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時間の正体

時間は普遍的なものと考えられている。普遍的、つまり究極の客観性を持っていると。しかし、これに疑問を抱く。時間は、もっと主観的なものではないだろうか

時間が普遍的なものである証拠は身の回りに溢れている。例えば、等間隔に並んだ時計の目盛り。例えば、等間隔に区切られた手帳のマス。我々は時間を空間的に把握している。1日の24時間は、24個の同じ面積が並んでいると。

でも、我々は時間がもっと主観的で感覚的なことを体感的に知っている。ものすごく忙しい一日と暇でやることを探す一日、明らかに時が進む速度が違わないだろうか。他人から見たら、同じ時間分だけ働いているのに、主観的には、『え、もうこんな時間?』『あれ全然時間進んでないやん』という感覚に陥る。楽しい時間はあっという間に過ぎる、という言葉はまさにその通りである。

つまり、時間とは等しく進んでいるわけではなく、当人の意識によって、縮むことも伸びることもあるものだと思う。これを感覚時間と呼んでみる。

感覚時間は人によって変わる。その人その人の一日の感覚時間を表現した時計を作ったら面白そうだなとふと思った。

一般的なサラリーマンは8時から12時、13時から19時までが忙しいので、その時間の目盛りの幅が狭い。1日で一番目盛りの幅が広いのは、満員電車の通勤時間だろう。通常の3倍くらいに時間が流れるのが遅いかもしれない。飲食店のスタッフは11時から14時、17時から22時が繁盛時間のため、目盛りの幅が狭めだ。

また、人によって時計の大きさも変わる。超多忙なビジネスマンは感覚時間が常に小さすぎて、目盛りの幅がすべて狭い。結果的に米粒ほどの時計になってしまう。退職して、やることもなく、ただ時を過ぎるのを見ている老人は、時計がLLサイズのピザぐらい大きい。寝ている時間だけは、目盛りが狭いかもしれない。

そんな時計を皆が首から下げていたら、どうだろうか。時計が小さい人がお金持ちだろうか。大きい人が幸せだろうか。月並みだが、私の思いは、熱中できるものがあり、すごす目盛りが狭い部分もあるが、一日の1/4くらいは時間が過ぎるのを楽しめる、広い目盛りがある時計でありたい。

時間に追われてはいけない。だって、時間は自分の中にあるのだから。目の前に集中していれば、いつか時間を追い越せるはずだ。

そんなことを考えていたら、岐阜から栃木まで4時間の移動が終わりました。どうやら僕は時間を追い越せたようです。ではまた。

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