電通事件(H12/3/ 24)

事案

「過労死」という言葉が一般に知れ渡ったのは、電通におけるこの裁判がきっかけだったと言われる。事件が起こったのは1991年のことだ。1990年に入社し、上司の評判も良かった新入社員が非常に長い残業時間勤務によりうつ病に罹患し、その後自殺する。親族が会社側の労務管理不行届き等を理由に会社を訴えた、というものだ。
実際の最高裁判決では、事実関係が事細かく綴ってあるので、いくつか拾ってみる。以下、Fが被害者、「一審原告」がその遺族、「一審被告」が会社側である。

Fは、平成二年一一月末ころまでは、遅くとも出勤した翌日の午前四、五時ころには帰宅していたが、このころ以降、帰宅しない日や、一審原告Gが利用していた東京都港区内所在の事務所に泊まる日があるようになった。一審原告らは、Fが過労のために健康を害するのではないかと心配するようになり、一審原告Gは、Fに対し、有給休暇を取ることを勧めたが、Fは、自分が休んでしまうと代わりの者がいない、かえって後で自分が苦しむことになる、休暇を取りたい旨を上司に言ったことがあるが、上司からは仕事は大丈夫なのかと言われており、取りにくいと答えて、これに応じなかった。
(中略)
Fの所属するK推進部には、平成三年七月に至るまで、新入社員の補充はなかった。同月以降、Fは、班から独立して業務を遂行することとなり、N営業局関係の業務とP営業局関係の業務の一部を担当し、O営業局関係の業務の一部を補助するようになった。 このころ、Fは、出勤したまま帰宅しない日が多くなり、帰宅しても、翌日の午前六時三〇分ないし七時ころで、午前八時ころまでに再び自宅を出るという状況となった。一審原告Qは、栄養価の高い朝食を用意するなどしてFの健康に配慮したほか、自宅から最寄りの駅まで自家用車でFを送ってその負担の軽減を図るなどしていた。これに対し、一審原告Gは、Fと会う時間がほとんどない状態となった。一審原告らは、このころから、Fの健康を心配して体調を崩し、不眠がちになるなどしていた。一方、Fは、前述のような業務遂行とそれによる睡眠不足の結果、心身共に疲労困ぱいした状態になって、業務遂行中、元気がなく、暗い感じで、うつうつとし、顔色が悪く、目の焦点も定まっていないことがあるようになった。このころ、Mは、Fの健康状態が悪いのではないかと気付いていた。Fは、平成三年八月一日から同月二三日までの間、同月三日から同月五日までの間に旅行に出かけたほかは、休日を含めてほぼ毎日出社した。Fは、右旅行のため同月五日に有給休暇を取得したが、これは、平成三年度において初めてのものであった。Fは、同月に入って、Mに対し、自分に自信がない、自分で何を話しているのか分からない、眠れないなどと言ったこともあった。平成三年八月二三日、Fは、午後六時ころにいったん帰宅し、午後一〇時ころに自宅を自用車で出発して、翌日から取引先企業が長野県内で行うこととしていた行事の実施に当たるため、同県内にあるMの別荘に行った。この際、Mは、Fの言動に異常があることに気付いた。Fは、翌二四日から同月二六日までの間、右行事の実施に当たり、その終了後の二六日午後五時ころ、行事の会場を自家用車で出発した。Fは、平成三年八月二七日午前六時ころに帰宅し、弟に病院に行くなどと話し、午前九時ころには職場に電話で体調が悪いので会社を休むと告げたが、午前一〇時ころ、自宅の風呂場において自殺(い死)していることが発見された。

条文の整理

損害賠償に関する条文は民法にある

民法
第七百九条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
第七百十五条 ある事業のために他人を使用する者は、被用者がその事業の執行について第三者に加えた損害を賠償する責任を負う。ただし、使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったときは、この限りでない。
第七百二十二条 第四百十七条の規定は、不法行為による損害賠償について準用する。
2 被害者に過失があったときは、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の額を定めることができる。

709が損害賠償について定めた者、715がいわゆる使用者責任について定めたもの、722が損賠賠償を前提として被害者側に過失があった場合にその減額を認めることが出来る、いわゆる「過失相殺」というものだ。
特に高裁判決においては、1点目・2点目は認めた上で、3点目について、「Fの真面目で完璧主義、責任感が強いといったFのうつ病親和的性格や、同居していた両親がFの勤務状況を改善する措置を講じなかったこと」が過失事由に認められ減額判決となっていた。
なお、民法418条にも過失相殺がある。こちらは債務不履行に関する規定である。

