ぼくの中にいる躁くんと鬱ちゃん。
ぼくは躁鬱人だ。極端な二面性をもっている。
レコードに例えるならA面とB面。
感情に例えるなら希望と絶望。
その両極を行ったり来たりして生きている。
人間に宿る才能。
それはクリエイティビティだと思う。
想像する力。
創造して物語や物事を生み出す能力。
個人の時代と言われるようになったが、
分人主義という考え方がある。
絶対的な個(individual)があるのではなく、
その時々によって現れる自分たち(dividual)がいる。
分人主義に例えると、ぼくの中には躁くん(躁の時の自分)と鬱ちゃん(鬱の時の自分)がいる。躁くんは、とにかく好奇心旺盛で、思いつきでなんでもやってみたくなる高校生のような男の子だ。躁くんになると、気分が高揚してやる気に溢れ、パワーが漲り、色んな人と交わり、思考もアイデアも冴え、自分は全知全能でなんでもできちゃう!ような気分になるし実際スゴくできちゃったりする。不可能に思えるようなことを、あっさりとやり遂げたりする。
人間の思い込み力は、現実を形づくる。躁くんは自由と希望を全身全霊で楽しんで生きる男の子だ。しかし、ずっと躁くんで気分よくいられる訳ではない。例えば、漫画の主人公のように超能力を使えば、使い果たした時にげっそりしてしまう。ワンピースのルフィーだって、最高地点ギア5で『太陽の神・ニカ』に変身できるようになったが、変身後は疲れて休息を必要とするし、おらワクワクすっぞ!のドラゴンボール孫悟空だって、スーパーサイヤ人になればその後かならず萎む。そう考えると、ルフィーも孫悟空も躁鬱人だ。
躁くんになってしばらく遊び呆けていると、体が悲鳴をあげる。でも、躁くんは気づかずもっと動き回って遊ぼうとする。ワクワクドキドキして寝れなくなったり、日中も次から次へと思いつくがままに行動するから体は疲れる。体が限界を迎えると、自動的に鬱ちゃんと入れ替わるスイッチが入る。体がだるくなり、思考がゆったりして、動きが止まる。1日の活動が「食う、寝る、鬱る」になる。
そうして、鬱ちゃんは体を休めるために働いてくれるのだ。躁と鬱は相互補助しあう関係性にあることにやっと気づけた。鬱になっても、自分に有り難う。鬱ちゃんにも休ませてくれて感謝する気持ちを抱くようになった。すると、不思議と今までは鬱になってしまった自分を全力で自己否定や自己嫌悪に陥りながらネガティブスパイラルの沼に嵌りこんで苦しんでたのに、分人の鬱ちゃんに感謝すると、体は休まって、心は沈まず踊ったままでいられるようになったのだ。
これは自分にとって、大きな成長で、躁鬱と楽しく共生できる進化だ。今までは、躁鬱は諸刃の剣で、躁くんになって高く跳べば飛ぶほど、鬱ちゃんになった途端に急降下して激しく地面に叩きつけられる落差がどんどん激しくなって、もうこれ以上自分には耐えられないほど辛くなっていた。だから躁鬱を必要としない自分になれないか模索したり、無くそうともした。でも、10年以上もお付き合いしてる躁くんと、鬱ちゃんという人格はしっかりと自分に根づき、自然と躁鬱の波は沸き起こる。それなら、躁鬱の波に抗うより、その波に乗って人生をともに楽しめるほうがいい。
分人主義という観点から自分を見つめ直し、
自分を全肯定する難しさ、全否定してしまう苦しさから解放され、ぼくは人を笑わせ苦悩から解放する戦士に参戦したい。
躁くん、鬱ちゃんとともに、
人生というジェットコースターを、波乗りを、
空想のままに踊り、より自由に、この世界を楽しんでいこう。
自分を愛し、そして世界を愛する。
自分平和からはじまる、世界平和への道をともに歩もう。
Be your PEACE.
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