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戦国!室町時代・国巡り(9)紀伊編

【0】はじめに

紀伊国:石高24万石(1598年)

紀北 名草郡/海部郡/那賀郡/伊都郡
紀中 有田郡/日高郡
紀南 牟婁郡

(2)年表
1399年 応永の乱
1515年
1520年
1577年 第一次紀州征伐
1585年 第二次紀州征伐/千石堀城の戦い

(3)概要
紀伊国は南北朝時代には南朝勢力が優勢の地域だった。
山名氏が紀伊守護として派遣され、南朝勢力はほぼ駆逐されたが、山名氏に代わって紀伊に入った大内氏が幕府に反旗を翻した(応永の乱)。その後、畠山氏が守護となったが、寺社勢力が強く、守護の権力は限定的なものであった。

戦国時代に入ると、諸勢力の割拠状態となる。
北部は雑賀衆、根来寺が有力であり、他に粉河衆、隅田党など
中部は守護職畠山氏、湯川氏、玉置氏、山本氏といった幕府奉公衆。
南部は熊野水軍と呼ばれる土豪たち。

雑賀衆と根来寺は、小牧・長久手の戦いの際、秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻したが、これが戦後の紀州征伐を招く。根来寺は焼き討ちにあい、諸勢力は太田城の結集し抵抗したが、水攻めにあい降伏。秀吉は秀長に紀伊一国任せた。

紀中
中部には守護職である畠山氏の被官が割拠していた。
当初、守護所は紀北の大野城に置かれていたが、畠山政永の代、畠山義就・政長の家督争いが生じ、広に守護所が移された。

紀南

【1】畠山氏

畠山氏に関しては河内編を参照↑

(2)紀伊神保氏
神保茂定
神保春茂
神保相茂
神保茂明

(3)野辺氏
野辺氏は、源経基の子満快の後裔で、1336年に野辺快次が津戸野荘を預かり居館を構えたことに始まる。畠山氏の被官として、能登で活動していたが、宗貞の代、畠山政長に従い、京都にいる紀伊奥郡守護代の神保長誠に代わり紀伊に在国して、小守護代を務めた。能登高田土居城、平須賀城を拠点とした。

野辺宗貞()掃部允
野辺六郎右衛門尉
野辺慶景(1492-)
野辺忠房()平須賀城主。弾正忠
野辺光快()
野辺光房(-1562)
野辺春弘(-1582)
野辺春和()

野辺慶景
(1492-)
野辺六郎右衛門尉の子。
紀伊奥郡小守護代。日高郡平須賀城主。
1513年、須賀神社を再興。
1520年8月、奉公衆家である紀伊国人の湯河氏・玉置氏と共に主君・畠山尚順と合戦に及び、尚順を紀伊守護所のある広から和泉堺に追放した。
同月の内に慶景は尚順の子・稙長から赦免を受け、湯河氏や玉置氏も許される。この頃、尚順は紀伊に在国し、新参の林堂山樹や熊野衆を起用して紀伊支配を強化しており、慶景らはそれに反発したと考えられる。
1522年、本宮の竹之坊・玉置篠之坊らが野辺氏の平須賀城を攻め落としたとされる。この頃の野辺氏の活動は分からない。


野辺光房
(-1562)
光快の子。別称:弾正忠。
「教興寺の戦い」に参戦。
湯浅氏に従って河内国に出陣して若江で討死した。

野辺春弘
(-1582)
光房の長男。
1562年、父・光房の討死により家督を相続した。
平須賀城を廃し要害城を築いて居城を移した。
1582年、討ち死。

野辺春和
()
光房の二男。兄・春弘の討死により家督を相続した。
1582年、湯川直春に反乱を疑われ、平主城を攻められた。
越中に落延び、病没した。

【2】雑賀衆

雑賀衆は紀伊国北西部、「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の5つの地域の地侍達で成り立っている集団である。紀伊国・河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦する中で、傭兵集団として性格を持つに至った。いち早く鉄砲を取り入れ、武装した。
 砂丘地帯にあり主に漁業や海運・商業を生業とする雑賀荘・十ヶ郷と、農耕地帯にあり主に農業を生業とする中郷(中川郷)・南郷(三上郷)・宮郷(社家郷)に大別される。
 「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、1535年。本願寺の蓮如の子である実従の「私心記」である。

(1)鈴木氏

鈴木氏は十ヶ郷を拠点とする土豪で、雑賀衆の頭目的存在であった。
雑賀党鈴木氏の棟梁が代々継承する名前として雑賀孫一(孫市)がある。

重意(1511-1585)
重宗()
重秀()重意の子。
重兼()
重朝()
重次()
重信()
重義()

鈴木重意
(1511-1585)すずきしげおき
雑賀党鈴木氏の一族。「雑賀孫市」の一人。
一説では伝承上の武将・鈴木佐大夫その人。
子に重秀。また、鈴木重秀と同一人物とも。
海部郡中野城主。
1560年2月、和泉国岸和田城で挙兵した三好実休に対抗するため、紀州畠山氏当主・畠山高政の下に集った国人の一。
柴田勝家と佐久間信盛が紀伊国高屋城に籠もる三好氏を攻撃した際、高政の家臣として織田軍を援軍として出陣。

鈴木重宗
()
鈴木孫九郎重宗。鈴木佐大夫の弟。

鈴木重秀
()
重意の子。
雑賀党鈴木氏の一族で、雑賀衆の有力者。「雑賀孫市」の一人。
石山合戦に本願寺側で鉄砲部隊大将として参戦。
1576年5月の天王寺の戦いで後詰として出陣し、信長と直接対峙する。
本願寺降伏後は、信長側に接近し、1581年には、対立する土橋守重を暗殺、信長の後援を得て、土橋派を制圧した。
しかし、本能寺の変が起こると土橋派による反撃を受け、和泉国岸和田城に脱出した。小牧・長久手の戦いでは、雑賀衆・根来衆が織田信雄・徳川家康方につき和泉に出兵する中、重秀は羽柴秀吉側で参戦した。
1585年の秀吉の紀州攻めでは、太田城への降伏勧告の使者を務めた。

