見出し画像

「縁」について

教育ファシリテーション研究所さん主催の、仏教深掘りシリーズ!この度は、「縁」です。

いやあ、これもご縁ですね。なんて、日本人だったら、聞いたことや使ったことがあるのではないかなと思います。

この度の、「縁」のスティサート師のお話がとってもよかったので、少しシェアしたいなあと思い、ちょっと書いてみようと思います。
内容は、私のフィルターがあるので、どうぞお気をつけて読まれてみてくださいね!

よき縁について全体的には、
外側の縁
内側の縁
という風にお話をお聞きいたしました。

よき縁とは、人生の基盤、基本を整えていくものであるということ。
外側の縁、とは、よき先生、よき仲間、であると、教えていただきました。
まさに善友ですね。
そして、自然、も、よき先生であると仰られていましたね。

よき先生の言葉、ご法話のみならず、先生の行動や仕草一つ一つが、
法を示してくださっている、と仰られていたと思います。
zoomやオンラインの環境が進む今ではありますが、生身のよき先生との出会いは、とても大切なものですよ、と。 
そして、よき仲間も大切ですよ、と。
法の話をすることができる仲間を、法の親戚、と仰られていたと思います。
先生に話を聞いてもらうというよりは、仲間に相談したり話をするということが多い、と、一緒に学び合える仲間がいることはとても心強いと思っている、と。
自然もよき先生で、 自然からの癒し、自然からの学びもあると仰られていたと思います。 
自然、は私もそう思いました。ただ自然の中にいるだけで、受けいれられている感覚?があって、とても癒される感覚があります。


そして、内側の縁、は、善徳、と正見だという風に浦崎さんは訳されておられたと思います。
自分自身の内なる側面のどの部分が出てくるかによって、よき縁となるかどうかが変わってくる。と。
知ること
謙虚さ
よく観察する
正しく見る
この四つ、は大切と仰られていたと思います。

四つめの、正しく見る、は、仏教用語では正見と言います。
ものごとをはっきりと見ていく。正しく見ていく。
そしてもう一つ、
苦しみを減らす、なくす見方をしていく。
と、仰られたと思います。

こういうところは、最初はわからないことが多かったり、理解できないことも多かったりするのですが、学びを継続していくことで、だんだんと理解されていきますよ、と仰られていました。
苦しみを減らす、なくす見方。
皆様はわかりますでしょうか?
私も、最初はわからなかったです。
自分が苦しんでいることの自覚がないくらい、わからなかったと思います。
いや、なんとなくわかってはいるものの、はっきりとは見えてなかったのだろうと思いますね。

徳についての説明もありましたが、以前、徳についても教育ファシリテーション研究所の深掘りシリーズで取り上げられていて、とてもよかったので記事に書いたのですが。

徳とは、よき実践、よきことを行うと、その瞬間に幸せを感じられること、まさにメリットはここにあると仰られていたと思います。
業(カルマ)についても、少しお話をされていました。
タイでは何か悪いことが起こったら、過去に自分が為したこと、カルマが悪かったと言う人が多いそうなのですが、過去に成したことの結果は、いい側面も悪い側面もあるし、報いというのは選ぶことができないものです、と。
多くの場合には、自分にとって不都合なことがあると、起こってきたことを否定してしまいがちですが、
正しい見方は、
起こることは、起こるべくして、起こっていることである。
ふさわしく起こってきたことなのだと分かると、苦しみにくくなってくる。

と、お聞きしました。

人間に生まれ、こうして学ぶことができている皆様は、非常にラッキーで、よき縁であると思っています。
よき縁なのだとしっかりと見ていくこと、自分がどれほど恵まれているかと感じられることは大事です。
そのように仰られていましたね。

そして、思い描いた通りにならないこと、不利な立場であったりしたとしても、それは生死に関わるほどの大変なことなのか?と見ていくと、大したことではないと見えてきます。
学べること、過去のよい原因があって人間として生まれた、恵まれたと見ていくことは大事です。
が、しかしだからといって、うっかり、気づきを怠ってはいけないですし、油断しないことは大事ですよ、と🫢はい🙏
最後に、この場もそうですが、よき縁に、何度も何度も触れていくことは大事ですよ、と仰られていました。

この講義のあとに、質疑応答があったのですが、私はこれがとても学びになりました。
たぶん、瞑想修行をされている方は、よく悩んでいることだったり、出てくる疑問、だろうなあと思いましたし、そのスティサート師の応えも、大変明快なものに思えました。

