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クスノキのある家

 あるとき、私の家でお茶を飲みながら、父が言った。

 「ママが死んだら、東村山の家を売って、ここの近くにアパートを借りて、アヤともっといたいな」

 アヤというのは私の娘で、当時五歳だった。私と夫は共働きで、娘が熱を出して保育園に行けなくなったり、私たちに急な残業が入ったりするたび、綱渡りのように何とか子育てしていた。しかしどうしてもどうにもならないとき、父に助けを求めると、父は電車で四十分ほど離れた実家からやって来て、娘の面倒を見てくれた。パーキンソン病を患って七年ほど経っていたが、まだ自分で動け、編集の仕事も続けていた。娘もじーじが大好きだった。

 父のセリフを聞いて、私はお茶を噴き出して笑った。

 「ママが聞いたら怒るよ」

 父も「ママが死んだらなんて言っちゃった」と照れくさそうに笑った。母は私の娘が一歳のときにがんが見つかり、再発・手術を経て、そのころは落ち着いていた時期だった。でも何となく、いつまた再発するか分からないという空気も流れていた。

 実家は東京都下の東村山市にあった。私が十歳のときに父が建てた、小さいけれど三角屋根と南側一面に設置されたガラス窓が特徴の素敵な家だった。素敵な家だが、階段も多く、父の体がこの先、動きにくくなれば、マンションなどに移ったほうがいい。都心のほうが父が仕事をするのも母が病院に行くのも便利だ。父も孫ともっとしょっちゅう会える……。

 でも、母は父と違って孫の近くに住みたいという考えはなかった。母は私の出産前から、「ママは普通のおばあさんみたいに孫の世話をするつもりはないから、志津は夫と二人で頑張りなさい」と私に言い渡していた。私が一人娘であろうが初孫が生まれようが、出産のときに付き添うこともなかったし、父は孫が誕生するとすぐ病院にすっ飛んで来たが、母が孫に会いに来たのは五日後だった。

 基本的に母は人の言うことに耳を貸さない人だった。だから、転居の話は私と父の胸の中にしまわれていたのだが、その日はつい、父の口から出てしまったのだろう。「アパートを借りて」と言ったのは、私の家が狭いので別に住むほうが快適だと思ったのだろう。その言葉をつぶやいたときの父の顔は夢見るような幸せそうな顔だった。

 その後、父はパーキンソン病に伴うレビー小体型認知症の症状が現れ始めたが、それでもどうにか変わらない生活を保っていた。けれど、娘が九歳のとき、転倒し、大腿骨を骨折した。リハビリを経て、一度は歩けるようになったものの、体が弱ってしまい、たびたび転倒するようになった。認知症も進んだようだった。私は焦った。「近くに住んで、アヤともっといたいな」と言った父の願いを叶えたい……。

 同じころ、母が二度目の再発をしたこともあり、私は都心にある家の近所で中古マンションを探し始めた。ちなみに、私には自分が実家の近くに住むという考えはなかった。勤めていた会社は育児に対する理解はなく、日々のストレスが大きかったので、せめて通勤時間は短くしたいと、わざわざ会社の近くに家を買ったのだ。

 適当な物件は思いのほか早く見つかった。父が興した編集プロダクションの事務所に近く、父もなじみの場所だった。普段は何でもまず反対する母が珍しく「気に入った」と言うので、私はことを進めた。実家を売り、マンションを買った。実家の売却額はマンションの購入額より低かったため、その分のローンを私が組んだ。

 でも、誤算があった。間もなく母が「引っ越しは今すぐという意味ではなかった。二、三年後のつもりだった」と言い出した。契約はもう終えていたので「今さら無理だよ」と言うと、「志津は急がせすぎるのよ」と怒った。
父の判断力が予想以上に低下していたことも誤算だった。実家の売却額はマンションの購入額より低かったから、その分のローンを私が組んだということを、父は理解できず、「売ったのに金がなくなった」と落ち込んだ。「ママからパパに説明してよ」と私が言っても、母まで「売ったのにどうしてお金がないのか」と怒った。再発の恐怖で母はイライラしていた。両親の財政状態を私が全く把握していなかったのもいけなかった。今思うと、預金はほとんどなく、財産は家以外になかったのだった。母が怒るため、父はさらに不安になった。

 今になってネットで「高齢者」「転居」といった言葉で検索して記事を読むと、私のしたことはすべて、「してはいけないこと」に該当していたことが分かる。住む場所の変化が心身の健康を損ねてしまうことを「リロケーションダメージ」というそうで、「特に高齢者にとっては住み慣れた環境から離れることは大きなストレスになり、不安や混乱から認知症を発症してしまったり、認知症の方の場合は症状を悪化させてしまったりする可能性もあるのです」と書かれている。

 「ダメージを防ぐには、元気で自由に行動できるうちに引っ越してもらいましょう。高齢者自身が引っ越しに前向きであることや、精神面に問題がない場合のみ行いましょう。避けられない場合は段階的に行いましょう」とも書かれている。私は父が元気に行動できるうちに引っ越しさせなかったし、母が納得していなかったのに進めたし、段階的どころか一気にやった。

