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8月31日の読書感想文

※本作はフィクションです。

はじめに

 8月31日になった。
 まさか、まだ宿題の読書感想文を書き終えていない――なんてことはないよな?

 この記事は、8月31日になってもまだ読書感想文が書けていないという迷える君に向けて書いている。
 いまからでも遅くない。読書感想文を書いてみないか。
 あらかじめ断わっておくと、俺はここで「学校で満点をもらうための作文のノウハウ」を書くつもりは毛頭ない。本論は決して「まともな」執筆法ではありえない。
 たとえ短時間の付け焼き刃でも、それなりにモチベーションを保って楽しんで書けそうな「邪道の」方法論を伝授しよう。

 先日Twitterで、教育現場にいる国語教師から「読書感想文不要論」が唱えられ、賛否両論が巻き起こった。
 それくらい、いい歳した「大人」の世界でも忌み嫌われているらしい「読書感想文」だ。
 あれだけの「大人」たちが「要らない」「要らない」と嬉々として本音を露呈しまくったものを、それでも「型にハマった教科書通りに書け」と子どもたちに強要することは、俺はしたくない。
 ただ一方的に強いるだけでは、大人の勝手なエゴであり、子どもたちに対する誠意に欠けるってもんだ。
 しかし、俺は現役の編集者として、叶うならひとりでも多くの学生・生徒さんたちに読書感想文を書いてもらいたいと考えている。それも、形にとらわれず、自由奔放に、楽しく書いてほしい。あ、文章って自由に書いていいんじゃね? 意外とチョロいんじゃね? と君に気づいてもらいたい。
 そのため本論は、あくまでも邪道に徹することにする。多少ズルくても、自由に楽しく書ければそれでいい。暴論なので、俺も開き直って、かなり乱暴に書いていくつもりだ。その点、あらかじめご了承いただきたい。

書き出しはこう書け!

 学校の推薦図書だろうが、流行りの恋愛映画の原作だろうが、近代文学の名作だろうが海外文学だろうがライトノベルだろうがなんでもいいので、小説を一冊読んだらまず、机の上に原稿用紙を用意する。話はそれからだ。

 この夏休みに一冊も小説を読んでいないというのなら、さらっと読めそうなマンガっぽいカバーイラストの短編集か、星新一先生か田丸雅智先生のショートショート集を本屋で探して買ってきて、時間もないので最初に収録された作品だけを頑張って読めばいい。まともな編集者が手掛けた短編集やショートショート集ならば、その本の最初に収録された作品は、一冊のなかでも一、二を争う良い出来であるはずだ。

 原稿用紙を開いたら、タイトルはまだ、書かなくていい。タイトルは、書き終わってから考えればいいのだ。タイトルを書くスペースだけ空けておいて、学年、クラス、名前を書く。原稿用紙の使いかたは、NHKのこちらのページを見れば事足りるだろう。

 そして早速、読書感想文の本文の一行目。
 なーんにも考えず、こう書いてしまえ。

 いまだにずっとモヤモヤが残っている。

 具体的にどんな「モヤモヤ」なのかは、このあとに考えながら書けばいい。
 スタートラインはみんなだいたい同じだ。本を読んで、なんか知らないけどモヤモヤが残った。それでいい。まずは一行、なーんにも考えずに、こう書いてしまえばいい。このnoteはネット上に落ちているフリー素材みたいなものなので、見本の文章は一字一句そのままコピペしてしまって構わない。もちろん自分なりにアレンジしてもいい。

 読書感想文ってのはさ、名前の通り「感想」を書く文章なわけだ。感想とは「感じて」「想った」こと。本を読んで引き起こされた「心の動き」って言い換えることもできる。とりあえずここでは「どんな形であれ、心が動いたんだよー」っていうことを示せればいい。文字数稼ぎにもなるしな。
 だいたい「心の動き」ってのは、そうそうかんたんに、一行目からハッキリした言葉で表現しきれるものじゃない。
 大人だってそれは同じだ。心の動きを完璧に過不足なく表明できる人は、大人にもいない。にもかかわらず学校の先生たちは、言葉では表わしきれない心の動きの「モヤモヤ」ってやつを無理やり文章に書いてみろ、と要求してきているわけだ。ったく、タチ悪いよな。