鈴木重兼
()
重意の子。重秀の兄。
平井孫市郎義兼と中嶋孫太郎をモデルとした創作上の人物。

鈴木重朝
()
子に 重次、重信。
雑賀党鈴木氏の一族。重秀の子、弟または甥ともいわれる。
名刀「八丁念仏団子刺し」の所有者。
1585年、「第二次紀州征伐」で雑賀衆が滅ぶと、秀吉に仕え、1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して伏見城を攻め、城将・鳥居元忠を討ち取った(伏見城の戦い)。
戦後は、伊達政宗を頼る。
1606年、家康に許され、家康に直臣として召し抱えられ、常陸国に3,000石を与えられた。1609年、徳川頼房が常陸水戸25万石を領するとこれに仕えた。

鈴木重次
(1598-1664)
重朝の子。
養子に重義(徳川頼房の十一男で、徳川光圀の異母弟)。
雑賀党鈴木氏。1616年、松平秀忠に3,000石で仕えた。その後、父重朝と共に水戸徳川家の徳川頼房に3,000石で仕えた。

(2)土橋氏

土橋氏は雑賀荘土橋を拠点とする土豪で、村上源氏の出、右大臣・源顕房の後裔であるという。越前国大野郡土橋の里に移住した平次大夫重平が土橋を称し、1172年、重平は紀伊国名草郡に移り住んだ。重平の子孫・重勝は細川高国に属し、1527年に長男・重胤と共に桂川の戦いで戦死した
根来衆の中心となる四つの坊院の一つ「泉識坊」を有し、同坊の門主は土橋氏から出ている。

重勝(-1527)細川高国に属し、桂川の戦いで戦死
重胤(-1527)重勝の長男。
重隆()重勝の二男。
胤継(守重)(-1582)重隆の長男。小平次種興。
春継(重治)()胤継の長男
土橋基胤()土橋守重家臣。土橋重隆の弟とも。

土橋重隆
()
雑賀衆の一人。

土橋胤継(守重)
(-1582)
重隆の長男・土橋若太夫。
子に 春継、平次、泉職坊快厳、威福院、くす千代。
雑賀衆の一人。紀伊国粟村城主。
1570年、石山合戦では、鈴木重秀と共に本願寺に味方し、織田信長と敵対した。
1577年、鈴木重秀とともに織田信長に降伏したが親織田信長派の鈴木重秀と反織田信長派の土橋守重との間で対立が起きた。
1582年1月、鈴木重秀により殺害される。

土橋春継(重治)
()
胤継の長男。
1582年、胤継(守重)が謀殺されると、居城に籠って織田信長に徹底抗戦するが、織田信張勢の攻撃を受け長宗我部元親を頼って土佐国に落延びた。
「本能寺の変」後、雑賀荘へ戻った。羽柴秀吉に家臣として招かれるが、仇敵の鈴木重秀と同輩になることを嫌い断った。
1585年、羽柴秀吉の「紀州討伐」雑賀攻めで抗戦するも、砦を攻落され土佐国へ落延びた。その後、北条氏政に仕え、小田原征伐で北条家が滅亡した後、毛利家に仕えたとされる

(3)太田党

太田定久(1531-1590)
太田宗正(1546??-1585)左近

太田定久
(1531-1590)
那賀郡太田城主。

太田宗正
(1546??-1585)
太田定久の子。通称:左近。
1585年、秀吉の「第二次紀州討伐」では根来衆と結んで徹底抗戦したが、多勢に無勢であり、太田城に退去し籠城した。堀秀政の3,000余りと長谷川秀一の3,000余りの計6,000余りで攻撃したが、待ち伏せに遭い敗退した。この敗北により羽柴秀吉勢は太田城に堤を築いて水攻を行った。最後は蜂須賀正勝、前野長康の説得に応じて、太田左近をはじめ五十三名が自刃して開城した。

(4)その他

[1]岡衆
岡了順(?-?)
雑賀衆の一。雑賀荘岡にある岡道場(現在の念誓寺)の道場主。
岡吉正(?-?)
通称:太郎次郎。
本願寺の石山本願寺城に援軍に向かった「雑賀門徒」の四人の代表の一人。
1585年、秀吉の「紀州征伐」では早々に降伏した。

[2]狐島衆
狐島吉次
()
嶋本吉次。通称:左衛門大夫。
雑賀衆の一。雑賀十ヶ郷荘狐島にある左衛門大夫道場(現在の覚円寺)の道場主で、雑賀の一向門徒をまとめる年寄衆の一人だった。
本願寺の石山本願寺城に援軍に向かった「雑賀門徒」の四人の代表の一人。
1580年、本願教如が織田信長に降伏した後も、顕如の子・本願寺教如が徹底抗戦を唱えると、これを支持した。

[3]湊衆
湊惣左衛門
湊高秀

湊高秀
()
別名:宮本兵部。
雑賀衆の一。雑賀荘狐島にある湊平大夫の道場主で、本願寺の寺院「性応寺」の門徒衆の代表。雑賀の一向門徒をまとめる年寄衆の一人だった。
本願寺の石山本願寺城に援軍に向かった「雑賀門徒」の四人の代表の一人。
1577年、織田信長の紀州征伐に対し、降伏した。
1582年、「本能寺の変」後、徳川家康と結び秀吉に対抗したが、1585年、秀吉の紀州征伐に対し、降伏した。

[4]

佐武允昌
()

