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うつろい

―春―

「恋って罪悪だね」

カウンター席の一番端。
私たちのいつもの席。
ゆわゆわした微笑。
くしゃくしゃの目尻。

春風のようなひとだった。

「夏目漱石みたい」

私が言うと、彼は笑った。頬はほんのり桜色だった。ビールはジョッキ半分も減っていなかった。枝豆の殻だけがこんもり積み上がっていた。潤んだ瞳に私を映し、泣き出しそうに目を細めた。

「君が罪人なら、僕も罪人なんだろうね」

彼はきっと、自分からは言わない。言えない。

店で店員を呼ぶのすら、時間がかかるひとだった。ずっと一緒にいようとか結婚しようなんて、絶対言えないひとだった。

大事なことを言い出すのは、いつも私からだった。
告白もキスもセックスも。
そんなところがどうしようもなく愛しくて、どうしようもなくさみしくて、どうしようもなく好きだった。

だから私は口を開いた。
春風が私の頬を撫でた。

「最後は僕に言わせて」

店内に流れる音楽は、
彼から教わったものだった。

テーブルに置かれただし巻き卵は、
彼が注文した私の好物だった。

彼を失いたくなかった。何よりも大切だった。

誰よりも幸せでいてほしかった。何も言えないのは私の方だった。

「愛していました、誰よりも」

*

―夏―

「もう僕は、二度とここには来られないな」

寂れた駅のホーム。
夕方5時の3番線。
夕陽に染まる横顔。
夕風に揺れる前髪。

夏生まれのひとだった。

「繊細なのね」

私が言うと、彼は笑った。沈黙を埋めるように、カルピスを口に含んだ。飲む?と差し出されたそれを、私も口に含んだ。ぬるくて甘くて、少しだけ彼の味がした。彼との初めてのキスは、カルピスの味なんてしなかった。夏が終わる瞬間みたいに息ができなくなって、このまま死んでしまっても良いと思った。彼も私も少し震えていた。私たちは世界から背を背けた共犯者だった。

「思い出がありすぎる場所では生きられないよ」

彼のはっとするほど美しい感性を、この世のあらゆるものから守りたかった。彼を傷つけるものすべてから、彼を守りたかった。一ミリたりとも傷ついてほしくなかった。彼の傘になりたかった。

そう思うことで、私が彼に守られていた。
雨に濡れていたのは彼の方だった。
彼は傷つきながら、私を守ってくれていた。

だから私は口を開いた。
「言わないで」と彼は言った。

遠くで踏切の音がする。
電車が近づいてくる。

彼とならどこへだって行ける気がした。
どこにも行かなくていいような気もした。

忘れられるはずがない私は、
黙って夏の空を見た。

きっと夏が来る度に、あなたのことを思い出す。

「きっと夏が来るたびに、君のことを思い出すよ」

*

―秋―

「恋愛は人生を狂わす麻薬だからね」

6畳間の和室。
安い缶ビールと柿ピー。
書きかけの原稿用紙。
転がった万年筆。

秋の匂いのひとだった。

「狂わせた?」

私が言うと、彼は笑った。缶ビールの縁に吸いかけの煙草を置いて、そっと私を引き寄せた。仄かに甘い、秋の匂い。あなたの方が麻薬みたいだった。甘美で優しくて危険で、私は何度も溺れかけた。あなたなしでは生きていけなくなる不安が、私をひどく幸せにした。

「狂ったよ、人生で一番美しく狂った」

彼の腕の中は、この世から隔絶された空間だった。音も匂いも温度も、私のために用意されていたかのように完璧だった。私が満たされるたび、彼は寂しそうな顔をした。それが私を空虚にした。

彼を埋められる存在になりたかった。
埋めようとすればするほど、彼の纏う金木犀の匂いは濃くなって、気づいた時には近寄れなくなっていた。

だから私は口を開いた。
彼は私を抱きしめた。

壊れてしまいそうなほど、
強く、強く、かなしげに。

壊れてしまいそうだったのは、
私ではなくて彼のほうだった。

幸せにしたかった。幸せでいてほしかった。
壊したくなかった。壊れてほしくなかった。

「でも僕を壊したのが、君でよかった」

*

―冬―

「あなたのことが好きでした」

空から溢れ落ちてくる、
触れたら溶けて消える宝石。
誰かがそれを雪と呼び、
数多の歌がつくられた。

冬が好きなひとだった。

「過去形になっちゃった」

私が言うと、彼は笑った。私の左手を、そっと自分の右手で包み込んだ。大きくて骨ばった、冷たい白い手。美しすぎてかなしくなる手。その手は何度も心の奥に触れて、その度に泣き崩れたくなった。

「過去形は永遠性を帯びるんです」

彼の声は透明だった。私にだけ聞こえる声だった。神様みたいだった。名前もないたったひとつの宗教だった。祈れば祈るほど、世界が音もなく崩れていく気がした。雪はきっと、壊れた世界の破片だった。

一緒にいられないと悟った日も、雪が降っていた。
彼はそれを悟ったように、黙って私を抱きしめた。

だから私は口を開いた。
彼の指が口を塞いだ。

私たちは小さな、
スノードームの中にいるようだった。

永遠に雪が降り続ける冬の世界にふたり、
閉じ込められてしまったようだった。

失えやしない、と思った。
出会ったらもう、ひとを失うことはできない。
過去にしてしまえば、そのひとは私の中で永遠になる。

「あなたは私の永遠です。永遠でした」

眠れない夜のための詩を、そっとつくります。