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気づきを絶やさず、とらわれず、穏やかに生きる 3

ブッダはこの世の中で生きました。家族とともに生活したこともありましたが、世の中を明確に理解し、その限界を見て出家したのです。
 では、在家者はどのように実践すればよいのでしょうか?
 実践したければ、精進して「道」を歩まなければなりません。たゆまず道を歩みつづけるなら、私たちも世の中の限界を理解して、そこから離れることができるでしょう。
 ときどき「酒がやめられない」と言う人がいます。なぜやめられないのでしょうか? それはまだ酒のマイナス面を知らないからです。
 ものごとのマイナス面を見ないということは、それをやめることのプラス面も見ないということです。その人は努力しても実りがありません。ただ実践しているふりをしているだけなのです。
 そこで、ものごとのマイナス面とプラス面を明確に見るなら、それが危険なものだと人から教えてもらわ くても、自分でやめるでしょう。
 このようなお話があります。ある漁師が、自分のかけた網に何かがかかっているのを見つけました。何かがいます。網のなかでバタバタ動いている音が聞こえるのです。魚だと思って網に近づきましたが、どうやら別の生き物がいるようです。それが何か、はっきり見えません。
 二つのことが頭に浮かびました。ウナギかもしれない。でも、もしかするとヘビかもしれない。もしウナギだったら……ウナギを放せば、後悔するだろう。でもヘビだったら、手でつかんだときに噛まれるかもしれない……。漁師は迷っています。でもあまりにも欲が深すぎて、それがウナギだったらと考え、網を引き寄せました。すると、ヘビの皮が見えたのです。その瞬間、パッと放しました。
 このとき網を放すのに、人から「ヘビだ、放せ!」と教えてもらう必要はありません。自分の目でヘビを見たからです。それで、どうすべきかが明確にわかったのです。
 どういうことでしょうか?
 漁師は危険を見たのです。ヘビに噛まれるかもしれない、と。このとき、他人に放すように教えてもらう必要はありません。
 同様に、私たちもものごとをあるがままに見るなら、害のあるものに余計な手だしをしないでいられるのです。
 でも、人はたいていあるがままに観察しません。老い、病気、死という真理を考察しないのです。そうではなく、老いないことや死なないことを望んでいるため、真理を観察するための正しい感覚がいっこうに育ちません。
 法話を聞きに来ても、あまり聞いていません。ときどき私は重要な法要に招かれ、法話をするように頼まれることもありますが、話したくないときもあります。集まった人たちを見ると、法話を聞くために来たのではないことがわかるときです。酒のにおいがする人もいれば、タバコを吸っている人もいます。おしゃべりをしている人もいます。ダンマに「信」を持って来ている人たちではないのです。
 そのような場で法話をしても、ほとんど意味がありません。たとえ法話をしても、怠け者たちは「いったいいつになったら話が終わるんだ。あれができないではないか、これができないではないか……」と考えて、心をあちこちにさまよわせるのです。
 また、正式な儀式で法話をしてほしいと頼みに来る人のなかには、「アチャン、法話は短めにお願いします」と言う人がいます。彼らは長く話してほしくありません。長く話されると、いらだつのです!
「法話は短めにお願いします」という言葉を聞いた瞬間、その人がどのような人かがわかります。法話に興味がなく、法話を聞くのがいやなのです。
 だからといって、法話を短く切り上げるなら、真理を理解できるでしょうか。もしみなさんがほんの少ししかごはんを食べなかったら、満足するでしょうか。
 法話をする際、本題に入る前の準備段階として軽く話をすることもあります。このとき酒に酔った人が大声で、「さあ、道をあけて! 先生がお帰りなるから!」と言って私を帰らせようとすることもあります。
このような人がいた場合、私はよく観察して、人の心の本質を理解します。彼らは、ビンに水がいっぱい入っているにもかかわらず、もっと欲しいと水をさらに求めるようなものです。そのビンには水が入る余地はありません。水を注いだとしても、無駄にあふれてしまうのです。
 同様に、彼らの頭のなかはすでにいろいろなことでいっぱいです。時間とエネルギーを費やしてまで彼らにダンマを教える価値はないでしょう。聞く気持ちのない人にたいして、ダンマを説こうとする気にはならないものです。もし彼らの心にダンマが入る余地があれば、聞く側にも教える側にも役立つでしょう。

(アチャン・チャー法話集 第一巻 戒律 ダンマとともに歩む より)

ご法話をする方も同時に、学んでいるのだということだと思います。パイサーン師の最近のご法話がよかったです😊🙏

「たとえ聞いてくれる人がいなくても
それはそれと受け止める。

この私の、という我を離れる。」

人前で話すときに、自分の話を聞いてくれない人がいたら、その人が気になって、うまく話せなくなってしまう。

けっこう誰でも経験することがある感じかなあと思います。そういう時の心から学ぶんだと思います。

仏教は現実的に、私に役立つことを教えてくださっていると思います。

ここも、私が仏教を好きな理由です。
とても現実的な教えなのです。
今、実際のこの私の日常生活に、とても役に立つ教え、と思います。

これは、多くの長老方も仰っていることですが、仏教は、無常とか苦を説きますけど、私にはどうしようもないのだ、というような悲観的な教えでは全くない、ということだと思います。

生老病死、は、誰にでもある苦、ですが、その苦に向き合うことで、生老病死を精神的に乗り越えることができますよ、という、どちらかというと、楽観的なのかもしれません。

それを、神様や仏様に委ねる、ということではなく、自分自身でそのように精進していけますよ、と私は教えていただいています。
それが、今ここの気づき、から始まる精進だと思うんですね〜。

なんか真面目だな〜🤭

生きとし生けるものが幸せでありますように

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