延命の選択の難しさ
父をみとって、もうすぐ一年になろうとしています。
いつだったかある人に、抗がん剤治療はしなかったんですね、ご本人の意向ですか?と聞かれて、ふと考えたことがありましたのでシェアできたらなと思います。
結果的には本人の意向で決めたことではありましたが、私自身、最初から抗がん剤治療にあまり乗り気ではなかったですね。
理由としては、抗がん剤治療をしたとしても半年くらいの延命であったことと、父が高齢で自分の心身の状態を正確に把握することがすでに困難で、自身で治療を管理できる状態ではなかったことが主です。そして私がそれを充分にサポートするだけの自信もなかったことも大きな理由でした。
抗がん剤治療、やってたら。
もしかしたら奇跡的に効いたかもですし、もう少し父は生きていられたかもしれないです。
もうこれはどの選択をしたとしても、こうだったかもああだったかもとなるだろうとは思ってはいましたし、私の家族もそのように助言してくれていました。
主治医の先生は抗がん剤治療を勧めてくれてましたしね。
けっこう悩みました。自分のことではないので余計に悩んだのかもしれません。
あれ以上に長引いていたら、介護する側の疲弊も長引いたと思います。
こういうことを経験して初めて介護の大変さが身に染みますし、健康で自律していることのありがたさが身に染みます。
ヘルパーさんやデイサービスを使ったとしても家族の負担って相当です。基本的に夜間は家族が見ないといけないのでですね。ショートステイをしばしば使ったとしても、疲れが完全に癒えるということはないでしょうしね。。それでも日常は容赦なく続きます。
ここで大事になってくるのは、介護を主に行う家族の
意志
だと思います。
私は介護をやります。という意志です。
覚悟
というかもしれません。
これがないと続けることは困難だと思いましたし、そういう風に助言もされました。
ただ、父は一人暮らし。私はお嫁に出てる身で、父と一緒に暮らすことはできませんでしたので、近距離介護、通って介護をする、というものでした。
「本当はずっと一緒に暮らしてあげたかった」というか「一緒に暮らしたかった」が、
私の本音です。今一緒に暮らしている家族にはこの本音は言えませんでしたね。
もし一緒に暮らしていたら、もしかしたら父はまだ元気でいたかもしれません。抗がん剤治療も積極的にしたかもしれませんし、その前に体調の異変にもっと早く気づけていたかもしれませんでした。
もっと何かしてあげられたかもしれない。
問いかけられたことで、色々な思いや考えが出てきたのですが、延命の意味って、誰が決めるでしょうかね。
QOLが低くても命を繋げるのか、どうか。認知機能が低くても、意識がない状態でも、回復は望めない状態でも、延命を続けるかどうか。
私は父に優しくなかったかもなと思いましたし、考えちゃいましたね!
こういう時はもうおまかせするしかない時です。答えの出ない思考は妄想です。
その時の私はあの選択が精一杯でした。
いつもそのように思います。
何かの基準を持ってきて、もっとああすればよかった、こうすればよかった。は、成立しないんですね。
ですから、いつも今ここ。
不放逸でいることしかできない。
いつも気をつけていることです。
ですけど、、
私たちって基本はほぼ放逸です。不放逸でいられる時の方が少ないです。
だからこその精進。
これしかないと、何を考えたとしても最終的な結論はそこに行きます。
延命のことに戻りますと、、
もうその時その時に本人と家族と周囲にいる協力してくださる人々と相談したり話し合ったりして、その都度決めていくしかない。それしかできないですし、それがベストでしょうと思います。
ましてや本人の認知度が低い場合などは、家族が主にそのことを決定するしかありません。その責任は重たく感じることもあると思います。
これが子どもの場合でも、そうでしょうね。
以前、子どもの時に足を切断されたアスリートのお話を聞いたことがありました。
足を切らなければ命を繋ぐことができない。
このような決断をしなければならない時、年齢にもよりますが子ども本人が決断することは困難です。親は身を切る思いで足を切断するという決断をされたことでしょうと思いました。
延命というと、寿命よりももう少し生きながらえたいという思いでしているようにも思えますが、私たちが毎日ご飯を食べたり、健康のことを気にかけたりしていることも、全て命を繋ぐための行為ですから、私たちは毎日延命していると言ってもいいとも思います。
ただ、もう命が本当に寿命で尽きようとしている時に延命をするかどうか、これが悩みどころなんですよね。治る病気であれば治せばいい、機能が回復するのであれば回復させればいい、となりますが、どこでその見極めをしていくのか。
やはり、その時の状況で、その都度判断するしかない。でしょうね。
そして、その判断に正しいとか間違っているとかは、簡単に言えることではないのでしょうと思います。その家族や本人の事情をよく知らない人が、簡単に色々と言えることではないのだろうと思いました。
延命について考えてみて思ったのですが、、
延命をするかしないか、を悩んだり迷ったりする私達なのですが、本当に重要なことは延命するかしないかではなく、死ぬまでどのように生きていたいのか、なんですね。
どのように生きていたいか、もしくはどのように死んでいきたいのかで、延命するかしないかが自動的に決まるのだと思いました。
父は言いました。
「病院で死にたくない」
「1人の時に死にたくない」
最後は私が夜中に父の手をとってみとりましたが、決して自慢できるような清い心でみとることはできなかったなと息をひきとった後に父に謝りました。そして感謝しました。
気づくのはいつも遅いのです。
私たちはどうしても外側(身体)がどうなっているのかが気になるのですが、
それよりも大切なのは内側(心)がどうなっているのか、ですね。
このように考えることができるありがたい機会となりました。
治療をしない選択はご本人の希望だったんですか、と問いかけてくださった方にも感謝です。
死は学びが多いです。
生きとし生けるものが幸せでありますように
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