 よく、決まりきった定型文のように、こう書き出す人がいる。

 私は『○○○○』という本を読んで、人間ってバカだなあ、でも愛おしいなあって思いました。

 一見、悪くないように見える。まあ、悪くはない。
 このあとに「なぜそう思ったのか」の理由が、順を追って書かれていくんだろうなあっていう予測が立つ。
 でもね、これじゃ文章の主題を規定しすぎちゃってるんだよ。「人間ってバカだと思った」「でも愛おしいと思った」というふたつの「感想」が提示されて、それ以上でもそれ以下でもなくなっちゃう。人間の感情ってもっともっと複雑怪奇であるはずなのに、いきなり答えを提示しちゃったらそこで終了じゃね? ってこと。

 しかも、定型文じゃインパクトが薄いじゃん?
 これが「読書感想文」という名目の文章であることは、君も先生も最初っから承知のことよな? 私は『○○○○』という本を読んで……なんていう書き出しは、先生にとっては「知ってるよ!」でしかないんだ。んな退屈なことを、わざわざ書く必要はない。著者名と書名は、数行あとに書いても遅くはない。

 幸いなことに、日本語には「主語を省略できる」っていう便利な機能がある。

いまだにずっとモヤモヤが残っている。

 この文章には「私は」「僕は」のような一人称の主語が入っていない。にもかかわらず「モヤモヤ」を抱えているのは「筆者」であろうことが、十中八九わかるようになっている。
 こうすると、インパクトはかんたんに増す。

 さらに付け加えると、モヤモヤが「残っ」ではなく「残っている」という言葉を使ったことで「結果の状態の継続」を表現している。つまり、ある本を読んだ「結果」に心が動いた「状態」が、感想文を書こうとしている今の今まで「継続」しているんだよ、ということを伝えられる。
「ほう、君は、それほど大きく心を動かされたんだね」
 と、先生は勝手に解釈してくれる。チョロいもんだ。
 ちょっとオーバーな表現だと思われるかもしれない。実際、本を読んでも、そこまでの感動は得られなかったかもしれない。嘘を書いているように感じるだろうか。

 でも、本を読む前の君と、本を読んだあとの君、それは100%同じ状態だといえるだろうか? まったく同じだといわれてしまったら、本づくりを仕事にしている俺にとっては悲しいことだけど、本当にそうだろうか? 本音ベースで、否定的な意見やささいな意見、ふざけた意見でも構わない、なにかしら思ったこと・感じたことはなかっただろうか。
 ほんのちょっとの心の動きでいいから、それが見つかったら、それを取っ掛かりにして、文章を進めていく。

 最初っから「こう書こう」「ああ書こう」と考えて準備して作文に取り掛からなくてもいいんだ。書きながら、段階を踏んで答えを探っていく。自分の心の動きを言葉にしながら、少しずつ解き明かそうと試みる。いわば、読書感想文を書くのは謎解きゲームと同じだ。自分の心の動きを解き明かす、極上のミステリー。謎解きゲームの過程を、ただ楽しめばいい。

 文章を書くとき、いちばん苦労するのが最初の一文だ。これをひねり出すのに全体の三割から四割、いやそれ以上の苦しみが伴うといってもいい。ゼロの状態からイチを生み出す、産みの苦しみだ。逆にいえば、書き出しさえ決まれば、あとはスイスイ書けていってしまったりする。だから、時間もないことだし、最初の一文は考える前に書いてしまおう。

大人の感想を盗む

 書き出しをバシッと決めたところで、続けてすんなり書けそうだと思ったら、もう自由に書けばよい。以下を読む必要はない。

 書き出しを決めてもなお、なにを書いてよいか判らない人は、大人がどんな感想文を書いているか見て、盗めるものがあったら盗んでみよう。
 たとえば、本読みのプロはどんなことを書いているか。