第四百十八条 債務の不履行に関して債権者に過失があったときは、裁判所は、これを考慮して、損害賠償の責任及びその額を定める。

次に、使用者と労働者側の基本事項は労働基準法に定まっている。この内、残業時間に関しての取り決めは36条にある。いわゆる「サブロク協定」である。

労働基準法
第三十六条
使用者は、当該事業場に、労働者の過半数で組織する労働組合がある場合においてはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がない場合においては労働者の過半数を代表する者との書面による協定をし、厚生労働省令で定めるところによりこれを行政官庁に届け出た場合においては、第三十二条から第三十二条の五まで若しくは第四十条の労働時間(以下この条において「労働時間」という。)又は前条の休日(以下この条において「休日」という。)に関する規定にかかわらず、その協定で定めるところによつて労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる。
○2 前項の協定においては、次に掲げる事項を定めるものとする。
一 この条の規定により労働時間を延長し、又は休日に労働させることができることとされる労働者の範囲
二 対象期間(この条の規定により労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる期間をいい、一年間に限るものとする。第四号及び第六項第三号において同じ。)
三 労働時間を延長し、又は休日に労働させることができる場合
四 対象期間における一日、一箇月及び一年のそれぞれの期間について労働時間を延長して労働させることができる時間又は労働させることができる休日の日数
五 労働時間の延長及び休日の労働を適正なものとするために必要な事項として厚生労働省令で定める事項
○3 前項第四号の労働時間を延長して労働させることができる時間は、当該事業場の業務量、時間外労働の動向その他の事情を考慮して通常予見される時間外労働の範囲内において、限度時間を超えない時間に限る。
○4 前項の限度時間は、一箇月について四十五時間及び一年について三百六十時間(第三十二条の四第一項第二号の対象期間として三箇月を超える期間を定めて同条の規定により労働させる場合にあつては、一箇月について四十二時間及び一年について三百二十時間)とする。

なお、今回の事例は判例によれば、

残業時間は各従業員が勤務状況報告表と題する文書によって申告することとされており、残業を行う場合には従業員は原則としてあらかじめ所属長の許可を得るべきものとされていたが、実際には、従業員は事後に所属長の承認を得るという状況となっていた。一審被告においては、従業員が長時間にわたり残業を行うことが恒常的に見られ、三六協定上の各労働日の残業時間又は各月の合計残業時間の上限を超える残業時間を申告する者も相当数存在して、労働組合との間の協議の席等において問題とされていた。さらに、残業時間につき従業員が現に行ったところよりも少なく申告することも常態化していた。一審被告は、このような状況を認識し、また、残業の特定の職場、特定の個人への偏りが問題であることも意識していた。

という。

そして、労働者の安全と衛生についての基準を定めた労働安全衛生法、通称「安衛法」においては、

労働安全衛生法
第六十五条の三 事業者は、労働者の健康に配慮して、労働者の従事する作業を適切に管理するように努めなければならない。

判決

この判決での一つのポイントは家族側に過失があり、722条の「過失相殺」が認められるのかどうか、にあった。
原審は、
(1)Fには、前記のようなうつ病親和性ないし病前性格があったところ、このような性格は、一般社会では美徳とされるものではあるが、結果として、Fの業務を増やし、その処理を遅らせ、その遂行に関する時間配分を不適切なものとし、Fの責任ではない業務の結果についても自分の責任ではないかと思い悩む状況を生じさせるなどの面があったことを否定できないのであって、前記性格及びこれに基づくFの業務遂行の態様等が、うつ病り患による自殺という損害の発生及び拡大に寄与しているというべきであるから、一審被告の賠償すべき額を決定するに当たり、民法七二二条二項の規定を類推適用し、これらをFの心因的要因としてしんしゃくすべきであると判断。
これに加えて、
(2)Fの両親としてFと同居し、Fの勤務状況や生活状況をほぼ把握していたのであるから、Fがうつ病にり患し自殺に至ることを予見することができ、また、Fの右状況等を改善する措置を採り得たことは明らかであるのに、具体的措置を採らなかったとして、これを一審被告の賠償すべき額を決定するに当たりしんしゃくすべきであるとした。
が、最高裁はこのどちらも否定し、F側に落ち度はなく、過失相殺を適用する余地はないと断じた。