佐武義昌
(1538-1620)さたけよしまさ
佐武允昌の二男。官位:伊賀守。
子に甚右衛門、源大夫。
雑賀衆の一。雑賀荘鷺ノ森の土豪。
1560年、義昌は長宗我部国親と本山茂辰が争う土佐へと渡り、本山方で合戦に参加。
1570年8月、三好三人衆方に属し、織田信長と戦う。その後、石山本願寺方として大海砦を守備する。
1576年5月、天王寺の戦いで鈴木孫一・的場源四郎とともに石山本願寺方で合戦に参加。本山茂辰方が敗退。義昌は雑賀に戻った。
その後、新宮の堀内氏善の招きで熊野に赴き、北畠氏と争う。
1577年2月に始まる織田信長による紀州征伐では、的場源四郎と共に小雑賀の城を32日間守ったという。
1601年、紀伊に入国した浅野家に仕え、大坂の陣の時点で500石を知行していた。

[5]

的場昌清

的場昌長
()
的場源内大夫の次男。通称:源四郎。
紀伊国雑賀荘の土豪。
1576年5月、天王寺の戦いで鈴木孫一・佐武義昌とともに石山本願寺方で合戦に参加。
1577年2月に始まる織田信長による紀州征伐では、佐武義昌と共に小雑賀の城を32日間守ったという。

松田源三

渡辺藤左衛門
()
石山本願寺城に籠城した際、雑賀孫市とともに本願寺の援軍に向かった雑賀門徒のひとり。
荒木村重が信長方から寝返った際には、これを救援するため鈴木重秀とともに尼崎城に籠城した。

【3】根来衆

紀伊国北部の根来寺を中心として一帯を支配した僧兵たちの集団

泉識坊快厳(-1582)
津田算長(?-1568)津田監物
津田算正(1529-1597)太郎左衛門・監物、津田算長の子。
杉ノ坊照算(-1585) 津田監物算長の弟。
杉ノ坊妙算(-1552)
岩室坊清祐(-1585)
岩室坊勢祐()
芝辻清右衛門()根来の鉄砲鍛冶職人

泉識坊快厳(-1582)
土橋胤継の子で、土橋春継の弟。
紀伊国根来寺の有力行人。泉識坊の院主。
1582年、鈴木重秀方に攻められ、討死。

津田算長
(1499?-1568)つだかずなが
津田算行の子。津田監物。別名:杉ノ坊算長。
紀伊国那賀郡小倉の土豪。那賀郡吐前城主。
根来寺四旗頭のひとつ杉ノ坊門主。
1543年または1544年、種子島に渡った算長は鉄砲1挺を譲り受けて、紀伊へと持ち帰った。津田流砲術の祖。

津田算正
(1529-1597)つだかずまさ
津田算長の長男。通称:太郎左衛門尉。
紀伊国那賀郡小倉の土豪。
1567年12月、父・算長が死去すると家督を継いだ。
1585年、羽柴秀吉軍の紀州征伐で敗れ、弟・杉坊照算は討死し、算正も所領を没収された。その後算正は羽柴秀長に仕え、紀伊小倉に3,000石を得た。

杉ノ坊照算
(-1585)すぎのぼうしょうざん
津田算長の次男。
杉ノ坊妙算の養子になり杉ノ坊院主となった。
1585年、羽柴秀吉軍の紀州征伐において討死する。

杉ノ坊妙算(-1552)
遊佐長教の弟。
養子に杉ノ坊照算(津田算長の次男
根来寺の子院・杉坊(杉之坊)の院主。

岩室坊清祐(いわむろぼう きよすけ)
(-1585)
別名:岩室坊勢誉
根来衆の中心となる四つの坊院の一つ「岩室坊」の院主。
1585年、第二次紀州討伐で戦死。

【4】粉河衆

紀伊北部の粉河寺(天台宗系の寺院)を中心として一帯を支配した僧兵たちの集団。寺領は4万石という。
 粉河衆の城郭:猿岡山城

【5】高野山

花王院快応
()
畠山昭高の子。
那賀郡茂原薬師城主。

南蓮上院弁仙
()
遊佐信教の子。
伊都郡飯盛山城主。

橋口重藤
別名:橋口隼人
伊都郡雨壺山城主。高野山の軍師。

木食応其
(1536-1608)もくじきおうご
六角義秀の子。真言宗の僧。高野山の客僧。

(2)奥氏

奥義弘()
奥重政(1560-1612)

奥義弘
()おくよしひろ
通称:出羽守。別名:奥延之
根来衆の目頭。高野山に仕える。

奥重政
(1560-1612)おくしげまさ
義弘の子。通称:弥兵衛。

【6】隅田党

隅田氏は、藤原忠延が、長治二年(1105年)に隅田八幡宮の俗別当に任じられ、隅田荘の公文職としてこの地を治めたことに始まる、紀伊国伊都郡・隅田荘を拠点とする豪族である。
鎌倉後期には北条氏の被官となり,六波羅探題陥落と共に自害し,隅田惣領家は滅亡した。
しかし、足利尊氏の下で後醍醐天皇方についた一族が、葛原氏,上田氏ら庶子家を中心に隅田八幡宮を氏神とする合議的な集団を形成し、隅田党となった。南北朝時代には南朝方,室町時代には守護大内氏,畠山氏に属し,のち織田信長に仕えて高野攻めに加わり,ついで豊臣秀吉に従った。
 1378年、南朝方の橋本正督が挙兵、隅田一党は呼応した。幕府は山名義理を紀伊守護職に任じ南朝勢の鎮圧を図った。1380年、正督は滅ぼされ紀伊守護職は義理が改めて安堵された。
 1399年、応永の乱では、隅田一党は義弘に味方し、隅田八郎左衛門、芋生信濃守、上田主水、塙坂和泉守らが討死した。
 1442年、畠山持国が管領に返り咲いた際は、隅田三郎五郎能治・塙坂能保ら隅田一党が供奉した。
 1460年、畠山政長は河内若江城に義就を攻撃、隅田肥前守能継が出陣した。義就が高野山に奔ると政長は紀州に在陣、隅田孫左衛門能富が政長に忠勤を励んでいる。隅田一党は政長方として行動したが、高坊入道、葛原秀一らは義就に味方した。
 1493年、畠山政長は義就のあとを継いで抵抗を続ける基家(義豊)を討つため将軍義材(義稙)を奉じて出陣、隅田氏もこの陣に参加した。隅田一族は隅田能継・能房・明紀、上田秀常ら二百三十騎を数えた。
 1533年、畠山稙長は河内に侵攻してきた三好氏を攻撃、その陣に隅田孫四郎能康・上田貞信・芋生能康・松岡右京亮・葛原忠直らが加わっていた。翌年、木沢氏ら重臣が弟長経を擁立したため稙長は失脚、紀伊に逃亡した。