 帯文データベースというサイトがある。

 こちらは、本の帯の推薦文を集めているサイトだ。
 本の帯とは、本屋さんに行くと本の下部に巻いてある帯状の紙のこと。宣伝文句が書いてあるアレだ。もちろん、本を売るための宣伝文句であるからたいていは褒め言葉しか書いていないし、ときには誇大な表現もあるだろう。「全米が泣いた」という宣伝文句で、文字通り3.3億のアメリカ人全員が滂沱の涙を流している地獄絵図を想像するやつぁいない。

 とはいえ、これらを書いているのは基本的に「本読みのプロ」といわれる人たちだ。参考にならないはずがない。

 たとえば、文芸評論家・北上次郎氏の帯文を(もちろん最大級の敬意を表したうえで)引用させていただこう。

 いわゆる模範的な感想文

カタストロフィに向かって、どんどんエスカレートしていくのだ。父親との不和と和解、さらには切ない恋まできりりと描いて、胸に残る小説。
私たちは全員がヒーローインタビューのお立ち台に上がるわけではない。一度もお立ち台に上がることなく、人生を終えていく人は少なくない。しかしそれでも我々は、友人、知人、身内、そういう身近なところにいる人間にとっては大切な人でありたいと願っている。その真実を、本書は巧みに浮き彫りにしている。だから、胸に染みるのである。
(太字筆者)
普通の人生に、奇跡のように現れる瞬間を描いている。だから、胸に染みるのである。
(太字筆者)

 具体的な物語の内容を取り上げ「だから、心がこう動いた」と訴える。要点を的確にとらえた、お手本のような感想文だ。
 ちなみに、心情を表現するのに「比喩」という技法を用いる例もあるが、小難しい小手先のテクニックは、この際知らなくてもいい。背伸びして使っても、嘘くさくなるだけだ。

 とにかく言葉を失う型(だから、とにかく読め型)

いやはや、面白い。
それまで私が持っていた小説の概念を、この作品は明らかに超えていた。それでいて、新鮮なのだ。何なんだこれは。(略)しかしながら、どうしてこれほど新鮮なのか、なぜこんなにもヘンな話をこの作家が書くのか、大半の作品を読んでもまだ私にはわからない。乙一は私にとって、名付けようのない作家なのである。それが悔しい。
読み始めるともう絶対にやめられないのである。圧倒的にリアルで、迫力満点なのに。いやはや、すごい。
完璧な小説だ。美しい小説だ。静かで、力強い小説だ。あとは黙って読まれたい。
凄いぞ。面白いぞ。読み始めたら途中でやめることは絶対にできない。もう一気読みである。
何から何まで素晴らしい傑作だ。

 よく見たら、具体的なことはなにひとつ書いてないじゃん!
 でも、それでいいんである。本当に圧倒される素晴らしい小説を前にしたら、人間、言葉を失う。誰かに本を薦めたいというときに「あとは黙って読まれたい」――このひと言こそ、最大級の賛辞だったりするのだ。

 大人ですらそうなのだから、言葉を失って当然なのだ。
 たとえばTwitterでバズっているツイートを見ても、他人になにかを薦めるとき、大人たちは大概言葉を失って、バグってるよね?

 ポエム型(なぜか博愛主義になりがち)

人間の持つ可能性を信じたくなる。そんな奇跡の物語だ。
希望とか善意とか夢、そういう前向きなものを信じる強い力にあふれている。
私たちは全員がヒーローインタビューのお立ち台に上がるわけではない。一度もお立ち台に上がることなく、人生を終えていく人は少なくない。しかしそれでも我々は、友人、知人、身内、そういう身近なところにいる人間にとっては大切な人でありたいと願っている。その真実を、本書は巧みに浮き彫りにしている。だから、胸に染みるのである。
普通の人生に、奇跡のように現れる瞬間を描いている。だから、胸に染みるのである。

 その本を読んでいかに感動したかを伝えようとするとき、人はときどき美辞麗句を並べたがる。ポエマーになる。クサイことを言いたくなる。
 んで、その本を読んで心を改める。ありふれた日常を愛しく思い、隣人を愛し、明日への希望を抱いて生きようとする。
 でもだいたい、三日もすれば忘れる。
 そーいうもんなのだ、人間って。
 だから、

いまだにずっとモヤモヤが残っている。

 そう感じているうちに感想文を書いてしまう。それが大事だ。
 べつに、同じようにクサイ言葉を並べなくてもいい。嘘くさいなら嘘くさいと言おう。自分の言葉で書けば、それでいい。

