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【note小説感想】 描写について

 フォロワーの反応を確かめてみたいという思惑もあり、昨日のnoteでは実験的に、あえてこれまでと毛色の違うオタクなタイトルをつけてみました。

 タイトル「サクラ大戦を救いたい」。

 投稿から約1日が経過して、ビュー数やスキ数を比較してみると、まぁ予想できたことではありますが、反応はいまひとつでしたね。任天堂には敵いません。

 頭に超がつく優良企業である任天堂は、ビジネス書や実用書の分野でもよく取り上げられるほどメジャーですからね。

 タイトルこそサクラ大戦となっていますが、前掲の記事は、じつは至って真剣な創作論になっています。のちほどタイトルは変更しておきたいと思います。
 タイトルをつけ直すとすれば「シリーズものの宿命」といったところでしょうか。

 それと、小説創作論を書いたnoteがだいぶ増えてきたので、記事をまとめたマガジンも新たに作成しました。

 ちなみに、私はこれまで『リングフィットアドベンチャー』や『ポケットモンスター』『ゼルダの伝説』そして『サクラ大戦』と、趣味のゲームについて何度か言及してきました。また、映画についてレビューしたり、ストーリー創作術を語るときに引き合いに出したりすることがたびたびありました。
 しかしながら、私の本業である出版物については、意図的にほとんど言及してこなかったはずです。少なくとも、レビューは書いてきませんでした。本当は、面白い本を読んだら、その感想を書いて多くの人にオススメしたいという気持ちになるのは当然のこと。実際、今年に入っても既にご紹介したいほど素晴らしい本を二冊、読んでいます。
 それでも、なまじ本業に近いところの商品の話をすると、面倒くさい利害関係が生じないとも限りません。少なくとも本屋に行けば、自分が関係しないすべての本が私にとってはライバル、商売敵となるわけですし。また、ステマでない限りは自分の関係する本は紹介しないはずなので、消去法で、私がどのあたりの版元で仕事をしているのかバレてしまうおそれもあります。たとえば上記の引用で、私がほぼ日さんと関係ないことはバレました。あくまで匿名で気楽に活動したいので、要らぬ詮索を避けるためにも、本の感想だけは今後もほとんど書けないかと思います。悪しからずご了承ください。

 さて、とても有難いことに、今日は岩代ゆいさんのnoteにて『小説の書きかた私論』について言及していただきました。

 この場を借りて厚く御礼を申し上げます。
「カルチャースクール半年ぶんくらいの講座になってしまうのではないか」というのは、畏れ多くも望外の嬉しい形容でした。

 ところで、上記の岩代さんの記事で読んでいただきたい部分は、拙作の感想とはむしろ別のところにあります。興味深いので、ぜひ最後までお読みになってください。

 仲高宏さんが、岩代さんの小説『It is no use crying over spilt milk.』を読まれた経緯と、その感想を受けて岩代さんが書かれた『Spanish Blue』が紹介されています。なるほど確かに、説明と描写を意識的に書き分けることで、仲さんが仰るように「格段に研ぎ澄まされた」ように私も感じます。

 孫引きのようで恐縮ですが、仲さんの記事『読まれるエッセイは描写から始まる』にもとても興味深いことが書いてありますので、ご紹介させていただきます。

 で、この「描写」というテーマの流れを受けて、岩代さんの別の2作品を面白く読ませていただきました。

『時を止めてみたら、僕は。』と『地球が終わる日』です。

 いずれも「僕」の語りによって書かれた時間SFです。

 余談ですが、タイムリープなどを扱う時間SFやミステリーは私の大好物のひとつですが、最近、その本質的な欠陥というか不可能性について、ずっと考えています。好きだからこそ、その本質的な「無理」がどうしても気になってしまうんですね。たとえば『時を止めてみたら、僕は。』では、時間停止後にテレビをつけたらしっかり電源が入ることになっています。時間が流れていないのに、電気信号はいつ流れたのか。そもそも時間が止まっているはずのリモコンのボタンに、主人公はどうやって干渉しえたのか。時間が止まっているならば、リモコン自体がカチンコチンに固まったまま、びくとも動かせないはずですよね。しかし、時間SFにおけるその類のツッコミは野暮というもの。「んなことみんなわかって楽しんでんだよ」という暗黙の了解が存在します。その件についてはいずれ、別の機会に書きたいと思います。

 どちらも面白いSF作品ですが、あえて相対的に比べるとするなら、個人的には『時を止めてみたら、僕は。』のほうが優れているように感じました。理由は後述します。

『時を止めてみたら、僕は。』は、魅力的な書き出しに始まり、時間が停止してからは丁寧な「描写」により、作中の「僕」だけが体感している間延びした時間の流れを、読者が追体験できるように書かれています。

 カーテンを開き窓の外を覗いてみたら、人々が歩いている。ように見える。が、よくよく見たら動いていない。歩く姿勢をして立ち止まっている。

 たとえばこの部分。
「窓の外を覗いてみたら、人々が歩く姿勢のまま立ち止まっていた」
 と書けばたった1行で済むところを、僕の視線の動きや感受の過程を描くことで、時間の間延びを表現しています。

