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【感想】 選ぶことの難しさ

 昨日から始めた、読んだnoteに1日1コメント以上残していこうというささやかな取り組み。このお昼休みにもいくつか読み、気になったものにコメントさせていただきました。

 で、小説ではないのですが、考えさせられたのがこんな話。

 私は文学賞の運営に、ニアミスしたことはあってもタッチしたことのない外野の身なので好き勝手いうだけなのですが、選ぶということは本当に難しい。選ぶという行為は、その構造上、必ず選ばないという行為を伴うからです。

 致し方ないといってしまえばそれまでですが、選ぶ側にも苦渋の選択をしなければならないことはあります。

 ただ、既に商業出版されている方に対しては差し出がましいことですが、外野から口を出すとしたら、

とにかく書いて、書いて、書くことです」

 としかいえません。
 書くことによって生じた無念は、書くことによってしか取り返せないのです。

 選ぶ側だって、これまで選ばれないということをたくさん経験しながら、いまがあります。偉そうにふんぞり返っているだけの編集者がいるとしたら、その人を殴っていいですか私。私だって編集という立場にいますが、書き手としてはかつてたくさん落選を経験してきました。もちろん出版社の就職試験もたくさん落ちました。

 今朝書いたnoteに「もっと感想を言い合える文化が活発になるといいですよね」と書いたそばから矛盾するようですが、自分の作品を高めたいなら、とにかくたくさん書くことです。書くことは楽しい。書くことによって安定は保たれるし、充実するし、書いている当人自身にも新しい発見があるし、また書きたくなる。書くことが辛いなら楽しくなるまで気晴らしして、また書くことです。

『小説の書きかた私論』を読んでくださった方なら、なぜ第一章にあの内容をあれだけの分量を割いて私が書いたのか、ご理解いただけるかと思います。

 なんのこっちゃ判らない方は、返金して一向に構いませんので第一章だけでもお読みください。ここに私の大前提となる想いが詰まっています。

 私が抱く文章観とは、つねに書くことが動的な表現であり、読むこともまた動的な営為であるという前提に基づきます。書かなければ文章は生まれないし、読まれることもない。読まれるならば、ゼロから読み進められるものとして、想定する読者に寄り添って、読者とともに動的に文章を展開していかなければならない。

 もちろん「応募したあの作品は私自身だった」という思い入れの強さはよくわかりますし、それが選ばれなかったことの辛さがいかばかりであるか、それは想像を絶するものだったのではないかとお察しします。
 ところがこれだけは誤解していただきたくないのが、文章というのは基本的に、事前の情報がゼロの状態から読み進められるということ。これは過去のnoteでも折に触れて書いているとおり、私の小説観の前提にあります。
 著者畢生の作品だとかライフワークだとか編集者も惹句に書いたりしますが、読む側にとっては関係なく、それはゼロから読み始める一個の作品に過ぎません。それ以上でもそれ以下でもない。その良さを訴えかけようと思ったら、作品の文章そのものの力でゼロから積み上げて動的に訴えていくしかない。

 その力を増していくためには、書いて、書いて、書くことです。
 よく就職試験の不採用通知に「今後のご健闘をお祈り申し上げます」と書いてあるのを、学生は「お祈りメール」などと諧謔して呼びますが、確かに企業としては社交辞令であのように書くしかないにせよ、業界の発展や市場・経済の発展を考えるなら紛うことなく企業の本心でもあり、最善手なのです。そのことに気づけず立ち止まって嘆くだけなら、進歩もない。文筆で活躍するためには、とにかく書くことです。

 編集としての私は、微力ながら書くことのアジテーターたりたい。
 みなさんの今後ますますのご健筆をお祈りしています。

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