シャニマス詩歌部第十二回歌会解題

「服」

Attraction ゆうべ微風びふうをふくませて制服ふわり追いかけてゆけ

[付記]芹沢あさひ

あさひの新規 PSSR カード「光は光へ」モチーフです。Attraction は詩歌部 Discord 評チャンネルの椋鳥さんのご指摘通り「引きつける魅力」と「見せ物・アトラクション」の両義を持たせています。

あさひの世界をアトラクションのように捉えている感覚と、あさひ自身の人を引き付ける魅力とを示す枕詞的な使い方です。

「ふ」の重なりで浮遊・高揚感を演出したかったのですがくどくかつ景が曖昧になってしまったかなとも思います。二句の 4-4 音の韻律はふわっと膨らんだ感じを狙ったものでもあるのですが、であれば四句も「制服ふわりと」でよかったかもしれません。

「十」

たれにとつても恋はnuanceにゆあんす こみつくの十色といろのこひに恋ふる吾も居れ

[付記]杜野凛世

リアルな恋心を抱くわたくしもいれば漫画の恋に焦がれるわたくしもいるのですよ、といった歌意です。ニュアンスカラー。

読む会の三多摩さんご指摘の「吾(あ)も居(を)れ」- amore は意図したものではなく、ラッキーパンチですね。三句目以降の o 音の韻も実はそこまで意識していませんでしたが、「こい」のリフレインは意図した効果になったかなと思います。

「居れ」は已然形露出(斎藤茂吉が多用)の形です。「居れば」の省略という順説確定条件で初二句のテーゼを補強する意図が強かったです。また、言いさしの曖昧感をもって nuance(微妙な変化)と響き合わせたかったという意図もあります。

意図して amore までたどり着けていたらよかった……

「秋」

誰も傷つけない笑い/秋茄子あきなすび/誰も傷つかないという笑い

[付記]七草にちか

自分でもあんまり解釈が固まっていないというのが実際のところです。

読む会で shemoth さんご指摘のとおり「秋茄子嫁に食わすな」が念頭にあります。このことわざを示唆することで悪意にも善意にもとれる解釈の両義性を持ち出しているのですが、「誰も傷つけない笑い」と「誰も傷つかないという(結果に伴う)笑い」の提示とはずれている感じがします。

「/(スラッシュ)」は実験的に使いました。それぞれの概念が同じ強さで押し出されるようにという意図で、一字空けや(秋茄子)と丸括弧を使う形も考えたのですがこちらで落ち着きました。

秋茄子の押しが強いように読まれたようですが、これはこれで良かったのかなとも思います。

「誰も傷つけない笑い」という道徳的な要請があるのなら、それが転換して「誰も傷つかないという結果自体が笑いを生む」という、そういうユーモアもあってもいいのではないか(例を挙げるのはかなり難しい。なぜなら前者の要請に対する反応としてよくあるように真に「誰も傷つけない笑い」、ひいては表現というのは原理的に不可能ではないか、という指摘に強い妥当性を覚えてしまうのを否めないから)、という発想が元になっています。それを仮託するのであればお笑いと親和性があり、かつ表現について何かしら屈託がありつつ思索を重ねていそうな七草にちかさんかな、と思い付記に半ば押し付けてしまいました。自分自身解釈や価値判断に至っていない概念がにちかが抱えているモヤモヤとシンクロしていたら嬉しいなという気持ちです。それはそうと、にちかが「秋茄子嫁に食わすな、ってことですか〜?」とか言っていたらなんかブルっちゃいませんか?

「酔」

「安楽」の語を思ひけり馬酔木あしびなすひとにけものに等しきねむり

[付記]幽谷霧子

「安楽」、わたしは明確に「安楽死」を念頭に置いていたのですが、幽谷霧子さんはそうした営為について今のところ敬虔な沈黙をもって捉えていそうに思います。

読む会の三多摩さんご指摘のとおり「馬酔木なす」は「栄ゆ」を導く枕詞です。「ひと」と「けもの」が繁栄しているさまを形容詞的に示唆するもので、現代短歌的な用法ではありますが、果たしてどれだけ効いているかはたしかに難しいところではあります。

着想としては 酔→馬酔木→馬を酔わせる、すなわちその有毒成分により馬の足が萎えてしまう→足が不自由になった競走馬は安楽死させられる という連想です。霧子さんが「馬酔木なす」という枕詞を学んだとき、その語源に至り馬をはじめとする安楽死について思いを馳せる……そのようなストーリーを想定しました。


文語旧かなの二首が表彰台に上がり、明暗が分かれた形となりました。

文語旧かながいい意味で目立ったというのがあるのかもしれません。特に「十」杜野凛世さんの歌は読む会でおしゃれだと言っていただけてとても嬉しかったです。


また、狙ったわけではないのですがすべて振りがなを振る形になりました。

これはリーダビリティのうえで難読であったり複数の読み方がある読みを一意にしたかったというのがありますが、より深い方針として韻律をコントロールしたいという意図が強くなったことの表れでもあると思っています。

個人的にはその手応えはわりとあったので、積極的に振りがなは付けていってもいいのかなと感じました。


今回の作り方はコミュの下敷きというよりはパブリックイメージで読めるようにという意図が強かったですが、それでも二次創作の力を借りないと自立していない短歌が多くなってしまった(「秋」七草にちかさんの歌はその逆ですが)かなと思っています。

二次創作としてのうれしさと短歌としての自立度を両立した作品がもっと作れるように、短歌・シャニマスの鑑賞どちらも深めていかなければと感じる歌会でした。

ありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?