隅田氏
 隅田能治
 隅田能継
 隅田能富
 隅田能房
 隅田能康
葛原氏
 葛原秀広
 葛原忠直
上田氏
 上田貞範
 上田貞信
高坊氏
 高坊行敏
亀岡氏
 亀岡源忠
塙坂氏
 塙坂朝治
 塙坂能保

【7】湯浅党

湯浅氏は、本姓藤原氏を称し、藤原北家魚名流藤原秀郷の子孫である鎮守府将軍藤原兼光の五代の裔と伝えられる藤原宗永、その子の湯浅宗重が紀伊国在田郡湯浅荘に湯浅城を築いて拠点としたことに始まる。湯浅宗重は平清盛の有力な武将であり、清盛の死後、平重盛の子・忠房を擁して湯浅城に立て籠もるが、源頼朝に降伏し、1186年に所領を安堵され、御家人となった。宗重とその一族は、湯浅党と呼ばれる巨大な武士団連合を組織した。
南北朝時代に入ると、湯浅党内部で南朝と北朝に分かれて戦い、急速に衰退した。1379年には紀伊国守護の山名義理によって藤並・湯浅・石垣といった湯浅党の拠点が攻略されて湯浅党は終焉を迎えたが、湯浅党の一部は室町時代にも存続して紀伊国守護の畠山氏の家臣として活動した。

湯浅氏宗家
 
湯浅太郎宗景の子孫
得田氏・丹生図氏
 湯浅次郎盛高の一族
芳養氏・糸我氏
湯浅六郎宗方の一族
石垣氏・保田氏・阿氐川氏
湯浅七郎宗光(保田宗光)の一族


崎山氏(有田郡田殿荘)・藤並氏(有田郡藤並荘)・本木氏(海部郡木本荘)
姻族

(2)保田氏

 保田氏は紀伊国有田郡保田庄を本拠とする国人。湯浅家の庶家。
 湯浅宗重の子・湯浅宗光が1221年、阿氐河荘、保田荘・田殿荘・石垣河北荘の地頭職に安堵され、以降、保田氏を名乗るようになったことに始まる。

 湯浅宗光()通称・七郎左衛門尉
 湯浅宗業(1195-)
 湯浅宗家()
 宗定()
 ?()
 長宗()守護畠山氏の内衆。畠山秋高に仕える。
 知宗(-1583)長宗の長男。
 繁宗()長宗の次男。

保田長宗
()

保田知宗
(-1583)
 
子に娘(佐久間安政・正室)、養子に安政(佐久間安政)。
 紀伊国八幡山城主。1562年「教興寺の戦い」では湯川直光、津田算正らと共に畠山高政に属して戦うが三好長慶に敗れた。その後、畠山秋高に仕えるが、秋高が1573年3月守護代・遊佐信教により殺害される。そのため1574年5月には織田信長に通じる。
 1583年、賤ヶ岳の戦いに際し、知宗は安政の叔父である勝家方として参戦、討死。

保田繁宗
()
保田長宗の次男。
もとは高野山華王院住職であったが「賤ケ岳の戦い」で討死した兄・保田知宗の遺領を継ぎ、紀伊国保田庄を知行して、羽柴秀長に仕えた。のち大和竹田などで加増されて3,500石を領した。甥の保田安政は紀伊国を離れたので、保田家の家督を相続した。

[2]阿氐河氏
湯浅(阿弖川)宗氏は湯浅宗光の三男。
湯浅宗範はその長男、湯浅宗親は次男である。
湯浅宗親の子が湯浅宗国である。
湯浅宗国の子・湯浅宗藤は紀伊国阿氐河荘を本領としたので、阿氐河孫六と称した。

(3)白樫氏

(4)宮崎氏

【8】紀伊の国人

(1)湯河氏

 湯河氏は甲斐源氏武田氏・武田三郎忠長を祖とし、紀伊国湯川を本拠としたことにはじまる。熊野八庄司の一人に数えられる。
 3代光春の時代に、有田郡・日高郡を併領し、亀山城を築いた。その後、室町幕府奉公衆となり、紀伊国日高郡小松原を本拠とした。

③光春()
⑩政春()
⑪光春()
⑫直光(-1562)
⑬直春(-1586)
勝春()

湯河政春
()
日高郡亀山城主。河内守護代。畠山高政に仕える。
1520年、畠山尚順は家臣の反乱によって紀伊国から追放された。
1534年、河内守護代・遊佐長教が畠山稙長の弟・畠山長経を擁立し、畠山稙長は高屋城から紀伊国に落延びた。
湯河光春
()
湯河直光
(-1562)
 
1559年、畠山高政は、畠山氏の庶家で奉公衆である畠山中務少輔家の家督を直光に与えた。
 1562年3月、久米田の戦いにおいて、河内奪還を狙う高政に従い、長慶の弟・実休が率いる三好軍を撃破する。
 
1562年5月、教興寺の戦いにおいて紀伊国守護・畠山高政の麾下で、三好長慶と戦い、敗死。
湯河直春
(-1586)
湯河勝春
()

川瀬氏

(2)野長瀬氏(湯河党)