(判決文)
身体に対する加害行為を原因とする被害者の損害賠償請求において、裁判所は、加害者の賠償すべき額を決定するに当たり、損害を公平に分担させるという損害賠償法の理念に照らし、民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して、損害の発生又は拡大に寄与した被害者の性格等の心因的要因を一定の限度でしんしゃくすることができる(最高裁昭和五九年(オ)第三三号同六三年四月二一日第一小法廷判決・民集四二巻四号二四三頁参照)。この趣旨は、労働者の業務の負担が過重であることを原因とする損害賠償請求においても、基本的に同様に解すべきものである。しかしながら、企業等に雇用される労働者の性格が多様のものであることはいうまでもないところ、ある業務に従事する特定の労働者の性格が同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものでない限り、その性格及びこれに基づく業務遂行の態様等が業務の過重負担に起因して当該労働者に生じた損害の発生又は拡大に寄与したとしても、そのような事態は使用者として予想すべきものということができる。しかも、使用者又はこれに代わって労働者に対し業務上の指揮監督を行う者は、各労働者がその従事すべき業務に適するか否かを判断して、その配置先、遂行すべき業務の内容等を定めるのであり、その際に、各労働者の性格をも考慮することができるのである。したがって、労働者の性格が前記の範囲を外れるものでない場合には、裁判所は、業務の負担が過重であることを原因とする損害賠償請求において使用者の賠償すべき額を決定するに当たり、その性格及びこれに基づく業務遂行の態様等を、心因的要因としてしんしゃくすることはできないというべきである。
 これを本件について見ると、Fの性格は、一般の社会人の中にしばしば見られるものの一つであって、Fの上司であるLらは、Fの従事する業務との関係で、その性格を積極的に評価していたというのである。そうすると、Fの性格は、同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるものであったと認めることはできないから、一審被告の賠償すべき額を決定するに当たり、Fの前記のような性格及びこれに基づく業務遂行の態様等をしんしゃくすることはできないというべきである。この点に関する原審の前記判断には、法令の解釈適用を誤った違法がある。
(中略)
しかしながら、Fの前記損害は、業務の負担が過重であったために生じたものであるところ、Fは、大学を卒業して一審被告の従業員となり、独立の社会人として自らの意思と判断に基づき一審被告の業務に従事していたのである。一審原告らが両親としてFと同居していたとはいえ、Fの勤務状況を改善する措置を採り得る立場にあったとは、容易にいうことはできない。その他、前記の事実関係の下では、原審の右判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるというべきである。

本人の性格と過失相殺(S63/4/21)

本判決で引用されている当該判決。かなり特殊な交通事故事案である。事故を起こした方が、念のため医師の診察を受けるよう、また、事故の申告のため警察に同行してもらいたい旨を被害者に申し入れたが、被害者は、帰りを急いでいるからと述べて被上告人Bの氏名と住所を聞いただけで帰宅した。ところが本件事故の一か月後になつて一〇〇万円の損害賠償を要求してきた。そのため、その被害者らの態度に不信感を持つたため、被害者を見舞うこともなく、また自動車損害賠償責任保険による弁済のほか治療費の支払いもしていない、といったもの。
こうした事情の下で、冒頭に原則を述べた上で、判決は過失相殺を認めている。

(判決文)
思うに、身体に対する加害行為と発生した損害との間に相当因果関係がある場合において、その損害がその加害行為のみによつて通常発生する程度、範囲を超えるものであつて、かつ、その損害の拡大について被害者の心因的要因が寄与しているときは、損害を公平に分担させるという損害賠償法の理念に照らし、裁判所は、損害賠償の額を定めるに当たり、民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して、その損害の拡大に寄与した被害者の右事情を斟酌することができるものと解するのが相当である。
(略)
原審の確定した事実関係のもとにおいては、上告人は本件事故により頭頸部軟部組織に損傷を生じ外傷性頭頸部症候群の症状を発するに至つたが、これにとどまらず、上告人の特異な性格、初診医の安静加療約五〇日という常識はずれの診断に対する過剰な反応、本件事故前の受傷及び損害賠償請求の経験、加害者の態度に対する不満等の心理的な要因によつて外傷性神経症を引き起こし、更に長期の療養生活によりその症状が固定化したものと認めるのが相当であり、この上告人の症状のうち頭頸部軟部組織の受傷による外傷性頭頸部症候群の症状が被上告人Bの惹起した本件事故と因果関係があることは当然であるが、その後の神経症に基づく症状についても右受傷を契機として発現したもので、その症状の態様からみて、E病院退院後自宅療養を開始したのち約三か月を経過した日、すなわち事故後三年を経過した昭和四七年三月二〇日までに、右各症状に起因して生じた損害については、本件事故との間に相当因果関係があるものというべきであるが、その後生じた分については、本件事故との間に相当因果関係があるものとはいえない。また、右事実関係のもとにおいては、上告人の訴えている右症状のうちには上告人の特異な性格に起因する症状も多く、初診医の診断についても上告人の言動に誘発された一面があり、更に上告人の回復への自発的意欲の欠如等があいまつて、適切さを欠く治療を継続させた結果、症状の悪化とその固定化を招いたと考えられ、このような事情のもとでは、本件事故による受傷及びそれに起因して三年間にわたつて上告人に生じた損害を全部被上告人らに負担させることは公平の理念に照らし相当ではない
すなわち、右損害は本件事故のみによつて通常発生する程度、範囲を超えているものということができ、かつ、その損害の拡大について上告人の心因的要因が寄与していることが明らかであるから、本件の損害賠償の額を定めるに当たつては、民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して、その損害の拡大に寄与した上告人の右事情を斟酌することができるものというべきである。

