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【質問箱】 不法行為や差別

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 先日、林真理子先生による直木賞の選評に、こんな話がありました。

 今回は3時間にわたる大激論となりました。

 皆さんご想像の通り、佐藤さんの「テスカトリポカ」を受賞作とするかどうかで大激論となり、時間がかかりました。あまりにも暴力シーンが多く、子どもの臓器売買という読む人にとっては嫌悪感をもたらすような内容で、直木賞という賞を与えて世に送り出してもよいものか。その是非についてさまざまな意見があがりました。

「こんな描写を文学として許してよいのか」「文学とは人に希望と喜びを与えるものではないのか」といった意見があがった一方、「描かれたことは現実世界のこと。目を背けてよいのか」との意見もありました。とても根本的で深い論争ができました。女性委員に支持する声が大きかったことも興味深いですね。希望の物語であるという見方も少なくありませんでした。

 暴力や臓器売買。
 真っ当な日本社会に生きていれば眉を顰めるような不法行為です。
 それを扱うことの「文学」なる視点からの議論は、ここでは措くこととします。そもそも直木賞は正式名を直木三十五賞といって、運営主体こそ「日本文学振興会」ですが、同法人が定める選考対象には、ひと言も「文学」なる言葉は入っていないんですよね。あくまで個人の感想ですが、直木賞の選評で「文学」を云々すること自体、私は間違っていると考えます。

 私たちエンタメの編集者も、畏れ多くも「文学」なるものに寄与しようとして本を編むことはほとんどないはずです。あるとしてもそれは副次的な産物で、主眼はエンタメなのだから「楽しませること」以外にない。

 しかし、かといって、ただ単に「面白がる」、ともすると「揶揄う」ことを目的として不法行為や差別的言動を無自覚に垂れ流してしまうことは、コンプライアンス上、とても許されることではありません。
 社によって編集者によって程度の差こそあれ、誰もがみな、差別問題などについては勉強をしているはずです。

「文学」だからあらゆる表現が許されるということも、またないでしょう。そもそもエンタメ編集としては文学なるものを過信してはいないし、神格化することも、万能視することもしません。むしろそんなものは幻想だとすら思っています。極端なことをいえば、ジャンルは違えど商業出版という形態を取る以上、一にも二にも売上が正義です。だから上半期のベストは間違いなく『推し、燃ゆ』です。食っていくとは、そういうことです。

 もし質問をくださった方が「無自覚に」不法行為や差別的言動を作品に取り入れてしまうのであれば、それは問題かもしれません。ましてやクリックひとつで即座にネットに公開される作品であれば、思わぬ形で誰かを傷つけてしまうかもしれない。そこはもう書き手個人のレベルで勉強して、直せるところは直していくしかありません。しかし質問者さんは少なからず問題意識をお持ちだからこそ悩んでおられるはずで、その意味ではまったくの「無自覚」とも思われません。本当に恐ろしいのは悩むこともせず、完全なる無自覚のもとにヘイトを垂れ流すような例。問題意識を持てるというのは大事なことですし、それだけでアドバンテージです。

 紙の出版物であれば、先述したように程度の差こそあれ、担当編集者・デスク・編集長・校閲などが複数の目でチェックしつつ、直すべきところには注文が入るはずです。
 不法行為の例でいえば、たとえばオーバードーズ。薬局に行くと、市販の薬でも「一回の購入につき一箱まで」と貼り紙されているような商品があったりしますよね。なかには、その規定量を超えて濫用すると、いわゆる麻薬のような快楽を得られるものがあるといいます。これは各メーカーが定める「用法・用量」を著しく逸脱して使用する不適切な行為で、つまり不法であるといえます。にもかかわらず、たとえば「リアリティーを担保するため」「文学的リアリティーを保つため」といった理由から、事もあろうに実在する商品名を出してオーバードーズを描いてしまったら、そりゃメーカーは怒るでしょうと。なにしろメーカーが推奨しない/むしろ禁じる用途・用法を公に紹介されてしまうわけで、模倣する読者が出てこないとも限りません。そうなるとメーカーの社会的信用にもかかわります。
 こういった場合、編集の現場では「実在する商品名を絶対に出さない」のみならず「伏せ字も許さない」「たとえ架空名としても、実在する商品が類推できてしまうような形での描写は許さない」ひいては「そもそも薬物濫用のシーン自体を削除とする」というアプローチで、トラブルを未然に防ぐべく著者と協議することになります。ときには論戦になることもありますが、ここで身を引くわけにはいきません。仮に「著者の文責において修正せずに出す」と双方合意したところで、ひとたび問題が起きてしまったら「ほれ見たことか」と著者に対して大きな顔をして他人事を決め込むことなどできないのですから。出してしまった以上は担当編集にも責任が伴いますので、相応の対処をせねばなりません。著者からはなんやかやと疎まれがちな編集ですが、これでも毎月毎月、己の首を懸けるような覚悟で吐きそうになるほど入念にチェックしているんですよ。

 また近年の現場は、とみに差別語に対して敏感です。たとえば「床屋」。なんの気なしに使われる方もいらっしゃるかもしれませんが、これじつは差別語とされています。なぜなのか、ご興味ある方はご自分でお調べになってみてください。通常は「理髪店」や「理容店」などと言い換えます。
 そもそも「屋」と呼びつける商売名は差別語とされるようで、あまり行き過ぎると言葉狩りでは? と疑問に思うこともなくはないですが、そのことを知っているのと知らないのとでは差が出てきます。
 とはいえ、いかにも昭和のおっちゃんと思しき登場人物が「きのう床屋に行ってきてよぉ、喜多さんに会ったんだけどさぁ」というようなセリフを喋ったとして、そこに目くじらを立てることに、なにほどの意味があるのか。時と場合によりけりで、大事なのは差別する意図があるかないか。作品の舞台の時代背景なども鑑みつつ、臨機応変に対処したいところです。

 現代でいえば「看護婦」は男女平等の観点から「看護師」と言い換えるべきですが、たとえば戦時中の「従軍看護婦」について歴史的事象を記述するのに「従軍看護師」とは言い換えないと思います。

 ただし戦場の悲惨さを描写するにあたって「屠場のような」といった比喩を使うのは間違いなくアウトです。なぜかご存じない方はこの機会にぜひ勉強してください。

 最近では性差別の問題で「新潮45」が休刊になる例がありました。かつてはホロコーストを否定した記事を掲載した雑誌「マルコポーロ」が廃刊となった例もあります。ユダヤ人差別の実態を知り、彼らの心情を慮れば、そりゃ黙ってはいられないでしょう。
 文章を書くというのは、下手すると媒体ひとつが吹っ飛ぶほどの多大な責任を負う行為なのです。その覚悟を持てないならば、当たり障りのない題材だけを探して書くしかない。

 もしいつかあなたに担当編集がついたなら、試しに「マルコポーロ事件って知ってる?」とでも訊いてみてください。知らない編集はモグリか、ただの勉強不足です。こいつ勉強してねーなと警戒するしかありません。頼れる編集と出会えるかどうかも運なので、ぜひ頼れる編集を見出して頼ってみてください。私? 私はまぁ……どちらかというと当たり障りのない題材を選びたがるほうですね。

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