 野長瀬氏は源義家の四男・源義忠より河内源太経国(源経国)、稲沢小源太盛経(源盛経)を経て盛経の子の経忠が初めて野長瀬孫太郎を名乗り野長瀬氏を称したという。経忠の子の頼忠が野長瀬庄司六郎と号し、頼忠が近露野長瀬氏の初代になったという(紀伊国近露)。
 赤坂城の戦いに敗れた大塔宮護良親王が高野山に落ちる途中、玉置庄司に阻まれて危機に陥ったとき、野長瀬六郎盛忠・七郎盛衡が軍勢を率いて援けた。その功績から野長瀬氏は横矢の姓を賜り、以後は横矢氏も称するようになった。野長瀬氏はその後も、南朝方として楠木正行らと行動をともにし、南朝滅亡後も後南朝に仕えた。その後、室町時代の間に畠山氏(金吾家)の被官となり、紀伊国人衆として存続した。

野長瀬盛忠()
野長瀬盛秀()

野長瀬盛忠()
野長瀬盛秀
()
1562年、畠山高政に従い「教興寺の戦い」に参陣する。

(3)山地玉置氏

南北朝時代に北朝方として戦功を上げ玉置直虎は、山地荘与えられ、増賀山に鶴ヶ城を築いた。和佐玉置氏と区別するために山地玉置氏と呼ばれるようになった。玉置四天王(松本氏、古久保氏、小川氏、久保氏)と呼ばれた家臣団を有した。
1585年、秀吉の第二次紀州征伐に際し、当主・盛重が自刃し、没落。

玉置盛重

(4)和佐玉置氏

玉置氏の祖は、平資盛の子で源平合戦に敗れ熊野に逃れ、玉置山荘司となった蔦野十郎資平という。1352年ごろ、大宣が日高川を下って和佐に侵攻し、先住者である川上荘五十村を領していた南朝方である山崎城主川上則秋を滅ぼし手取城を築いたという。
1585年、秀吉の第二次紀州征伐に際し、秀吉に恭順し、本領安堵となった。

玉置盛辰()
玉置直和()
玉置永直()
玉置直俊()

玉置盛辰()
玉置直和

()
盛辰の子。官位:兵部大輔。
日高郡手取城主。
室は湯川直春の娘。
子に永直、直俊
湯川直春の娘を室に迎え勢力を拡大した。
1562年「教興寺の戦い」では湯川直光、鈴木重意らと共に畠山高政方で戦うが敗北した。
その後、織田信長に属して10,000石を領した。
1585年、羽柴秀吉の「紀州征伐」で恭順の姿勢を示したが湯川直春に攻められて居城を失った。
羽柴秀長に仕えるが3500石への減封を不満を持ち、家督を永直に譲って高野山に出家した。
玉置永直
()
直和の長男。
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属したため改易、没落した。1615年「大坂の陣」において豊臣方として大坂城に入るも敗北。後に徳川頼宣に仕えた。
玉置直俊()

(6)山本氏(湯河党)

初代忠行は北畠氏の家臣として伊勢・一之瀬城の城代を務めた後、櫟原荘の地頭としてこの地を治め、後に龍松山城を築き居城とした。
山本氏は南北朝時代には南朝方として各地を転戦、北朝方の湯河氏や小山氏らと戦った。しかし、南朝の勢力が衰えると北朝方に転じ、室町幕府奉公衆として取り立てられた。
戦国時代中後期には湯川氏の麾下に入る。
1585年、秀吉の第二次紀州征伐に際し、果敢に抵抗するが、和睦交渉のため豊臣秀長の居城大和郡山城に赴いて謁見後、藤堂高虎の館で謀殺された。

山本忠朝(-1566)
山本康忠(1560-1586)忠朝の子。

山本康忠
(1560-1586)
忠朝の子。
1560年頃、山本忠朝の子として龍松山城で誕生。
1566年、父・忠朝が死亡すると叔父・山本弘元との間で家督争いが起きる。弘元は小山氏、安宅氏らを近隣の国人を味方につけたが、重臣の田上朝康(右京進)らの活躍で勝利し家督を継いだ。
1585年より羽柴秀吉より紀州征伐を受け、居城龍松山城にて3ヶ月間の籠城するも、翌年の和睦の席で藤堂高虎に謀殺されて山本氏は滅亡した。

(7)龍神氏

 龍神氏の祖である源頼政は、1185年5月に平家と宇治川で戦い奈良へ逃れる途中に敗死、その五男頼氏が現在の田辺市龍神村殿垣内に隠れ住んだ。
 頼氏から七代後の龍神山城守頼綱は、1399年、大内義弘の乱鎮圧のため幕府軍に加わり、功を認められ南部川上流の地を賜り鳶之巣城を築いた。
 5代後の当主龍神秀政が湯河氏の謀略により大和高取城で戦死し、その後鳶之巣城も落ちたため龍神氏は没落、その後秀政の子である家綱は島之瀬に逃れ帰農したという。

秀政
龍神正房(-1562)
日高郡・島之瀬城主。
1562年、教興寺の戦いで討ち死。

龍神正房
()

(8)愛洲氏


(9)米良氏

紀伊米良氏は紀伊国熊野地方の豪族。那智山の神職・社僧・御師を務め、歴代幕府や諸大名の御用を務めた。二系統有り米良湛知の後裔は目良氏に改姓し新熊野神社別当職を代々務めた。

(10)生地氏

坂上田村麻呂の流れを組み、南北朝時代に活躍した坂上尹澄を祖とする。

(11)牲川氏

牲川頼俊
牲川義春
牲川義信
牲川義則
牲川義次
牲川義清

【9】熊野水軍

紀伊半島南東部、熊野灘、枯木灘に面した地域を拠点とした水軍衆、海賊。
平安時代末期、治承・寿永の乱(源平合戦)で活躍した事で知られる。
熊野別当が統括していた。

(1)堀内氏

 堀内氏は紀伊国新宮を支配した豪族。
 熊野別当(熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職)として熊野新宮や熊野詣などに由来する宗教的な権威と熊野水軍を擁した。堀内氏虎の代に、衰退した有馬氏に次男若楠(後の氏善)を養子を送り込んだ。
氏善の代に所領を拡大、二万七千石(実質六万石)を領有したという。
秀吉から熊野の統治権を与えられると、殿和田城から新宮城に居城を移した。関ヶ原の戦いでは西軍方につき、所領を失う。
大坂の陣では大阪方につくが、大坂城から退去時に千姫一行と遭遇し、これを護衛して家康の本陣に送り届けたことで罪を許され、旗本に取り立てられた。