 その他、大人の感想を参考にしたいなら「読書メーター」や「ブクログ」といったレビューサイトを覗くのもいいだろう。ただし、これらのレビューサイトは感想そのものをコピペしたくなってしまったり、誰かの書いた感想なのにあたかも自分の感想であるかのように錯覚してしまったりするおそれがある。学校の先生だってバカじゃないから、ネットから盗用された部分は不自然だと気づいてしまうはずだ。読書感想文ごときで先生に叱られるリスクを負うくらいなら、自分の言葉で書いたほうがラクだし、自分のためになるだろう。

良いと思って薦めるときは「引用RT」を書く気分で

「いまの子どもたちは読書離れが進んでいる」
 なんて大人はしたり顔でいうけれど、いまの子どもたちはむしろ活字接触率が上がっているといっていい。たとえばスマホでTwitterを見る、それだって立派な「活字への接触」だ。

 おまけに君たちは文章を書くことについて抵抗がない。
 面白いと思ったゲームとか映画とか、積極的にフォロワーに紹介したりするでしょ?

「読書感想文」というと、いかにも学校の宿題って感じがするけど、見方を変えて、一冊の本を読んで、その本に「引用リツイート」をつけるイメージだと考えればいい。Twitterだと140字までしか書けないけど、3ツイートもめいっぱい書けば、じつは400字詰め原稿用紙を埋め尽くしてしまうくらいにはなる。そういう計算で、気がつけば規定の分量だって書けてしまうはずだ。
 ためしに、君のTwitterアカウントのプロフィール画面から、自分のツイート数を確認してみ? 意外とハンパない量を書いてるから。

 読んだ作品の内容をいま一度、頭のなかで思い出しながら、その作品に引用リツイートをつけるテイでどんどん書き続けてみよう。ボキャブラリーを失ったっていいんだ。書き続けていくうちに、だんだん自分の言葉が見つかってくる。

 たとえば、こんな感じだ。

 いまだにずっとモヤモヤが残っている。
 なんかよくわからないけど、とにかくすごい作品だった。●●●●著『〇〇〇』という本だ。読み終わって「は????」ってなった。
 なんでだろう。主人公の×××の最後の行動が、予想外だったからかもしれない。普通、★★★なら◆◆◆しそうなものだ。だけど×××はそうしなかった。その解決方法は正直、予想してなかった。面白いなって思ったし、自分が実際そんな状況に置かれたら、同じように▽▽▽できるかなって思った。多分無理だ。私には思いつかない。そんなことする勇気もない。
 とくに▲▲▲な人には、読んでもらいたいと思う。読まなきゃ、この作品のすごさはわからないはずだ。

 国語の教科書には「????」なんて記号が並んだ文章は載っていないけど、この際、最初のインパクトを強調したいときには使っちゃったっていいと思う。記号で伝わるニュアンスも必ずある。

あらすじは要らない

 読書感想文でありがちなのが、冒頭からその本の「あらすじ」を書いて文章量を水増ししつつ、そこから「感想」の本題に入っていこうとするパターン。

 もちろん、それはそれで教科書的に「アリ」な手法だ。「長い文章のあらすじを要約する」というのは、国語の先生たちが君たちに、ぜひとも習得してもらいたいと希望している技能のひとつだ。
 あらすじが上手くまとまっていたら、
「感心感心、よくわかりやすくまとまっているね」
 と評価をつけたがる。

 しかし、ちょっと待ってほしい。
 さっき書いたように、大人だって、良い本を読んだときには言葉を失うんだ。
「いいから、とにかく読め! 話はそれからだ!」
 ってのが、本音だ。
 君たちも同じなはず。

 さすがに1クラス30人とか40人いるとして、彼らが読んだ本すべてを先生がひとりで読破しようとしたら、それこそ夏休みと同じくらいの時間が必要かもしれない。学校の先生は、結構な激務だと聞く。だから、その本を読まずに、君たちの感想文を採点することだって多くあるだろう。

