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気づきを絶やさず、とらわれず、穏やかに生きる 2

立っているときも、座っているときも、歩いているときも、どこにいるときも、いつでも周りから学ぶことができます。自然なやり方で学べるのです。色や形、音、匂い、味、感情、思考など、あらゆることを観察し、理解してください。賢者はあらゆることを観察します。真摯に実践するなら、不安や悩みなど心の重荷がすっかり消えるでしょう。

「好き」とか「嫌い」という感覚が生じたとき、それに気づかなければ、問題が生じます。反対に、「好き」や「嫌い」という感覚の本質を理解すれば、「好き、という感覚には何もなく、単に生まれて消える感覚にすぎない。嫌い。という感覚も単に生まれて消えるもの。ならば、なぜ“好き”や“嫌い”という感覚からさまざまな感情をつくる必要があるのか」ということを観察するでしょう。

「好き」や「嫌い」が自分のものだと考えたとたん、困難におちいってしまいます。この「好き」や「嫌い」の感覚は際限なくつづき、互いに補強し合うのです。これはほとんどの人に起きていることです。
 でも、最近の指導者は、法を説くとき、このような心の働きについてあまり話しません。真理を説こうとしないのです。

たとえ真理を説いたとしても、今度は聞くほうが「あの先生は時と場所を知らずに説いている。法の説き方を知らない」と腹を立てるのです。

私たちは真理に耳をかたむけるべきです。本物の指導者は、単に自分の記憶から話すことはしません。真理を話すのです。一方、たいていの人は自分の記憶から話し、さらには自分をよく見せようとして話します。本物の指導者はそのように話しません。ものごとをあるがままに見て、真理を話すのです。

 真理が理解できたなら、真理に基づいて実践しなければなりません。出家する必要はありませんが、出家生活は実践するのに理想の形です。真剣に実践するには、世俗の混乱から離れ、家族や諸々の所有物を断念し、森に親しむ必要があります。これが理想的な実践法なのです。

 では、すでに家族がいたり、さまざまな責任を抱えたりしている人は、どのように実践すればよいのでしょうか?ときどき「在家ではダンマを実践することができない」と言う人もいます。
 でも、考えてみてください。出家者の数と在家者の数とでは、どちらが多いでしょうか?
 在家者の数が圧倒的に多いのです。そこで、もし出家者だけが実践して、在家者は実践しないとなると、大変な混乱が起こるでしょう。ですから「在家ではダンマを実践できない」という考えは間違っているのです。

 出家することは大事なポイントではありません! 出家しても実践しなければまったく意味がないのだから。
 ダンマを実践するとはどのようなことかが真に理解できたなら、社会でどんな立場にあろうと――教師でも、医者でも、公務員でも、どんな職に就いていても|一日二四時間、ダンマを実践することができるのです。
「在家ではダンマを実践できない」と考えることは、完全に道を見誤っているということです。人が何かをしようとするのはなぜでしょうか?

 何かが欠けていると感じたとき、その欠けているものを手に入れようとして努力します。意欲さえ十分にあれば、人は多くのことができるのです。
 実践する時間がないと言う人にたいして、私はこのように言います。
「実践する時間がないなら、なぜ呼吸をする時間があるのですか?」と。

 ダンマを実践するといっても、あちこちに走りまわる必要はありません。くたくたに疲れることもありません。ただ心に生まれてくる諸々の現象を観察するだけでよいのです。眼で形を見たとき、耳で音を聞いたとき、鼻でにおいをかいだときなど、どんな現象もすべて、このひとつの心――知る機能―に生じます。心とは認識する働きなのです。
 では、心が現象を認識すると何が起きるのでしょうか?
 その対象が好きなら喜びが生まれ、嫌いなら不満が生まれます。そのように心が働くのです。

 そこで、この心の働きを何も理解せず、実践もしなければ、世の中でどうやって幸せを見いだすことができるでしょうか? すべての人が一生ずっとあなたにたいして好ましいことだけを言ってくれるのを期待しているのでしょうか? それは現実的に可能ですか? 可能でなければ、どうしますか?
 私たちは世の中を知らなければなりません。世の中の真理を知ることをパーリ語で
「lokavidi」ローカウィドウ(世間解せけんげ)といいます。世の中を明確に理解すべきなのです。

(アチャン・チャー法話集 第一巻 戒律 より)


いつでもどこでも、ダンマの実践はできる。
いつでもどこでもどんな状況においてでも、気づいていること、の実践はできるということだと思います。

お釈迦様の最後のお言葉も、「不放逸であれ」だったと思います。
不放逸であれ、は、いつも気づいていなさいよ、ということです。

昨年の夏、日本テーラワーダ仏教協会のYouTubeチャンネルで、スマナサーラ長老の「不放逸」についてのご法話があったんです。
そのご法話を聞いたときに、「これだ!」と思いました。
その次の日から、朝起きてから夜寝るまで、とりあえず気づくようにしてみよう、と試みました。

やってみると、1日のうち、自分がどれだけ放逸であるか、わかりました。
ほとんど放逸でしたね😂

1日でこれだけ放逸ということは、この40うん年、ほぼ放逸に生きてきたということです😂
笑えない事実に笑っちゃいましたね!
でももう過去のことです。どうしようもありません。

その日から、いいやと。どんなに放逸な私がそこにいたとしても、とにかく気づきを入れてみようと、やってみました。
たぶん、マシになりましたよ🤭
それでいいと思うんですね。
自分なりにです。昨日より今日ちょっとマシになるくらいなんですよ。
それでも揺らぎはありますし波も〰︎あります。

徐々に徐々に、気づく、ということが面白くなっていきましたし、今まで気づかなかった自分の怒りや欲や無知に気づくようになっていきました。

不放逸という言葉、パーリ語では、Appamada(アパマーダ)というのですが、
「努めはげむ」、「怠らない」という意味もあるそうです。
日々生きていますと、日常の生活にはまり込む自分をその都度発見しますが、その都度、気づいていく、ということは、怠らずに、努めはげむ必要はありますね😊🙏

努めはげむことは大変なことですから、楽しみながらやった方が続きますね♪
ゲームのように、タムレンレン(楽しんで精進する)だしルースースー(ただただ知る)です😆🙏

そして人と接するときには、気づきよりも慈悲を優先して、やってみよう(生きてみよう)とそのうちに思うようになっていきました。

コミュニケーションをとっているときに、気づくことは難しいことですが、私も相手も大事にする、慈しみの力を借りると、コミュニケーションがスムーズに、お互いに気持ちの良いコミュニケーションとなりやすいです。
それでも相手のあることですから、いつもうまくいくわけではありません。
人間関係は仏道修行より難しい、なんてことも言われますね。

わがままな自我がひょこっと現れても、慈しみを意識していると、そのことに気づきやすくなる気がしています。
私がやってみて感じていることでした。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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