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【私の感傷的百物語】第六話 根室の怪

大学4年生の時、卒業研究のために、北海道根室市に2、3ヶ月ほど逗留したことがありました。僕は現地の民宿に泊まりながら、市の職員さんの車で、花咲港のはずれに位置する水産センターへと通っていました。そこでの仕事は、サンマの肉を加工したり、魚油の量を測定したりといったものでした。
この水産センターというのは不思議な建物で、その当時で築20年という、ガラス戸と木造の外観をしていました。その姿は、花咲港周辺のひなびた風景と相まって、北海道開拓時代の伝統がまだ残っているかのごとく思わせるものでした。

作業をはじめてひと月過ぎるまでの間に、施設内で何度か奇妙な出来事がありました。事務所と魚の加工場の間にある、スリッパから長靴へと履き替える場所で、行きに脱いだスリッパの数が、帰りには一足増えているのです。誰が履いたとも知れぬスリッパを帰りがけに見るたびに、一緒に仕事をしていた職員さんはニヤリと笑って、

「ああ、また幽霊が出ましたねえ」

と言うのでした。特別、人で賑わっているというわけでもないセンターの中でそういった話を聞くのは、あまり気持ちのいいものではありません。僕は相槌を打ちつつも、きっと何かの手違いがあったのだろうと思うようにしていました。

10月の終わり頃だったと思います。その日は職員さんと二人きりで、夜になるまで仕事をしていたのですが、時計が7時を回ったあたりで、加工場から外に繋がる出口から

「オオオオオオ」

という音が聞こえてきました。それは、人の呻き声とも、動物の鳴き声とも判別のつかない音でした。出口付近はもう照明が消えていて、その先には、北方の冷たい海が続いています。暗闇から響いた奇妙な音に、僕も職員さんも一瞬動きが止まり、
「何の音でしょうね?」
「さあ、分かりませんね」
と、短いやりとりをしました。

その後もしばらく作業は続き、やっとその日の予定を終えた時、僕は実験器具の片付けを思い出し、しぶしぶ実験室へと向かいました。この実験室にも、加工場と繋がっているガラス戸があるのですが、だいぶ前に何かの手違いでガラスが割れてしまったらしく、段ボールが貼られ、締め切られていました。試験管を洗浄機へ入れる僕の視界に、段ボールの隙間から加工場の闇がチラチラと映りました。その時、

ドンドンドン

と、まるで誰かが叩いているようにガラス戸が激しく揺れたのです。この日、風はほとんど吹いていませんでした。一瞬、僕は全身に冷たい水でも浴びせられたかのように全身が硬直してしまいました。ただ、すぐに「ああ、あんな音がした後だから、きっと職員さんが僕を驚かすために向こうから戸を叩いたんだ。まったく、悪い人だ」と考えました。ところが、その途端に後ろから
「終わりましたか?」
と、職員さんが実験室へと入ってきたのでした。こんな短時間で加工場からここまで来るのは不可能ですし、そのような足音も一切聞こえませんでした。一瞬の安堵はたちまち崩壊し、腹の底から恐怖が這い上ってくるのでした。

結局、この晩以降、怪異らしい現象は起こりはしませんでした。代わりに根室の地は雪が降り始め、湖は凍りつき、連日、激しい風が吹き荒れるようになりました。初めての北国の冬の日々を過ごすうちに、僕はすっかり精神的に参ってしまい、半ば鬱病のような状態となってしまったのでした。あの戸を叩いたのが、もしも人間以外の何者かだったとすれば、その者はこれからやって来るであろう厳しい季節と、僕自身の身に降りかかる災難を告げにきたのではないかと、今では、ちょっと都合よく考えています。


根室市の水産センターに通っていた頃の、唯一残っていた写真。
キュウリウオ、チカ、コマイ、マイワシ、ホッケ……。
豊饒な、底知れぬ、根室の海の恵み。

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