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個人競技と団体競技

 朝起きたら、また大谷翔平選手がホームランを打っていた。31号。もはや最近は大谷選手のホームランの速報通知が日本の野球ファンのモーニングコールになりつつあるとかないとか。

 投打ともにメジャーリーグのオールスターに選出される大谷選手は、とにかく凄い。圧巻だったのは、打っては2本のホームラン、走っては盗塁からのサヨナラホームインで勝利を決めた現地時間2日の試合だ。

 野球は9人(指名打者制であれば10人)でやるスポーツ。頭ではそうわかっているはずなのに、大谷選手はまるで1人で野球をやっているかのように見える。攻守にわたって活躍し、多くの得点に絡む。まるでマンガの世界だ。

 昨日「なんにもしなくても株が上がる人」の話を書いた。

 たしかにプロの第一線で活躍する人たちは「強運」としか呼べないような巡り合わせに助けられている部分が皆無ではないと思う。大谷選手にしたって、たとえば日本ハムの栗山監督に出会って教えを受けていなければ、今日ほどの活躍は叶わなかったかもしれない。
 しかし厳しい勝負の世界、当然のことながら運だけではやっていけないこともまた事実だろう。いくら偶然の要素に恵まれていても、現場でしっかりと結果を残せなければ、存在感を発揮することはできない。決めるべきときに顔を出してビシッと決めること、それがやはり成功のための正当にして唯一の近道だ。

 翻って本づくりの現場も、改めてチームプレイが大事だと思う。著者と編集は二人三脚とよくいわれるが、二人三脚どころの話ではない。カバーのイラストレーターや写真家がいて、デザインを組む装丁家がいて、校正者がいて、監修者がいて、製紙業者がいて印刷業者がいて製本業者がいて、取次(問屋さん)がいて配送業者がいて書店員さんたちがいる。もし作品が映像化されるとなれば監督やプロデューサー以下、カメラマンやら美術やら照明やら数多くのスタッフが加わって、脚本家が台本を書き作曲家が劇伴を書き、ミュージシャンが演奏し、そして俳優が演じる。その映像を編集する手間もある。かようにとんでもなく多くの人がモノづくりに関わっているのだ。
 であればこそ、面白いモノ、売れるモノを見出し、作っていかねばならない。もちろん「面白さ」には「楽しさ」や「興味深さ」や「痛快さ」などさまざまな性質のものがあるにせよ、ある程度は大衆の感じる「面白さ」の最大公約数的なところを狙っていかねばならないのだ。

 小説の創作は孤独だし、なんでもありのフリースタイルだし、ともすると個人競技のイメージが強いかもしれない。しかし実際のところ、紙媒体で流通ルートに乗せることを目標にするならば、むしろ団体競技の側面のほうが強いのではないかと思う。

(本当に誰にも煩わされず自分のやりたいようにだけやるならば、最近ではKindle電子書籍の個人出版など、別の選択肢は増えてきた。衆目に触れる機会や売り上げや反響の多寡は別として、人によってはそちらのほうが肌に合うこともあるだろう)

 もちろん自分の信じる面白さを信じて貫くことが第一の原点ではあるが、自分流に好き勝手に書きつつも「大衆の最大公約数的な面白さの力を借りる小器用さも持ち合わせていますよ」とアピールできるほうが、書き手としては強いのではなかろうか。
 新人を対象とした登龍門たる文学賞は、喩えるなら陸上競技の五輪代表選考会ではなく、プロ野球チームの入団テストと捉えると、あるいは拓ける道があるかもしれない。個の力を遺憾なく発揮すると同時に、チームプレイにおいてこのような連携が取れますよと作品内でアピールできるほうが、きっと審査員側に好印象を持たれるはずだ。極端な遅筆だと版元は困ってしまうし、頑迷固陋の度が過ぎると編集の手助けのしようもない。具体的にどうすればいいか方策が定まっているものではないし、それは応募者各人が試行錯誤するべき課題だ。

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