氏虎
氏善(1549-1615)
行朝()氏善の嫡男
氏時()氏善の子
氏久()氏善の子

堀内氏虎
()
子に氏高、氏善

堀内氏善
(1549-1615)
氏虎の子
子に新宮行朝、重朝、氏久、米良道慶、有馬氏時、氏清、氏治

堀内氏久

(2)色川氏

 紀伊国色川に拠点を置く豪族。熊野水軍の一。
 入水したとされる平維盛を色川郷の豪族が色川郷・藤綱要害の森に匿い、盛広、盛安の二児をもうけ、色川氏の祖となったという。
牟婁郡鎌ヶ峯城、鳴滝城を拠点とする。

色川盛明()
色川盛直()
色川盛正()

色川盛直
()
盛明の子。
子に盛正。
1562年、教興寺の戦いにおいて、堀内氏虎や玉置直和らと共に畠山高政に属して戦うが敗れる。
熊野地方で最大の勢力を誇った堀内氏に対抗し、色川氏は周辺土豪や熊野三山の僧兵らと同盟を結んだ。
1574年、堀内氏善が鎌ヶ峯城を攻めるがこれを撃退した。
1578年、勝山城の汐崎重盛と結び、高河原貞盛の援軍を得て堀内氏善の軍勢を退けた。
1579年、再度攻められて勝山城は落城、汐崎重盛は討死した。
色川盛直は鳴滝城で抵抗を続けた。
1588年、羽柴秀吉が天下統一を果たすと堀内氏善と和睦して、堀内家の麾下に属した。

色川盛正
()
盛直の子。
1600年、西軍に属した堀内氏善が改易されると、紀州藩付家老の新宮城主水野重央に仕えた。

(3)安宅氏

 安宅氏は紀伊国牟婁郡安宅荘を拠点とした国人。熊野水軍の一。熊野の水軍たちが鎌倉幕府に対して度々蜂起したので鎮圧のため軍が差し向けられた中に、祖である安宅頼春がいた。1350年6月、安宅氏は足利義詮に淡路国沼島周辺の海賊退治を命じられ阿波国竹原荘内本郷の地頭職を安堵された。同年9月には阿波国守護・細川頼春から安宅頼藤に阿波国牛牧荘の地頭職が、1352年12月には、安宅王杉丸(頼藤の子の近俊か)が阿波国萱島荘の地頭職を与えられている。こうして紀伊安宅氏から、淡路安宅氏、阿波安宅氏が別れた。
牟婁郡安宅本城を拠点とする。

安宅直俊()
安宅実俊()大炊頭。直俊の長男。
安宅定俊()直俊の二男。
安宅安定()実俊の長男。
安宅光定()実俊の二男。

安宅実俊(-1526)
直俊の子。
1507年、龍松山城に籠る山本康忠を攻めた。
1508年、山本康忠の領地であった生馬の地頭職に任じられた。
1526年、安宅実俊が病没し、嫡男・安定が幼少だったことから、弟・安宅定俊が陣代となった。

安宅安定()
1526年、父・安宅実俊が病没したとき、安定が幼少だったことから、安定が十六歳になったら家督を譲るという条件で叔父・安宅定俊が陣代となった。安定が十六歳になったにもかかわらず、定俊は家督を譲らず、家督争いに発展し「安宅の乱」が勃発した。
 安宅安定を擁立する三木大八、三木新八、小笠原右近太夫、矢田千次郎、三好平左衛門、木下七九郎、小山石見守幸惶ら兵600余りは安宅本城に籠城、安宅定俊を擁立する一派と対立した。
 乱は、結局叔父・定俊が敗れ安定が安宅家の家督を継いだが、この乱によって没落した。

安宅光定()

(4)久木小山氏

 熊野水軍の一。小山下野守高朝の子・経幸・実隆兄弟が執権北条高時の命で下野国より上洛、熊野に入って沿海警固の任についたことにはじまる。小山兄弟のうち経幸は牟婁郡富田郷に居住した。

家次
長次
春次
俊次
定次
氏次

(5)古座小山氏

 熊野水軍の一。小山下野守高朝の子・経幸・実隆兄弟が執権北条高時の命で下野国より上洛、熊野に入って沿海警固の任についたことにはじまる。小山兄弟のうち実隆は牟婁郡潮崎荘古座浦に居住した。

小山隆光
()

官位:石見守
1520年、野辺六郎左衛門が畠山尚順に背いた「切目坂の戦い」に参陣した。
1530年、安宅家の家督相続に端を発した「安宅の乱」に参陣した。

小山実隆
()こやましげたか
小山隆光の子。
1562年、畠山高政に従い「教興寺の戦い」に参陣する。

小山隆重
(-1615)
小山実隆の子。官位:式部大輔。通称:助之丞。
織田信長に仕え、羽柴秀長の家臣となり「小田原の役」「慶長の役」に参陣した。1600年「関ヶ原の役」で西軍についたため改易となった。1614年「大坂の陣」が起こると大坂に入城し討死した。

(6)周参見氏

周参見氏は牟婁郡周参見を拠点とした国人。熊野水軍の一。
元は阿波に住む藤原氏の一族で、鎌倉幕府から熊野の海賊たちの鎮圧を命じられ、周参見後の地頭として定着したことに始まる。
南北朝時代、四国から紀伊にかけて安宅氏隆盛の基盤を築いた安宅頼藤の弟が周参見氏の名跡を継ぎ、安宅水軍の一翼を担ったという。

