見出し画像

私たちはただ与えられているのだ、どんなときも。

義理の祖母(94)のお昼ご飯を用意するのが、数か月前から私の役目となっている。と言っても毎日ではなく、ヘルパーさんが来てくれたりデイサービスを利用しているので、私の担当は週に2日程度。家族用に作るお昼ご飯を多めに作って取り分けるくらいで、あまり特別なことはしていないのだが。

祖母は少し認知症の症状があるものの、トイレは自分で行けるし、食事の介助も必要なく、辛いものや堅いものでなければ大抵のものは食べられる。幼児のいる我が家のご飯は、味付けも柔らかさもちょうどいい。

普段、デイサービスでどんな食事をしているのかわからないけれど、焼きそばやカレーは珍しいだろうと、そういうメニューを作っていくこともある。子どもも食べるので、どうしても子どもっぽいメニューが多くなってしまうのだが、祖母はいつも喜んでくれる。もしかしたら私に気を遣ってくれているのかもしれないけれど。

 *

先日はクリームシチューを作った。シチューなら、体も温まるし野菜もたくさん食べられる。白いごはんと切干大根煮も一緒に。洋食はあまり食べ慣れない祖母なので、口に合うかな・・・と心配しつつ、用意した。

すると祖母は大喜び!『これ、おいしいわね~!』と大絶賛。食後も『おいしかった~』と何度も言ってくれて、なんだかこちらが恥ずかしくなってしまうほどだった。スーパーで売っている普通のルーで作った、普通のシチューなのだから。

そして祖母は『あなた、子どもはいるの?』と私に聞いた。祖母は、私が孫の嫁であることは忘れているときが多い(たまに思い出してくれることもある)。ひ孫たちが私の子どもであるという情報は、彼女の中ではあまり一致していないようだ。私のことは、大抵はヘルパーさんの一人だと思っているのだと思う。

私が『はい、ちいさい子が2人いますよ。』と答えると、『これ、こんなので遊ぶかしらね?』と言って手渡してくれた。テーブルの上にあった、折り紙のコマだ。デイサービスで作ってきたのかもしれない。

『はい、きっと喜びます。ありがとうございます。』私は、色とりどりの折り紙のコマを2つ、エプロンのポケットに入れた。祖母の気持ちがうれしくて泣きそうになっていたのをぐっと我慢した。

正直なところ、祖母のお昼を用意することを億劫に感じるときもある。子供の幼稚園や小学校のイベントがある日は時間を調整しなくてはならないし、事前に他の家族にお願いしなければ朝から出かけることができない。『よし!今日は天気がいいから今から家族みんなで動物園に行こう!』ということができないのだ。

だから、ほんの少し不自由に感じていた。いつも祖母のお昼に縛られているような気がしていた。

買い物をするとき、祖母も家族もおいしく食べられるメニューを考える。お昼に間に合うように用事を済ませる。ときには市販のお弁当を用意することもあるけれど、そんなときは何となく罪悪感を感じる。その罪悪感も少しずつ負担に感じるようになる。

心のどこかで「私がやってあげている」という思いがあった。それはいつしか「報われない」「どうして私ばっかり」という思いになっていた。なんという驕り、なんという未熟さか。自分でも本当に呆れてしまうほど恥ずかしい。

そんな私に、祖母はいつも感謝してくれた。「ありがとう」といつも言ってくれた。今日だってこうして折り紙のおもちゃをくれた。あたたかい優しい心が、伝わってきた。

ああ、そうか、私は祖母に徳を積ませていただいているのだ。

そう思ったら、ただ、ただ、在りがたかった。心の中で静かに涙を流した。

私は「お昼ご飯を用意する」という大義名分を得て、こうして週に2回は祖母の顔を見に行く。お昼を用意して、体調を見て、話をして、お茶を淹れる。お布団を整え、キッチンの布巾を消毒する。食事が終わったら、お薬を用意する。祖母の好きなお菓子をおやつに持っていくこともある。その全てが、私に与えられた徳なのだ。

なんだ、もう感謝しか、ないじゃないか。私たちは、与えられてばかりなのだ。

サポートいただけましたら、すてきな絵本との出会いに大切に使わせていただきます。