コリドー街
コリドー街という概念は、上司から教えてもらった。
「ここはナンパスポットなんだよ、女の子なら立ってるだけで食事代には困らない」
今度連れてきてあげようか、という誘いを笑って誤魔化しながら、私はそこを、愛憎渦巻く欲望の掃き溜めと名付けた。
東京に来るまで、港区女子なんて概念だと思っていた。実在することを知った時、いつも見ていたドラマの舞台裏を覗いてしまった気がした。
彼女は恋人Aの年収1000万でも足りないらしい。住んでいる区とマンションの階が何より重要らしい。目眩がした。まるで知らない世界だった。
でも、彼女が眩しく見えるのは、自分の強さとその活かし方を十分にわかっているからだった。若さと美しさを自覚していて、それに需要があることも理解していた。だからほしいものは手に入れて、ちゃんと満たされる。
自分の強さという刃をひたすら自分に向け、日々穏やかな自殺未遂をして過ごす私よりずっと、聡明で美しく見えた。同時に、私はここにはいられないと思った。ひとりでコリドー街を歩くことなんてできなかった。
別に年収とか顔とかどうだっていいと思う。そういうものでひとを判断するということは、そういうものでひとから判断されるということだ。でも恋愛が上手なひとたちは、自分の「求めるもの」が明確だった。感性でしかひとと惹かれ合えない自分が馬鹿らしくなるくらい。
疲れるなあ、
『生きてるだけで、愛。』の台詞をひとりごちる。狭い部屋の中で、悲惨な状況の中で、もう全部やめてしまいたいと思う。電車でひとを殺すとかビルに火を放つとか、そういう事件の動機はもしかしから、日々の小さな絶望の蓄積なのではないか。私だって今包丁を持って駆け出したら犯罪者になれてしまう。その刃を胸に刺したら簡単に人生を終わらせることができてしまう。
ひとは、殺さない、死なない、を、無意識に行って生きている。
2日ぶりの外は眩しくて目眩がした。
頭の中でコリドー街に、夕暮れと同じ色の火を放った。私は作家だから、放火も殺人も自殺も、フィクションの世界で処理してしまえる。作家は絶望の果にある職業なのか。どうにもならなかった人間だけが行き着ける職業なのか。
ゆらゆら揺れる電車の中で、
世界から目を背けるように眠る。
2022.1.29