精神的健康に関する不申告(H26/3/24)

その後の判例において本件が引用された事例。うつ病になり、会社を休んだ結果、解雇された事案について、解雇無効と損害賠償請求を求めた事案。神経科の医院への通院・その診断に係る病名等の情報を上司や産業医等に申告しなかったことが、従業員サイドの過失になるのか、という点について、最高裁はならないと明言した。

(判決文)
本件は,被上告人の従業員であった上告人が,鬱病に罹患して休職し休職期間満了後に被上告人から解雇されたが,上記鬱病(以下「本件鬱病」という。)は過重な業務に起因するものであって上記解雇は違法,無効であるとして,被上告人に対し,安全配慮義務違反等による債務不履行又は不法行為に基づく休業損害や慰謝料等の損害賠償,被上告人の規程に基づく見舞金の支払,未払賃金の支払等を求める事案である。
・・・
上告人は,8月10日に課長に勧められて被上告人のメンタルヘルス相談を受診し,同月11日から同月15日まで夏季休暇を利用して療養した後,同月24日に本件医院からしばらく休んで療養するようにと助言されたのを受けて,9月3日に1か月の休養を要する旨を記載した本件医院の診断書を提出して休暇の手続を執り,同月末まで休暇を取得して勤務に就かなかった。 上告人は,10月1日から1週間にわたり出勤したが,頭痛が生じたため再び療養することとし,同月9日以降,抑鬱状態で約1か月の休養を要するなどと記載した本件医院の診断書をほぼ毎月提出して欠勤を続け,定期的な上司との面談等を経て,職場復帰の予定で平成14年5月13日に半日出勤したが,翌日から再び上記と同様に欠勤を続けた。
被上告人は,上告人の欠勤期間が就業規則の定める期間を超えた平成15年1月10日,上告人に対し,休職を発令し,定期的な上司との面談等を続けたが,その後も上告人が職場復帰をしなかったため,同16年8月6日,上告人に対し,休職期間の満了を理由とする解雇予告通知をした上,同年9月9日付けで解雇の意思表示をした。
・・・
原審は,上記事実関係等の下において,前記解雇は無効であるとし,過重な業務によって平成13年4月頃に発症し増悪した本件鬱病につき被上告人は上告人に対し安全配慮義務違反等を理由とする損害賠償責任を負うとした上で,その損害賠償の額を定めるに当たり,要旨次の(1)及び(2)のとおり判断して,過失相殺に関する民法418条又は722条2項の規定の適用ないし類推適用により損害額の2割を減額するとともに,休業損害に係る損害賠償請求につき,要旨次の(3)のとおり判断して,その認容すべき額が選択的併合の関係にある未払賃金請求の認容すべき額を下回るからこれを棄却すべきものであるとした。
(1) 上告人が,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等の情報を上司や産業医等に申告しなかったことは,被上告人において上告人の鬱病の発症を回避したり発症後の増悪を防止する措置を執る機会を失わせる一因となったものであるから,上告人の損害賠償請求については過失相殺をするのが相当である。
(2) 上告人が,入社後慢性的に生理痛を抱え,平成12年6月ないし7月頃及び同年12月には慢性頭痛及び神経症と診断されて抑鬱や睡眠障害に適応のある薬剤の処方を受けており,業務を離れて治療を続けながら9年を超えてなお寛解に至らないことを併せ考慮すれば,上告人には個体側のぜい弱性が存在したと推認され,上告人の損害賠償請求についてはいわゆる素因減額をするのが相当である。
(3) 本件傷病手当金等の上告人保有分については,傷病手当金は療養のため就業できない場合に支給するものとされていること等に照らせば,上告人に対する損害賠償の額から控除することが相当であり,いまだ支給決定がされていない期間の休業補償給付についても,これと同様に上記の額から控除することが相当である。