周参見氏長()
周参見安親()大坂の陣に西軍として参加。

周参見氏長
()
牟婁郡周参見城主。熊野衆のひとり。
1562年「教興寺の戦い」では畠山高政に属して三好長慶と戦い、敗れた。
のちに羽柴秀長に仕えて牟婁郡1,700石を領した。
1600年「関ヶ原の戦い」では西軍に参加、没落した。

(7)潮崎氏

紀伊半島の最南端である牟婁郡・潮岬を根拠とする土豪。
廊ノ坊重盛の代に新宮の堀内氏と対立。1579年、勝山城の合戦で敗れ滅亡する。その後、関ケ原の戦いで西軍についた堀内氏が所領没収となると、重盛の子・重伝が家を再興する。このとき、合戦に参加せず存続していた潮崎氏に配慮し、汐崎氏を名乗る。江戸時代は潮崎、汐崎、米良の3家が那智三坊と呼ばれた。

廊ノ坊重盛(-1581)
廊ノ坊重伝

(8)高河原氏

高河原元盛()牟婁郡虎城山城主
高河原貞盛()
高河原家盛()
高河原有盛()
高河原喬盛()

(9)熊野有馬氏

熊野の国人領主・熊野別当家の出と言われ、産田神社神官の榎本氏が有馬一帯に勢力をはり有馬氏を名乗ったことに始まる。
南北朝時代、有馬氏は南朝方として行動したが、永徳2年(1382年)頃に鵜殿城主の鵜殿氏と同様北朝方に転じた。応永年間(1394年 - 1428年)、和泉守忠永が阿田和から行野までを支配した。
有馬忠永
有馬常利

有馬忠親
()
牟婁郡鬼ヶ城主。嫡男がなかったため、甥の忠吉を養子とし、家督を相続させた。しかし、隠居後に実子が生まれたため、忠吉を久生屋で自刃させた。
その後、忠吉の一族に攻められ、敗れた忠親は自刃した。

有馬忠吉
()
有馬孫三郎
()
忠親の子。
子のないまま天文の末(1550年頃)に死去した。
その死後、勢力を拡大しつつあった堀内氏虎が、二男の楠若を有馬氏の養子に送り込み、有馬氏を乗っ取った。

(10)太地(泰地)氏

泰地頼虎

(11)土居氏



【10】織豊時代の紀伊

和泉紀伊(64万石):豊臣秀長(1585年)
和歌山(2万):桑山重晴(1585年~1600年)
新宮(2万7千石):堀内氏善(1585年~1600年:改易)
日高(入山城)(1万石):青木一矩(1585年~1587年:移封)
粉河(猿岡城)(1万石):藤堂高虎(1585年~1595年:移封)
田辺(泊山城→上野山城)(1万9千石):杉若無心(1585年~1600年:改易)

【11】城郭・古戦場・地理・その他

[1]海部郡の城郭

雑賀城
海部郡(平山城)
鈴木重意(佐太夫)が築いた城で、妙見山上に「妙見堂」が建つ丘山上の北側に「千畳敷」と呼ばれる台状地があり、ここに居城を構えた。

雑賀崎
海部郡(山城)

大野城
海部郡(山城)
建武年間(1334年〜1338年)に紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国がこの大野城に入城。その後、南朝方の浅間入道覚心、その子浅間忠成、保田氏、北朝方の細川氏が続いて大野城に入城した。
応永の乱の後、紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国が再び大野城に入城。
基国は1401年に広城を築いて移り、大野城は二男の満則に守らせた。

神田城
海部郡()

加茂城
海部郡()
紀伊国守護畠山氏に仕えた加茂氏の手によって南北朝時代に築かれたと云われる。

[2]名草郡の城郭

和歌山城
名草郡()
1585年、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長は、紀伊平定後に紀伊・和泉の2ヶ国を加増された。当時は「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、普請奉行に藤堂高虎、補佐役に羽田正親、横浜良慶を任じ、1年で完成させた。この際に「若山」が「和歌山」と改められている。

太田城
名草郡()

和佐山城
名草郡(山城)
1356年、紀伊国守護・畠山義深(尾張守)によって築城された。

中野城
名草郡(平城)
孝子峠越えと大川峠越えのルートが集まる要衝で、和泉国方面から紀伊国の入口にあたる。土豪・貴志教信の居城であった。

木本城
名草郡(山城)
湯浅宗重の孫宗保が築城し、木本氏を称した。

[3]那賀郡の城郭

根来寺
那賀郡()
新義真言宗の総本山の寺院。山号は一乗山。

猿岡山城
那賀郡()
1573年、根来寺と並んで紀ノ川流域に勢力があった粉河寺が寺の防衛のために境内南側の猿岡山に築城。

古和田城
那賀郡()

飯盛山城
那賀郡()

勝谷城
那賀郡()

[4]伊都郡の城郭

長藪城
伊都郡()
楠木正成に従い功を立てた牲川頼俊の子・義春が、文明年中(1469–1487年)に紀伊国伊都郡に入り、長藪城を築いた。牲川氏代々の城。

銭坂城
伊都郡()

岡城
伊都郡()

今城山城
伊都郡()
那賀郡と伊都郡の境界上に位置する。

[5]有田郡の城郭

湯浅城
有田郡(山城)
1143年、湯浅宗重によって在田郡の青木山に築城された

広城
有田郡(山城)
紀伊国守護・畠山氏の居城。
紀伊国有田郡広荘にあった城で、高城山に築かれていた。
1520年、畠山氏の内衆である野辺慶景が主君である畠山尚順と合戦を行い、敗れた尚順は広から和泉国堺に没落した。
1521年、尚順は広城を攻めたが敗北し、淡路島に退いた

岩室城
有田郡()
岩室山の山頂に築かれた城で、熊野街道と高野街道が交わる交通の要衝に当たり、湯浅党の宮原氏が本拠としていた。
岩室城はこの後、有田郡に勢力を伸ばした守護・畠山氏の支配下に置かれた。
畠山氏の拠点城郭である大野城や広城、鳥屋城と比べて規模の小さな支城であり、広城や鳥屋城と連携して、熊野街道を押さえるのに用いられた。
1585年、畠山貞政の籠る岩室城は羽柴秀吉の軍勢により落城した