 時間の間延びを感じられるからこそ、働かずに自由に食べて飲んで寝られる楽勝の生活に、僕がだんだん倦んでくる心情の変化に共感が持てます。「新幹線に乗らねばならない親元には帰省しなくなった」という発想にも独自性があると思います。なかなか思いつけないですよね、こういう発想は。主人公の孤独を、効果的に演出しています。

 そして、なかなかに衝撃的な、起承転結における「転」の部分。腕時計を盗みに入ってからの展開は先が読めず、とりわけ面白かったです。ただ単に、時間を操る能力を得た者の「孤独」や「退廃」を描くだけなら、凡百の物語になってしまっていたかもしれません。しかし「真っ黒な男」という諷刺的な存在や、ラストにまで引きずられる「足首の鈍い痛み」といった個人的な体験が描写されることで、オリジナリティーが生まれていると思います。ともすると陳腐になってしまいかねないので扱いが難しい「夢オチ」も、この作品ではむしろ良い効果を上げています。いずれ、この路線で別の作品を書かれることがあるならば、ぜひまた読んでみたいと思うような作品でした。

 一方『地球が終わる日』にも、濃密な時間が流れています。タイトルのとおり地球が終わるまでの1日の様子が描かれているわけですが、時間にすればたった24時間にもかかわらず、登場人物の来歴や、地球滅亡直前の極限まで追い詰められた人間の心理が詰め込まれています。まず、一度は別れた男女が一緒になって海を見にいくだけならよくある展開ですが、そこで海の家の営業を手伝ってしまうという発想が面白い。ほとんど誰も働く必要がなくなった世界で、あえて自ら体験したことのない仕事を買って出る。滅亡を目の前にしたら、案外、人間の心理はそんなものかもしれないと思わせます。怒り狂って自暴自棄になる人はとうに自発的にこの世を去り、残された者たちの静かな最後の1日。彼らが抱く寂寥も諦念も、数時間後には消えてなくなってしまうという設定は興味深いです。

 会話の運びも面白い。

「駅で回収しなかったの。記念にくれるって」
「記念にね。切符で電車に乗ったのか」
「記念にね」
「記念に、か。もう終わるのに記念も何もないよな」
「これ、直人が私んちに置いてったラーメン」
「4年以上前のものかよ」
「食べよっか」
「腹こわさないか」
「いいでしょ、どうせ地球終わるんだから、お腹のひとつやふたつ」

 誰にも検証実験しえない状況下の会話って、やはりこんなものかもしれないと思わせてくれます。SFを読む楽しみは、まさにそういうところにあると思います。

 また、アクティブな女性主導の行動にも、妙な説得力があります。両作品とも一人称「僕」で語られる作品ですが、作者は過去のnoteからすると女性です。

 私は男性なので女性の心理を推し量るのは難しいですが、少なくとも滅亡が予告された終末の世界という思考実験においては、

「私、整形手術したの。地球が終わるから」
「この世の終わりには整形するものなのか」
「私はね」
「金の無駄じゃないのかよ」
「丸顔になりたかったの。それだけ。寒いから入れてよ」

 こういう恬淡とした発想は、男性にはあまりないような気がします。なるほど、整形。

 ただ、この作品の全体を俯瞰してみると、ひとつだけもったいないと思う点がありました。それは、海の家を訪れる中年夫婦や若いカップルの描写がほとんどなかったこと。
「終末の日に人知れずひっそりと営業している海の家」
 という舞台装置がとても興味深く、さらなる物語が生まれる予感がしたもので、肝心のその部分が欠落してしまったのは、少しもったいなく感じました。
 作中で流れる時間はたった24時間かもしれませんが、題材としてはおそらく中編、あるいは長編向きだと思います。その点が、急激に「転」を展開していくのが心地よい短編向きの『時を止めてみたら、僕は。』とは異なります。個人的に『時を止めてみたら、僕は。』のほうが優れていると感じたのは、分量相応の内容として完結していたからなのです。

 何ヶ月、いや何年もの時の流れを描くばかりが長編小説ではありません。作中の時間にしたらたった1日の出来事でも、その題材次第では充分に長編小説になりえます。一気に時制を移動させる「説明」ではなく、時間の濃淡を描く「描写」の必要性が高まれば高まるほど、その題材は長編向きになります。

 もし機会があるのなら、いずれ海の家でのエピソードを加えた中編ないし長編も読んでみたいと思う作品でした。

 見たままの時間が流れる映画や演劇などとは異なり、小説において時間を描くという行為は、正解のない厄介な難題です。

 余談ですが、この「読んでいる時間」の経過そのものを利用した面白い本を1冊だけご紹介します。既に売れているので、ご存じの方も多いと思います。

 児童書ジャンルとはほとんどご縁がないので、気楽にご紹介できます。最近、子どもの寝かしつけに利用しているのですが、不思議なことに読み聞かせているうちに、本当に子どもが眠ってしまうんです。それどころか、読んでいる自分までいつの間にか眠ってしまう始末。
 読んでみるとわかりますが、この作品はただ退屈なのではなく、優しい物語を丁寧に描きつつ、時間の使いかたが上手い。フォントによって演技指導までされているので、読み手の意識もぞんざいになりません。ベストセラーになるのも肯ける作品です。

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 あっ。

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