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【質問箱】 SNSと作品

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 ブレるので……?

 質問箱の仕様で文字数が足りなかったのかもしれませんが、とりあえず「SNSで読者と交流したり他者に関心を持つことは作家として必要なスキルか」についてお答えしたいと思います。

 ちょうどタイムリーな話題がありますね。

 前者は今回の芥川賞作家について。
 SNSの発言は残ります。遡って消したところで、どこかで誰かがキャプチャーしていないとも限らない。
 もちろん、政治問題や社会問題を語るのに、正道も邪道もありません。ここは日本です。言論の自由は保障されています(と、思いたい)。発言する人も信念と自信を持って行なっているはずで、なんら後ろ暗いところはないはずです。ツイートそれ自体には(元気な身体で刑務所に入ってほしいという露悪的な処罰感情の倫理的是非はひとまず措くとして)問題はなかろうと思います。

 こういうときよく聞くのが「作品と発言とは別」という意見。作品はそれ自体で完結しており、素晴らしい作品は素晴らしい作品として価値を認められるべきだという考えです。作品至上主義。おおむね私も賛同します。いいものはいいと認められる審美眼は持ち続けていたい。
 ところが残念なことに、大衆の全員が全員、そうだとは限りません。むしろ多くの大衆は、ひとたび誰かが特定の有名人について過去の発言の異常性を指摘すると、こぞってそれが悪だと決めてかかりたがるきらいがあります。
 そうでなくとも、人はさまざまな意見を持っています。だからこそ大別して「右」「左」の意見がある。もし作家が「左」の発言をしたなら、右側の立場にある人を「敵に回す」というのは極端にせよ、少なくとも「スタンスが異なると表明する」ことにはなるわけです。逆も然り。右と左というのはあくまで便宜上の都合で二分しただけで、実際はもっと複雑怪奇でしょう。そのなかでマスに向けて発言するということは、かなりの覚悟と責任を伴うのです。

 こういうとき「文学」という言葉を持ち出して「文学作品に罪はない」「恐れず自由に発言せずしてなにが文学か」と仰る方が少なからずおられるのは承知しています。
 しかし「文学」なるものの当事者がそう信じていたところで、一般の大多数の所感はおそらく異なります。一度「炎上」するなどして色がついてしまうと、これを戻すのは、そうそうかんたんではない。私の勝手な造語ですが「文学万能論」「文学神聖化論」などはしょせん幻想です。マスを相手に広く「出版」するというのは、良かれ悪しかれそういうことです。

 編集は見ていないようで、意外と(?)作家のSNSを見ています。このネット社会、見ようとしなくても目に入ってくるものはある。たとえ論拠を示して真っ当な意見を唱えているだけだとしても、反対意見を持つ人たちの反感を買いやすく「敵」を作りがちな作家というのは、往々にして存在するものです。そういう面で危うさを感じた作家には、商売上の打算が絡むにせよ、なるべくなら近寄らないでおきたいという選択肢が生じてきかねません。マスを相手にするというのは、残念ながらそういうことでもあります。その点において作家のSNS運用は、思いのほかデメリットが大きい。

 私自身、あまり政治的なことは呟いてきませんでしたが、オリンピックの不可解な強行開催に関してだけはさすがに目に余る部分があり、かねてより疑問を呈してきました。こうすることで私の記事の数少ない読者のうち、五輪賛成派の方々を失望させてしまう場面があったかもしれません。しかし、いわずにはおれない問題だったと自分では考えています。案の定というべきか、開催を目前にして日本が世界に向けて恥を晒し続ける事態となってしまった。

 目下その張本人、小山田氏の問題については、もう語るべくもありません。ここには書きたくないほどの愚行を自慢げに雑誌にひけらかしていたとの由。右や左の発言ならともかく、明らかに「いじめ」の名で糊塗した「傷害」であり「差別」です。五輪憲章には、いっそ清々しいくらいに真っ向から反している。

 れっきとした罪ですから、さすがにこれはもう完全にアウトです。誰の制止もかからず雑誌に載せてしまったことで版元と編集者にも当然負うべき責任がありますし、小山田氏当人のTwitterでの対応がまた、火に油を注ぐ結果となってしまいました。果ては従兄弟まで登場する始末。いかにマスに向けたSNSが難しいかが判ろうというものです。

 もちろん、プラスのマーケティング・プロモーション効果を秘めているのがSNSでもあります。上手く使えれば、メリットは大きい。日々新刊が発売され、ただでさえ減っている全体の売り上げを奪い合う熾烈な競争社会で、SNSを有効活用しなければと焦る人がおられるのも、むべなるかなと思われます。実際、私自身もSNSで知らない作家のアカウントを知って、執筆オファーを検討するために著書を読んでみたという例がなくはありません。
 ただ、SNSにおける交流スキルが作家の資質として絶対に必要なものだとは思いませんし、交流スキルの拙さが作品そのものの魅力を損なうということもないと思います。最大公約数的に多くの人たちと親しく交流できるに越したことはありませんが、反面、大きなデメリットもあることは心に留めておいたほうがいいかもしれません。

 暴論ですが、そもそも読者と交流するか否か悩むくらいなら、悩むだけもったいないので、その時間を使って作品を書いたほうがよいかと思います。不安ならアカウント自体を持たないという選択肢もありうる。
 なぜって、文章とは伝達手段であるから。このnoteで何度も主張していますが言葉はしょせん代替物、借りものであり、誰かに読んでもらって意味を伝えるためにこそ書かれるものです。つまり究極の交流ツール、コミュニケーションツールでもあるわけです。

 SNSに頼らず、まずは作品で伝える。
 それがいちばん手っ取り早い方法ではあると思います。
 その意味で、作家志望者を食いものにするような「インフルエンサー養成」を謳うSNSコンサル的な虚業はクソ喰らえだと思っていますし、執筆の時間を圧迫するぶん逆効果だとも思います。SEOだとか、初動のアクセス数がどうだとか、少なくとも公募を目指すならば気にする必要はない。

 SNSで読者の目を気にするあまり縮こまってしまっては、もしかすると書ける大作が書けないかもしれません。闊達に奔放に筆を走らせるために、SNSとの距離感のとりかたは非常に難しい問題ではないかと思います。

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