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【雑記】犬と暮らせば心配してもらえると思っていた

私は共感が好きな人間だと思う。

なにか美味しいものを食べて「あ、これおいしい」と呟いた時に、一緒にいる相手から「おいしいね」と返してもらえると嬉しくなる。

共感というか、「受け取り」なのかもしれない。「あなたの気持ちを受け取りましたよ」と言ってもらえるのが好きなのかも。

自分が誰かと接する時にも、なるだけ「受け取る」を大事にしたいと思ってる。

会話に一生懸命だったりするとつい疎かになってしまいがちなんだけど、人との対話において、「あなたの言葉を受け取ってるよ」という姿勢を見せ合うのは、言葉以上に大切かもしれないと思ったりする。

一緒に暮らしている犬とも、そんな関係が築けると思っていた。


先週39度の高熱が出て、三日間うなされた。
喉が痛くて咳も酷くて這うようにしか動けなくて(結局コロナだった)
ひとまず犬のご飯を皿に盛り(いつもより贅沢なやつ)
水を満タンに入れ、トイレシートを綺麗にして、ひたすら床に伏した。

床に伏せるつもりだった。
にもかかわらず、人間が床に伏そうとしている間、犬はずっと飛び跳ねていた。

人間が咳き込む様子が面白いようで、布団に飛び乗りグルグル回る。マスクをもぎ取り鼻に噛みつく。ピアスを引きちぎろうとする(ボディピアスなのでそう簡単には外れない)手をかじり、遊べという。

犬は飼い主の体調不良を心配してくれるんじゃないですか!?無償の愛をくれ!心配してくれよ!

一緒に暮らす人間がこんなにつらそうにしているのに、気にも留めない犬に裏切られたような気持ちで少し悲しい。

なんでもかんでも生育歴に繋げたがるのは
私の面倒な部分でもあり、愛せる部分(自分で自分を!)でもあるけれど、我が家は「共感」や「相手の言葉を受け取ること」に乏しい家庭だったと思う。

幼少期の喜怒哀楽は母親によって人質に取られていたような気さえする。もちろん、母としては精一杯育ててくれただろうとは思うけれど、子ども心には納得できない気持ちはどうしてもある。

そんなこともあり、自分にとって「受け取る」はとても大事な作業なのだ。信頼関係を築くためには、双方で、意識して、時には努力をして意図的に「受け取り合う」ことが大事だとも思っている。

(そして、人間とそういった関係を築くのは今の自分にとってはとても億劫だとも思っている)
(なので、他人と深い関係を築くのは嫌なんだ)
(嫌?嫌っていうか、面倒なだけ。一体何を恐れているんだろう、は?恐れてねーし!そもそもさぁ…)

みたいな事を、高熱にうなされながら考えた。考えるとどんどん悲しい気持ちになってくるので、途中でやめた。

犬よ、もっと心配してくれよ、そのキュルンとした瞳で少しくらい「大丈夫?」っていう顔をしてくれたっていいじゃないか。

気を取り直して、寝込みながらも思ったのは
まだ一度も体調を崩したこともない子犬にとって、病は未知だということ。おそらく犬には死の恐怖もないんだろう。人間はいつでも遊んでくれると信じているんだろう。普段は椅子に座って何やらしている人間が、床を這うようにしてゼエゼエいっているなんて、スペシャルイベントでしかないんだろう。

どんなにピンチの時でも楽しんでくれるなんて、一緒に暮らす相棒として、なんと心強い存在だろうか。

つらい時に「つらいよね、大丈夫?」と受け止めてくれなくても「そのゲホゲホッてなに?楽しそう!」と飛びついてきたとしても
犬の瞳の中には自分という人間がいて、その人間に何かを精一杯感じてくれているんだ、と思うと、この子がこうしていてくれて、本当にありがてぇなぁという気持ちだ。

子犬は来月で生後九か月になる。

毎日、あっという間に進化していく。今まではアイコンタクトが取れなかったのに、最近はよく目を見てくれるようになった。話しかけると首を傾げながら、人間の言葉を聞こうとしてくれる。

散歩に出かけて隣を歩いていると、たまに目が合う時がある。そんな時の犬は「楽しいね!」と言っているような顔をしている。

なんだ、こんなにも私たちは受け取りあっているんだな。

としみじみ感じた。ありがてぇなぁ。

高熱の人間の頭を掘り、耳をかじる子犬


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