 それはアンフェアではないけれど、完璧なフェアでもない。
 そんな先生たちにとって「よくまとまった模範的なあらすじ」というのは、ある意味で都合がいいのだ。優等生たちは、その本を読んだことのない先生たちに代わって「あらすじ」を的確に要約してみせて、
「ね? 先生、だからこの本、面白いでしょ」
 と理路整然と説明してのける。

 でもさぁ……。
「先生の代わりにあらすじを要約してやってる」って考えたら、なんだかシャクじゃね?
 もちろん最低限の「あらすじ」がないと、感想文として成立しないこともあるけど。

 あくまで目的は「感想文」なんだ。本の「紹介文」じゃない。
 だから、先生に向かっては「とにかく俺はこう感じたから、気になったら読め!」くらいの強気でぶつかっていけばいい。

 原稿穴埋めしたいときは引用でOK

 それでも最低限の「あらすじ」がないと書きにくいなと思ったら、本の帯とか、文庫の裏表紙に書いてある公式の「あらすじ」をまるまる引用してしまえばいい。それがいちばん、手っ取り早い方法だ。

 さっき紹介したNHKの「原稿用紙の使い方」のページをもう一度、見てもらいたい。

 長い引用文は、改行して行の冒頭より三マス空けて書き始め、次の行から行の冒頭を二マス空けて書きます。文全体を二字下げて書くイメージです

 とある。
 こっちのが、2マスから3マス空けて書くぶん、字数稼げるじゃん!!

 ただし、引用したときには必ず、出典を明記するのがルールだ。

●●●●著『〇〇〇』 帯のあらすじより引用

 というように、出典元を明記する必要がある。
 ほら、これでまた文字数が稼げるし、いいことづくめでしょ?

 本の帯とか裏表紙に書いてある「あらすじ」ってのは、たいていの場合、その本を出版する前に何度も何度も読んだ編集者が、これしかないっていう自信をもって短い分量に収めた「公式の要約」だ。それを流用しない手はない。そうでしょ? ラクしたいときはラクすべし。

 しかもね。不正なコピペや盗用は犯罪だからこっぴどく怒られちまうけど、ちゃーんと「引用」のルールを守って書かれたものに対しては、先生の態度は180°ガラリと変わる。むしろ、
「おっ! お前よくわかってんじゃん」
 ってなるんだ。不思議!

 もちろん、作品の中身を引用したいと思ったときも、同じように「感想文」の本文とは区別できるような形で、出典を明記する。「●●●●著『〇〇〇』132ページより引用」みたいに書いてあげると、より親切だ。

否定的な意見でもいい

 ここまで、基本的にその作品の「すごい」ところを挙げるようなポジティブな感想文の書きかたを紹介してきたけれど、もちろん否定的な意見があってもいい。

 たとえば有名な夏目漱石の『こころ』でもさ。

 いまだにずっとモヤモヤが残っている。
 いや、Kはなにも自殺までする必要なかったんじゃないか? って思った。

 って書き始めたっていいんだ。なぜそう思ったかを、思ったままに、続けて書いてみればいい。それが偽りのない君の「感想」だ。

結論は自由でいい

 さっきも書いたけど、大人だって感想文を書くときはポエマーになるし、博愛主義者になるし、「人を愛していこうと思った」「希望を忘れずにいようと思った」みたいに書く。でも実際、三日もすれば人を憎むし絶望もする。

「この本を読んで、自分も◎◎◎のように生きていこうと思った」

 なんて、所詮はキレイごとだ。

 ほんとうの、本を読んだ「感想」とは、本を読んだ直後から「モヤモヤが残っているしばらくのあいだ」にしか書けない。一冊の本から受けた感動は、ときに人生を変えることもあるけれど、たいていは忘れ去られていくものだ。今後の人生の手本として、心のなかに生き続けるなんてことは滅多にない。一冊でいいからそういう本を作れたら本望だなぁって、編集者としては思うけど。

 大事なのは、本を読んだ直後の「いま」だ。その感性こそ大事にしたいし、わざわざ遠い未来に思いを馳せる必要もない。ある意味では刹那的だし、ロックンロールなんだ。それでいい。それがいい。

 思うままに、その「モヤモヤ」を吐き出してもらいたい。

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