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タイトルについて思うこと

 Twitterアカウントを持って「小説家になろう」や「カクヨム」に膨大な数の作品が投稿されているのを見るにつけ、ではなぜこんなに出版文化が衰退してしまったのだろうと首を傾げざるをえないのが、正直なところです。

 なんでも無料で読めるウェブの存在が、小説そのものの在り方まで変質させてしまった。

 もともと小説は、文章を書く頭と紙とペンさえあれば、ほとんど原価がかからずに書けてしまう手軽な表現媒体です。楽器も要らなければ、カメラや録音機材などもいらない。現代では、その紙とペンが、インターネットのブラウジング機能を兼ねるパソコン一台、スマホ一台に置き換わっただけの話です。だから、無料で読めるという意識も強くなる。

 ただ、書店に並ぶパッケージ商品たる本とは異なり、文字情報だけで完結している有象無象、玉石混淆のウェブ小説のなかで頭角を現わそうとするのは、砂漠に一本の針を探すより大変なことなのではないかと思います。むしろ、プロデビューの関門さえ突破してしまえば、選ばれたプロだけが集う紙媒体の世界で戦うほうが、競争相手の母数からすれば、まだ有名になれる確率が高いのではないか。

 しかも、ウェブ小説で有名になろうとしたら、自ら編集的なふるまいをして、作品をプロデュースし、売り込まねばなりません。
 紙媒体の場合、私たち編集の人間が、たとえば帯のキャッチコピーを考えて書きます。書店では書店員さんたちが熱心にPOPを書いてくださっています。それらを含めてお客さんに提示して、内容や面白さを把握してもらおうと努めるわけです。
 しかし、ウェブ小説で頼れるのは作者たる己の腕だけ。なんと過酷な世界なのだろうと想像します。

 昨今のタイトルがやたらと長く、作品の属性を端的に表わそうとしているのも、帯やPOPがないからなのかもしれないと勝手に想像しています。小さいスマホの画面上で読者が作品を選ぶ判断基準は、ページ遷移先の惹句でもあらすじでもなく、もはや一覧に挙がっているタイトルの数十文字だけなのかもしれない。

 試しに「小説家になろう」「カクヨム」の年間総合ランキングを覗いてみると……

『一億年ボタンを連打した俺は、気付いたら最強になっていた~落第剣士の学院無双~』

『貴族転生~恵まれた生まれから最強の力を得る』

『没落予定の貴族だけど、暇だったから魔法を極めてみた』

『この勇者が俺TUEEEくせに慎重すぎる』

『転移したら山の中だった。反動で強さよりも快適さを選びました。』

『鍛冶屋ではじめる異世界スローライフ』

 まあ、見事なまでに長いうえに、異世界、異世界。貴種流離譚との相性もよさそうですね。

(貴種流離譚についてはこちらに書いたので繰り返しません)

 そして、見事なまでにタイトルがそのまま作品の類別表示になっています。情緒余韻はどこ行った。

「編集者なんて要らないから死んでしまえ」

 と言われているような気にもなってきます。
 実際、このようなタイトルだけで読者が作品を選ぶのならば、編集という資格も要らなければ実作に優れているわけでもない曖昧な媒介者など、もう要らなくなるのかもしれません。

 でもね、人間いつかは食傷を起こすことだってある。この傾向がいつまでも続くとは限りませんし、エンタメ全体の市場規模を見て、それが将来的にメインストリームを張れるかどうかは、実作者がそれぞれに検討し判断していかねばならない時代に来ているのだと思います。

 あの作品が成功したから右に倣えで似たようなタイトルをつけてみた、では、誰も見たことのない斬新なものを作れるはずもありません。クリエイティヴィティのかけらもない。先見性、新奇性があり、かつ普遍性を備えた作品をつくりたいものです。

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