鳥屋城
有田郡(山城)
鳥屋城は鳥屋城山に築かれた山城で、鳥屋城のあった石垣荘は中世の武士団・湯浅党の拠点の一つであり、後に守護・畠山氏の所領となった。
1520年に畠山尚順が内衆・野辺慶景や国人の湯河氏・玉置氏に広城を追放されたが、それを機に畠山氏の拠点が広城から鳥屋城に移ったといわれる。
1585年3月、羽柴秀吉が紀州攻めを行い、鳥屋城は仙石秀久・中村一氏・小西行長らにより落城した。

紀伊衣笠城
有田郡()
南部庄・三栖庄・秋津庄の地頭である愛洲経信が衣笠山に築城。

鹿ヶ瀬城
有田郡()
有田郡と日高郡の境界上に位置する。

清水城
有田郡()

[6]日高郡の城郭

紀伊亀山城
日高郡(山城)
1348年頃、道湯川から日高地方に進出した湯河氏3代当主・弥太郎光春により築かれた。
日高平野を一望できる亀山の山頂に築かれた城である。
1585年3月、羽柴秀吉による紀州攻めへの抵抗を決めた湯河氏当主の直春は、羽柴軍が亀山城に迫ると自ら城を焼き、熊野に落ちていった。

鶴ヶ城
日高郡(山城)
玉置直虎(下野守)によって築城された。山地玉置氏の拠点。
直虎は北朝方に属して戦功を上げ、日高郡山地荘を得、その地に鶴ヶ城を築いて居城とした。

手取城
日高郡(山城)
玉置大宣が、日高川下流の山崎城主・川上則秋を攻め滅ぼしてのち、山崎城の東方、城山の山頂に築く。以後、玉置氏の居城となる。
1600年、玉置氏が西軍に加担したため、戦後、改易。城は廃城された。

鳶之巣城
日高郡(山城)
1399年頃、応永の乱の功績により矢田庄土生村・小熊を賜った龍神山城守頼綱によって築かれた。

平須賀城
日高郡(山城)

高田土居
日高郡()

[7]牟婁郡の城郭

[7A]西牟婁

田辺城
牟婁郡(平城)
別名は錦水城、湊村城、湊城など。会津川の河口左岸と海に隣接していた。
田辺には湯河氏時代の泊城、杉若氏時代の上野山城、浅野氏時代の洲崎城があったが、1605年に洲崎城が波浪によって破壊されたことを受けて、1606年に浅野幸長の家老・浅野知近によって築かれた。

衣笠城
牟婁郡()

鷹ノ巣城
牟婁郡()

安宅城
牟婁郡(平城)
享禄年間(1528年〜1532年)安宅河内守によって築かれた。

龍松山城
牟婁郡(山城)
天文年間(1532年〜1555年)山本忠行によって築かれた

虎城山城
牟婁郡(山城)
別名:古座浦城。
1581年、高河原貞盛が虎城山に築城した。

新宮城 (丹鶴城・沖見城)
牟婁郡()

三鬼城
牟婁郡()

神田城
牟婁郡()西牟婁郡すさみ町周参見

[7B]南牟婁

[7C]東牟婁

鬼ヶ城
()熊野市木本町城山

[7D]北牟婁

紀伊長島城
()北牟婁郡紀北町紀伊長島区西長島

中村山城
()尾鷲市中村町


岡山城
秋月城
貴志城
赤木城
仲氏館
関山砦
山ノ神砦

(3)地理

根来寺

和泉山脈
和泉と紀伊を隔てる山脈。西からは加太、多奈川付近から孝子峠、三峯山、和泉葛城山、鍋谷峠、三国山、槇尾山、燈明岳、蔵王峠、岩湧山、紀見峠に至るおおむね南北10km余り、東西50kmほどの地域。

孝子峠
孝子峠は、和泉国と紀伊国を結ぶ孝子越街道の途中にある峠。標高100m。

大川峠
和泉山脈を越える峠の内で一番西にあり、紀淡海峡・友ヶ島を望むことができる。標高104m。
深日村[孝子越街道と分岐] - 谷川村- 小島村- 大川峠 - 加太浦 - 和歌山城下

雄ノ山峠
渡辺津と熊野三山を結ぶ熊野街道(熊野古道)の途中にある。峠の約2 km北側は和泉国と紀伊国の国境となっており、境橋が存在する。

紀見峠
紀伊国と河内国の境であり、高野街道の中継地である峠(標高400m)。

紀州街道
大阪と和歌山を結ぶ街道。
豊臣秀吉によって新興都市の大坂と既存都市の堺を結ぶ、住吉参詣を兼ねた道路「住吉街道」として整備される。熊野街道(紀伊路)などを利用して堺以南の区間が整備された。
大坂城下 - 今宮村 - 天下茶屋 - 住吉村 - 安立町 - 堺 - 下石津村 - 高石南村 - 下条大津村 - 忠岡村 - 岸和田城下 - 貝塚寺内 - 鶴原村[孝子越街道と分岐] - 樫井村 - 信達宿 - 山中宿 - 雄ノ山峠 - 山口宿 - 永穂村 - 田井ノ瀬の渡し - 出島村 - 和歌山城下(和歌山市)

紀伊路

孝子越街道
和泉国日根郡鶴原村で紀州街道と分岐して沿岸部に進路を取り続ける街道。
鶴原村[紀州街道と分岐] - 佐野村- 吉見村- 樽井村- 尾崎村- 深日村- 孝子村- 孝子峠 - 中村- 北島村- 北島の渡し - 和歌山城下

南海道
和泉国呼唹から名草(なぐさ)→紀伊国府→賀太→淡路国・由良

紀の川

有田川

日高川

富田川

日置川

古座川

熊野川


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