一つめの質問は、よき縁に何度も何度も触れていくことが大事だといつも聞いているが、日常生活では、気づきも、流れていってしまって、なかなか何度も、という風になっていない感じがするので、何か工夫できることなどあれば、教えていただきたい、と。おおむねこのようなご質問だったと思います。

まず、難しい、ということは誰もが感じる、普通のことだと思います、と。日常生活ではいつもなんらかの刺激が入ってきますしね。
工夫といえば、1日のルーティンの中で、この時間だけは気づきを向けていこう、とアクションを選んで行動していくこと。
例えば、ご飯を食べる時。掃除する時。托鉢の時間。1人になる時。と、このように決めて実践していた、とスティサート師はご自身の実践の経験から、お応えされていました。
そのようにやっていっていると、その時間以外の時にも気づきが入りやすくなってくる、と仰られていました。
確かに、そのような感覚はあります。
瞑想修行は、練習、訓練なんですよね。

実は私自身も、瞑想、というものに関してあまり馴染みがなくしっくりこない期間が長かったのですが、日常生活において、階段を昇り降りするときだけは、右足左足、と意識してやること、あとは、掃除、もやりやすくて、掃除機の前、後、窓拭きの左、右。このような身体を使う行為の時だけは、気づきを入れるように意識してやっていた期間がありました。
今は日常生活が忙しくなってきて、なんだか気づきも入りづらくなっている時間も長かったりしますけど、気づきが戻ってきたら気づく、歩く時には歩くことに気づく、ドアの開け閉めに気づく、など、また掃除の時やお風呂で身体を洗う時も、必ず気づきを思い出すようにしているというか、なっている、という感じですね。
日常生活を観察していると、気づきが入る回数や時間が少なかったり多くなったり、遅かったり早かったり、そのような変化を見ていくことも学びになるなあと感じています。
余談でした。。

次の質問は、瞑想をやってみて、楽になっている感じが実感できているが、根底にある自我、感情、思考を愛おしく思っている自分がいる。それを手放したくない自分がいて、折り合いがつかないでいるが。。という感じでした。

まずは、愚かさ、感情を受け入れられていることは素晴らしいことだと思います。と。
そのような愚かさや感情をよく見ていくと、それらがどのように自分を苦しめているのかを見ていくと、見えてくれば見えてくるほどに手放そうとしなくても手放せていけます。と。
心に関して誠実、正直であると、心の感度が高まっていけば自ずと手放せていけますよ、と。
例えば、何か他の人が悪いことをしているのを知っていて、やめてほしい、と思う。
この、やめてほしい、こうしてほしい、という執着を置いておくことが大事です。
こうしてほしいと、苦しまない。心を苦しませない、こっちを鍛えていくことが大事ですよ、と。

そして3つ目の質問は、その苦しまない、という観点への質問でした。
質問者の方は社会問題に取り組む必要があると思っていて、そう生きてきた、と。そのような社会問題に向き合わない人々には怒りを感じてしまう、とのことでした。社会問題に向き合わないでいいのか?自分のこと(瞑想)だけやっていていいのか?と、思うと。

まず、心を苦しませない、ということは、世界の環境にとって、一番いいことなのですよ、と仰られました。
そこで、スティサート師の先生であった、カムキエン師の話があって、カムキエン師は、さまざまな社会問題に積極的に取り組まれていた方であったと。
自身の心を苦しませないでいるからこそ、どんどん社会に関わっていけるのだと。だからこそ、その活動が長続きするんですよ、と。
もし、自身の心が苦しんでいたとしたら、疲弊していって、長続きさせることができなくなるでしょう、と。

また、パイサーン師のタムチットとタムキットの話もありました。
実際の行い、タムキット。
心の行い、タムチット。(だったと思います。間違ってたらすみません!)
これは分けることが大事です、と。
心においては、苦しみなく、苦しませないでよいのです、と。

この度も、大変学びになるお話をいただき、感謝感謝でした🙏
そして、いつも思いますが、学ばれている方からのお坊様への質疑応答って、めちゃくちゃ学びになるなあと、本当にこの場のよき縁をしっかり感じることができたことも、喜びですし、感謝です🙏

苦しまなくていい、
心を苦しませなくていいんですよ。

しっかりと、受け取りたいですね。

生きとし生けるものが幸せでありますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?