4 しかしながら,原審の上記3(1)ないし(3)の判断は是認することができな
い。その理由は,次のとおりである。
(1)ア 上告人は,本件鬱病の発症以前の数か月において,前記2(3)のとおりの時間外労働を行っており,しばしば休日や深夜の勤務を余儀なくされていたところ,その間,当時世界最大サイズの液晶画面の製造ラインを短期間で立ち上げることを内容とする本件プロジェクトの一工程において初めてプロジェクトのリーダーになるという相応の精神的負荷を伴う職責を担う中で,業務の期限や日程を更に短縮されて業務の日程や内容につき上司から厳しい督促や指示を受ける一方で助言や援助を受けられず,上記工程の担当者を理由の説明なく減員された上,過去に経験のない異種製品の開発業務や技術支障問題の対策業務を新たに命ぜられるなどして負担を大幅に加重されたものであって,これらの一連の経緯や状況等に鑑みると,上告人の業務の負担は相当過重なものであったといえる。
イ 上記の業務の過程において,上告人が被上告人に申告しなかった自らの精神的健康(いわゆるメンタルヘルス)に関する情報は,神経科の医院への通院,その診断に係る病名,神経症に適応のある薬剤の処方等を内容とするもので,労働者にとって,自己のプライバシーに属する情報であり,人事考課等に影響し得る事柄として通常は職場において知られることなく就労を継続しようとすることが想定される性質の情報であったといえる。使用者は,必ずしも労働者からの申告がなくても,その健康に関わる労働環境等に十分な注意を払うべき安全配慮義務を負っているところ,上記のように労働者にとって過重な業務が続く中でその体調の悪化が看取される場合には,上記のような情報については労働者本人からの積極的な申告が期待し難いことを前提とした上で,必要に応じてその業務を軽減するなど労働者の心身の健康への配慮に努める必要があるものというべきである。また,本件においては,上記の過重な業務が続く中で,上告人は,平成13年3月及び4月の時間外超過者健康診断において自覚症状として頭痛,めまい,不眠等を申告し,同年5月頃から,同僚から見ても体調が悪い様子で仕事を円滑に行えるようには見えず,同月下旬以降は,頭痛等の体調不良が原因であることを上司に伝えた上で1週間以上を含む相当の日数の欠勤を繰り返して予定されていた重要な会議を欠席し,その前後には上司に対してそれまでしたことのない業務の軽減の申出を行い,従業員の健康管理等につき被上告人に勧告し得る産業医に対しても上記欠勤の事実等を伝え,同年6月の定期健康診断の問診でもいつもより気が重くて憂鬱になる等の多数の項目の症状を申告するなどしていたものである。このように,上記の過重な業務が続く中で,上告人は,上記のとおり体調が不良であることを被上告人に伝えて相当の日数の欠勤を繰り返し,業務の軽減の申出をするなどしていたものであるから,被上告人としては,そのような状態が過重な業務によって生じていることを認識し得る状況にあり,その状態の悪化を防ぐために上告人の業務の軽減をするなどの措置を執ることは可能であったというべきである。これらの諸事情に鑑みると,被上告人が上告人に対し上記の措置を執らずに本件鬱病が発症し増悪したことについて,上告人が被上告人に対して上記の情報を申告しなかったことを重視するのは相当でなく,これを上告人の責めに帰すべきものということはできない。
ウ 以上によれば,被上告人が安全配慮義務違反等に基づく損害賠償として上告人に対し賠償すべき額を定めるに当たっては,上告人が上記の情報を被上告人に申告しなかったことをもって,民法418条又は722条2項の規定による過失相殺をすることはできないというべきである
(2) また,本件鬱病は上記のように過重な業務によって発症し増悪したものであるところ,上告人は,それ以前は入社以来長年にわたり特段の支障なく勤務を継続していたものであり,また,上記の業務を離れた後もその業務起因性や損害賠償責任等が争われて複数の争訟等が長期にわたり続いたため,その対応に心理的な負担を負い,争訟等の帰すうへの不安等を抱えていたことがうかがわれる。これらの諸事情に鑑みれば,原審が摘示する前記3(2)の各事情をもってしてもなお,上告人について,同種の業務に従事する労働者の個性の多様さとして通常想定される範囲を外れるぜい弱性などの特性等を有していたことをうかがわせるに足りる事情があるということはできない(最高裁平成10年(オ)第217号,第218号同12年3月24日第二小法廷判決・民集54巻3号1155頁参照)。

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