 家の片付けについても、「『これはいらないでしょ』などと言ってはいけません」とか「相手を頭ごなしに否定するのではなく、まずは理解し、気持ちに寄り添うところから始めましょう」とマニュアルに書かれているにも関わらず、私は「こんなのいらないでしょ」とさんざん言ったし、気持ちに寄り添うこともなかった。母から「志津は急がせすぎる」と言われても、「また勝手なわがままを言っている」としか思わなかった。……。今こうしたマニュアル文を読むと暗い気持ちになる。

 マンションに越したあと、マニュアルにあった通り、父の病状は悪化した。マンションをホテルと思い、「いつまでここにいられるのか」と不安がった。母からは「またパパがここはホテルだって言ってるから志津が説明に来い」とメールが来るようになり、私はたびたび説明に行った。「引っ越しのせいでパパの症状は悪化してしまいました。お金もなくなりました。夕方、パパが『帰ろう!』と言うので、『東村山の家?』と聞くと、あ、という顔をして、『もうない』とパパは涙ぐんだ。転居などするべきではなかった」といった母の恨みのFAXも来るようになった。そうしたFAXが来るたび、私は胸が苦しくなった。

 母は以前から過去を美化する性癖があったが、その傾向がどんどん強まって、「パパは東村山の家では元気にスタスタ歩いていたのに、引っ越しのせいで歩けなくなった」と人にも言うようになった。共通の知人から「志津さんが東村山の家に同居するとか、近くに住むとかすればよかったのに」と言われたこともある。私は何と説明すればいいか分からず、黙っていた。私は母と会っても目を合わさないようになった。

 父がマンションで暮らしたのは半年ほどだった。転倒して入院した病院で誤嚥性肺炎になり、以降は歩けるようにならずに特別養護老人ホームや療養病院で死ぬまで過ごしたからである。

 母はその後、約六年を一人でマンションで過ごすことになった。私は内心、こんなことなら本当に引っ越ししなければよかったのかもしれないと思ったが、母には言わなかった。

 三十五年間暮らした東村山の家の写真を母は常に持ち歩いて、事あるごとに人に見せ、「素敵な家でしょう」と言った。その中には若く颯爽としていた父の写真や私の成人式の写真もあった。私は人に昔の写真を見せる母の姿を見るたび、また過去を美化している……と嫌悪した。

 父が死んだ八カ月後、母はがんが再発し、一年四カ月入院した末に亡くなった。母が入院している最中、私は東村山の家を見に行ったことがある。死ぬ五カ月ほど前のことだった。娘が狭山湖の夕陽を見たいと言うので車で行き、せっかく家の近くに来たから、家が元気かどうか見に行こうという話になったのだ。その時点で売ってから八年経っていたので、取り壊されていたらどうしようと、私はドキドキした。東村山の家には南に面して小さな庭があり、母はそこにクスノキを植えていた。夜、家の前に着き、車の中から恐る恐る見ると、家は前と同じ姿でたっていた。クスノキは一回りも二回りも大きくなっていた。クスノキの葉が街灯の柔らかな光に照らされているのを、私はぼんやりと眺めた。

 小さいころからの思い出が湧き起こって、私は翌日、寝込んでしまった。家を見に行ったことは、病床の母には言わなかった。言ったら、母の精神状態を乱して、また私への恨みを思い出させて、いやみを言われたらかなわないと思ったからだ。でも、言えばよかった。写真も撮ったのに。写真を見せて、「家は元気だったよ。クスノキも大きくなっていたよ」と言ってあげればよかったと、今は思っている。

 母が死んだあと出てきたメモ帳に「百五十年後、一番長く残るのはカシとクスノキ」という走り書きがあった。「クスノキ」にグルグルとマルが付けられていた。テレビ番組か何かを見て書いたらしい。百年前に明治神宮内苑で行われた、森をつくる計画の話だった。

 当時の林学者や造園家は、植えた樹木がいつか自然の森になることを目指して、五十年後、百年後、百五十年後の工程表を作成した。初めはもともとあったマツなどの間に、成長が早くて背が高いスギなどの針葉樹と、将来の主木となるカシやクスノキなどの常緑広葉樹を植える。そうすると、五十年後にはマツが枯れて針葉樹が中心を占める。百年後はカシやクスノキが成長して全域を覆い始める。百五十年後には針葉樹は消滅し、常緑広葉樹に覆われた鬱蒼たる森になる。落下する種から若木が育ち、人手を介さず世代交代を繰り返す。ここに至って、永遠に続く森が完成するという話だ。

 母は将来、一番長く残るのがクスノキと聞いてうれしかったのだろう。ピンクのそのメモ帳は、父がマンションからいなくなった後に使い始めたものだった。母が夜、マンションで一人、テレビを見ながら、この言葉をメモして、グルグルとマルを付けている姿を想像したら、涙が出た。

                (黒の会手帖第16号 2022・4)

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