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戦うべきは他の人ではなく「自分の作り上げた虚像」かもしれない

前の投稿を自分なりにさらに読み返してみて、ちょっと思い浮び(気づき)があったので、忘れないためにささーっと書いてみます。

今回の話題は、自分が作り上げた虚像と戦うべきなんじゃないの?って話。

虚像っていうと、文字面はかっこいいですが、なんか難しく聞こえますね。

虚像-[名詞]きょぞう-
① 物体から出た光がレンズや反射鏡などによって発散させられた時、発散した光線を逆方向に延長して収束させた位置にできる像。現実には光線が通過しない場所に生じるので、そこに紙をおいても像は結ばない。
② あるものの実態とは異なるイメージ。特に、人物の実体に対する、世評、伝説などによって作り上げられた評価認識をいう。

普段使う言葉ではないので、ためしにコトバンクで調べてみました。
今回の虚像は、どっちかといえば②のほうです。作り上げられた評価認識。自分の中で作り上げた実在しない人、イメージ。

普段接している人も、確かに存在はしているけれど、見える面は関係性・環境・時間・見る人が持つ価値観によって、受け取り方も変わってしまうので、ある意味、見えている人ももしかすると《虚像》なのかもしれません。

うーん、哲学。笑

話題がそれてしまったので、話を元に戻しまして。

今回の話。自分が作り上げた、実在しない人と戦うべきなんじゃないか。

どういうことやねん?と言いますと。きっとそれぞれ、自分のな中にいろんな自分が住んでいると思います。
ネガティブ思考なあなた、楽天家な貴方、怠け者なアナタ、などなど。
そして、たまに「え、たったこれだけのことなのに、なんでできないの?」とジャッジしてくるあなたも。

このジャッジマン、最近私の中でなかなかに手ごわい子だなと思っています。

人の直感って、今まで生きてきた中で得た教訓・経験・考えをもとにした、思考回路の1つだと思うんですね。
確かに、実際の結果をもとに判断することは、正しいことも多いし、学校で学んできたことのほとんどが「実際の結果を何年もかけて研究・分析・学問にしたもの」です。だから、先人たちのことを見てても、これは理にかなっている。

でも、過去に感じたものをベースになんでも判断して決めつけてしまうのは、リスクがある。とも思います。今から30年の人が、それまでの経験や知識などをもとに、判断して、2024年にはパソコンやスマートフォンが当たり前になり、AIも発達して身近になりつつあるって、想像できたでしょうか。(なんか話がずれてるきがしなくもないですが)

学校で学ぶ事は、何人もの人が話し合って、確かめて、ずれがないか、間違いがないか確認に確認を重ねたものがほとんどです。
ですが、人の直感って「第三者視点での確認の過程」がほぼありません。自分の中で積み重ねたものだけをもとに判断している。

そしてこのジャッジマンのベースにあるのは、その人の価値観による部分がかなりあると思います。その人が楽だと思える選択の基準、自分の身を守れると思える選択、安心できる選択の基準。

この価値観が作られるのは幼少期の経験がベースになっています。

ポジティブ思考が得意なら、そこまで問題になりませんが、厄介なのはネガティブ思考。その方向が自分に向く場合も、他人に向けてしまう場合も、どちらも厄介だと思います。

無意識下にある、このジャッジマンがどちらに振れやすいのか、知るだけでも、自分の生きづらさの原因をひも解くヒントになる気がしました。

私の場合は、無意識に刺激のもとになる人を嫌い認定してしまうこと。そして、それを相談もせず、自分の中で「あの人はこんないやな奴に違いない」と悪100%の虚像を作り上げて、それをもとに、その人がやった行動を「きっとこんないやな奴に違いない」と判断してしまうことが、今の生きづらさにつながっている気がします。

このしんどさを手放せるように、まずは何が原因になっているか少しずつ向き合ってみるところから、戦ってみます。

ほいでは!

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