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【note小説感想】 編集者は二度読む

 1日遅れてしまいましたが、8月9日(日)にはサトウ・レンさんが三題噺企画に参加してくださいました。

 サトウ・レンさんの『彼女の声だけが届く』。
 これまで三題噺企画に参加してくださった方の作品では、いずれも実物のイヤホンが出てきましたが、この作品ではイヤホンが実体を持たず、仮想上の比喩として描かれています。

 心のイヤホンをつけて外界の聞きたくない声をシャットアウトするという比喩が面白いだけでなく、そのイヤホンをも突き破ってグサリと刺さってくる言葉の力が強いですね。

「昔から都合の悪い話を無視するのだけはうまいよね」
『そうやってすぐ聞こえない振りするんだね』
『あなたはずっとそうやって生きていけばいいよ』

 都合の悪い話を聞き流そうとしても、どうしても彼女の指摘は「壊れてしまった心のイヤホンから流れる」ことになる。不思議なもので、聞きたくない声ほどよく聞こえてくるのです。誰しも身に覚えがあるような、共感できる現象ではないでしょうか。

 そして、意識的にシャットアウトしている聴覚以外のモチーフで、記憶とその変遷が描かれる。コーヒーは味覚。マスコットキャラクターに似た形の入道雲は視覚。コーヒーは苦くなって甘くなってまた苦くなって、夏空に映えていた雲はどんよりと寂しく空を覆っている。お題をこんなふうに上手く使っていただいて、興味深く感じました。

 ところで、前回のnoteのコメント欄に、数理落語家の自然対数乃亭吟遊さんから、こんなコメントを頂戴しました。

作品の中の矛盾点にまですぐ指摘していただけたということは、二度以上読んでいただいたということでしょう。

 自分で書くのもなんだか変ですが、おっしゃる通りです。感想を書かせていただくnoteについては、必ず複数回、できれば時間を空けて読むようにしています。そうすることで、全編を通じた仕掛けや矛盾をなるべく読み逃さないようにしています。

 これは編集者の性だと思うのですが、たとえば仕事で作品の梗概を書いたり帯のキャッチコピーを考えたりするにしても、何度も読まずにはいられないんですよね。逆に、一度読んだだけでは不安で仕方がない。
 なにせ出版物の場合は、それが大量に印刷されて世に出回ってしまうわけですから、明らかな誤字や矛盾がそのまま出回ってしまうなど、想像するだに恐ろしい光景です。何万字と印刷される一冊の本のうちには、じつは誤字脱字や矛盾点が皆無であることのほうが珍しいのですが(私も恥ずかしいミスを何度もやらかしてきました)、それでもできる限り、瑕疵は直しておきたいものです。
 一冊の本のゲラについて、編集者は最低でも三回は通読しているはずです。初校、再校、念校。梗概やキャッチコピー、装丁を考えるにあたって都度、読み返すこともあります。しかも連載をまとめる場合には、媒体誌に載せる段階で毎回、同じ校正作業をしているわけですから、単純にその倍の回数、目を通していることになります。
(夜遅くまで仕事が終わらないわけだ……)

 もちろんサトウさんの『彼女の声だけが届く』も、二度三度と読ませていただいています。

 そのなかで、ちょっとだけ気になった箇所をふたつほど挙げてみたいと思います。

 一箇所目は冒頭です。書き出しは、情報量がゼロの状態から読み始める部分なので、過剰なくらい親切にするに越したことはありません。

「履歴書と睨めっこしている俺」という状況は、このあとに「余白だらけの履歴書から意識を逸らす」とあるので「おそらく飲食店で自分の履歴書を書こうとしている途中なのだろうな」とは判ります。しかし「睨めっこする」には「じっと見て読む」という意味もあります。つまり、最初の時点で「俺」が履歴書を吟味して選ぶ側なのかと誤解されてしまうおそれが、ゼロとはいいきれません。
 書き出しの一文が凝っていて長めなのでなおさら、この辺りは丁寧に描写したほうがいいかもしれません。
「履歴書と睨めっこしている」という動作は「俺」の修飾語として書かれているので、この文においては副次的な情報に過ぎません。
 この一文のフォーカスはむしろ、次の三つの主語と述語にあります。

1.「店員さんが」「来た」ので
2.(俺が)「謝意を伝える」と
3.「小さな靴音が」「離れていく」

 ふたつめの主語「俺が」が暗黙のうちに省略されているので、余計にややこしくなってしまいます。主格の助詞「は」で示せる主語があるなら、それが文全体の主語になるのですが、助詞「は」よりは少し弱い助詞「が」が三つ並ぶと、主語と動作がほぼ同格で三つ存在することになるので、そのぶんフォーカスも分散していきます。
 だからこそ、修飾語で処理した「履歴書」に関する動作には、どこかで早めに補足を入れたいところです。たとえば、ペンを持った手がどうなっているかを描写するだけでも、ずいぶん違うと思います。

 二箇所目は、人物名を紹介する部分でした。

「久世……? なんで?」

「あっ、やっぱり気付いてなかったんだ。久し振り。ねっ、さっきのすごかったね」

 ファミレスの制服を身に纏って、高校時代の同級生だった美咲がそこにいた。

 ここまで読めば「久世(くぜ)美咲」であると判るのですが、紛らわしいことに「久世」には「ひさよ」という読みの女性名もないわけではありません。最初「ひさよ」と誤読していて途中で引っかかる読者が出てしまってはもったいない。ルビを振れるならば解決する話ですが、残念ながらnoteの仕様では現状、ルビを振ることもできません。

 かんたんな改善策としては「地の文において初出の人物名については必ずフルネームで書く」を基本原則にしてしまうことです。つねにそう心がけておけば、紛らわしい間違いなども防ぐことができます。

 フィクションにおいて苗字と名前の印象づけって難しいんですよね。途中で苗字と名前のリンクが判らなくなって読み返したりすると、それだけで読書の流れが途切れてしまう。
 だから、人物名紹介の部分は細心の注意を払う必要があります。

 映画「007」の主人公は、決まってこう自己紹介します。

「ボンド。ジェームズ・ボンド」

 フルネームを言い直す。これをシリーズ恒例のセリフにしてしまった「007」はブランディングにおいて非常にニクいことをやっているわけです。他の作品が真似しても二番煎じになってしまうのですから。

 話が逸れてしまいましたが、書き出しの部分と人物名紹介の部分。いずれも些末な、重箱の隅をつつくような指摘に過ぎず、物語の面白さそれ自体を損なうものでは決してありません。行きがかり上、目についてしまったものは書き留めておいたほうが、いつか誰かのなにかの役に立つかもしれないと思い、書かせていただきました。

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