を終えた」といった気分になりました。あの時の僕は、確かに、与えられた恐怖を全身で体験していたと思います。

ここ最近は、お化け屋敷に行ったという記憶がありません。この文章を書いているうちに、「作られ、演じられるお化け」たちに会いたくなってきました。暇を見つけて、今度は絶対に(幼稚園の自分を思い出しながら)絶叫し、腰を抜かし、半べそになりながら、建物から転がり出てみたいです。

歌川国芳『百物語化物屋敷の図(林家正蔵工夫の怪談)』

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