小説「更新」

 鏡に映った自分の顔は、よく見ると左右非対称だった。
 絵本から学んだような薄茶の髪は、幼稚で古臭く、薄ピンクの縁なしメガネも、こめかみ辺りの輪郭を歪めるだけでおしゃれとは言い難い。美しくない。それは恥ではなかったが、今の私にとっては生きる価値を貶めるほどの重大な欠陥だった。アンバランスに傾く眉と、左右それぞれで揃わない口角を眺めていると、自分が出来損ないのアンドロイドのように思えてくる。失恋したら泣くものだ、悲しくはないのか、好きではなかったのか。ただの上司ではなかったはずだ。
 これまで、仕事中にその人を思い返すことはなかった。そもそも階数も部署が違うのだから、見かける機会も少なかった。焦がれたり、ぼんやりと空想することもなかった。ただ派遣として働く。給与のためだけと割り切れるわけでもないが、あの人がいたからというモチベーションもなく、ただ、そういうものだ、機械的に働くものなんだと手を動かしていた。
 その生き方がひどく虚しく思えたのは、その人が朝礼にやってきて、結婚報告をしてきた日の夜だった。なんの目的もなく働いていることに、漠然とした疑問を抱き、このまま生きていくのかと胸中を覗いた。帰宅の電車を待っている最中だった。
 足を踏み外せば線路に、いや、そこまではいかないものの、知らなければよかった空白が、線路上の空間に、そして、窓に映った自分の瞳に讃えられていた。
 俗にいう失恋の憂鬱を抱え込んでしまった私は、以降、思考が飛んでしまうことが多くなった。電卓を叩いている時、迫り来る数字がぷつりと途切れてしまう。急いで支度をしている朝、気付けば長時間歯磨きをしてしまう。勤務中、トイレに篭ったまま戻ることを忘れてしまう。自分の中の大きな穴に、否が応でも引きずり込まれていく。
 少し贅沢なご飯を食べてみても、趣向を変えたお酒を飲んでみても、前から欲しかった家電をいざ買ってみても、まるで、チョコレートの一時の混濁のように続かない。目の前の現実に酔うことができない。救いとばかりに眠気が回る。髪を切ろうと意気込んだが、女子じゃあるまいしとハサミを置いた。虚しく、埋まらない。深夜のテレビ番組を食い入るように見ている内に、朝日を迎えてしまったことが原因で、私は生まれて初めて、ズル休みを決行した。熱が出た、と咳込みながら電話をして、二日で何とか立て直そうと考えていた。
 一日目は、ベッドの上で過ごす時間が大半を占めた。スマートフォンを裸眼で捉えられる近さで添い寝させて、動画や漫画をひたすらに見詰めていた。その物語に意識を乗せている間は自分を忘れることができたけれど、夕方、疲れた目を目蓋に閉じ込めてしまえば、真っ黒な視界にちらちらと記憶の閃光が走る。気持ちがせり上がってくる。目を開けても、これから映画を見ようという力は残っていない。外食でもしようかと仰向けになって考える。腹部の物理的な喪失感に、思考を預けていく。
 何とか身体を起こして夜の街へ出た。帰宅途中のサラリーマンやOLを見て、今更ながら、仮病で休んでいることへの罪悪感が芽生えてくる。視線を少し落として、ジーパンのポケットに両手を差し込んで、しょぼくれて歩いてみる。私は心に傷を負っています、と思い込んでみても、不思議なことに、薄い膜のようなものに邪魔される。家でいた時にはアクセスできた領域に踏み込めなくなる。何なら明日から出社したっていい。数多の広告の眩しさにあてられたせいか、外の空気の濁りのせいか、もうすでに、傷心は振り返るものになりつつある。ファミレスを出た後、ただの夕食に千円も払ってしまったことに若干の後悔を引きずる。
 二日目は、部屋のパソコンの電源をつけて、仕事に使えそうな資料を作ることにした。仕事の時と同じように、髪をポニーテールに結んでやる気を出してみたが、一時間ともたなかった。昼食のカップラーメンをすする頃には、本当に風邪でも患っているのではないかと思えるほど元気をなくしていた。乾燥防止のために化粧水をつけてから昼寝に入る。少し働いただけなのに、よく頑張ったと心が囁く。束の間の安心感を覚えて、その内に眠ってしまった。
 置き時計のバックライトを点けると、十九時と表示される。さすがに寝すぎた。これからどうしようか。掛け布団を被ったまま、外の車の走行音、過ぎるサイレン、ワンルーム内に響き渡る静寂を聞いていた。
 一人で生きていかなきゃいけないんだ。三十を過ぎ、今回の件で結婚願望も薄れてしまった。ただ一人分の幅しかない橋の上で、ぐらぐらと、不安定な足取りを進めるしかない。契約社員だから、落ちたら悲惨かもしれない。
 先には退屈でどうしようもない日々が、後ろには平凡で取柄のない過去が、厳然と続いている。花を咲かせるような愛想も、別の橋にぴょいと飛び乗る才能も、下に落ちる勇気もない。真面目な顔しかできない、視力の悪い女だった。老け込んだ自分がぼんやりと映る。
 テレビを付けて、虚しさの中にただ居座る。掛け時計は二十一時を示す。あと三時間で出勤日。何ら、解決していない。
 眼鏡を外したまま、テレビの内容は雰囲気とだいたいの輪郭で判断する。ありふれた刑事ドラマのようだった。刑事は公務員だから安定しているだろう。
 休暇にあって然るべき、私のためだけの充実が無いだなんて。仕事に行けばいつもの自分を取り戻せそうだなんて。味気のない部屋だと、天井を見詰めながらソファで眠った。

「おはようございます」
 出社すると、同僚と上司が私の仮病を心配してくれた。大丈夫かと問われる度、申し訳なく思う。今日はいつもより頑張ろう。パソコンに向かい、家で作ったデータをUSBで差し込む。遅れた分を取り戻そうと、それなりに必死になった。それでも一仕事を終えた時の、ほんの一瞬、弁当を食べている間のふとした数秒、帰宅して風呂に浸かっている数十分、ご飯を作り、寝るまでの数時間、穿たれた穴に落ちてしまう。あの人はもう、自分とは程遠い存在へとなり果てた。特別な感情は引き千切られてしまったようで、残滓がぶすぶすと煙を上げながら萎んでいく。
 昨日と一昨日の、二日間で得たこの空虚さに成す術もない。それでもベッドを出て、パソコンを立ち上げる。明日の仕事に役立ちそうなデータや記事を探し、行き帰りの電車内で読むための実用書を注文した。
 向き合わなければ痛くない。そんな妄言を心の中で唱えつつ、私は仕事に没頭した。
 年度末。正社員にならないかと訊かれ、すぐさま笑顔で快諾した。


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