じつはハリウッドに住んでいました
時間を持て余してるので記事にします。
今となっては自分でも驚くこと。タイトル通り。当時は「できることを夢中でしていただけ」だったが、周りは「すごい」というのが理解できなかった。20年近く経って40半ばを過ぎた今、自分でも「すごかった」「信じられない」と思う。
経緯を書く。
私は中学時代に旧友によって「歌モノの音楽」に目覚めた。というのは、それ以前は非常に内向的で、聴く音楽といえば「ゲームのBGMをカセットテープに録音するもの」だけであった。学校では「勉強の得意なxx君」で有名なガリ勉だった。生まれて初めて買ったCDは「ソーサリアン」というゲームのサントラだ。
対して、2つ上の姉が居たのだが、あちらは真反対の性格で、本当のワルではないが、いわゆる不良ぽい友人ばかり居て、勉強嫌いである。私の友人らが姉を見ると「きれいだ」「付き合いたい」というし、若い頃の姉の写真を見ると、身内ながらそう言われるのも納得する感じであり、姉には常に男が居た。
その姉の部屋からは、たぶんブルーハーツとかだったと思うが、当時の私からすると「やかましい不良の音楽」が聴こえてきて、じゃまくさいなあ、と思っていた。(今ではブルーハーツは好きだ)
アスペルガー症候群なので細かく書きすぎる。もうちょい略したい。
普通の少年がそうするのとは真反対に、私は暗く、勉強とゲーム以外に興味の無い引きこもり少年だった。周りは恋愛などしていたが、そいつらをバカだと思っていたし、ファッションとかも愚か者がすることだと思っていた。そんな自分がバカだった。
私には「情報に対する主体性」が無い。受け身なのだ。幼稚園くらいから付き合いのある友人が、ある時、きゅうに謎のカセットテープを貸してくれるようになり、ちょうどステレオラジカセを入手したので聴くようになった。
それがまた特殊な趣味で、「エックス」「有頂天」「BUCK-TICK」など濃いものばかりだった。特にXについては、耳が慣れておらず「なにこれ」って感じだったが、勉強の合間に流していたら、いつの間にか「え、これ案外メロディがいいな」と認識できるようになり、そのうち熱烈なファンになっていた。
今でいう「陰キャ」が急にヘヴィメタルやヴィジュアル系に目覚めたのだ。以降、友人に次を貸してくれ、と頼むようになって、どんどん聴くレパートリーが増えた。おまけにギターに興味を持ってしまい、学力は落ちた。
アスペというのは基本的に学力特化した脳で、運動神経やその他が非常に不器用なことが多い。正直、私はふつうの人より音楽能力に劣っていたと思う。楽器の聴き分けとかも全く無理。
ただし幸い、親が強制して小学校でピアノを習っていた結果、相対音感はあった。だいたいの楽曲がドレミで聞こえる。それだけは感謝している。
高校は進学校に入ったのだが「ギター部」(軽音楽部)に入ることにした。当時ギタリストが多いので、やむなくベースを買った。よりによってXのベースは異常に難しいのだが、Xのコピバンを始めたのだった。
私はリズム感が異常に悪い。運動神経に関係していると思うが、多人数の縄跳びに飛び込むと引っかかる。手拍子しながら歌を歌うとズレる。ダンスもできない。跳び箱などもだめだ。歌も下手だ。音程もリズムも何もかも。
しかし、当時カラオケブームなどがあり、歌も好きになった。高校あたりだと、ほかにB'zなどによくハマった。あとは洋楽とくにXに関係しそうな速くてメロディックな「ジャーマンメタル」とか「ブリティッシュハードロック」にのめり込んだ。
生まれて初めて見た洋楽のライブは「Blind Guardian」かもしれない。ドイツのメタルで、背が高く、長髪を振り乱し、凄まじい爆音と演奏力で大興奮した。
敵対?するバンドのクラスメイトが好きな「ガンズ」を避けてたのを今は悔いている。今ではアクセル・ローズは「最も影響を受けたシンガーの一人」だ。
高校のバンドでは、正直、かなり足を引っ張ったと思う。学校外ではXコピバンでサブギターをしていたが、下手だった。相方は中学生なのに「プロと同じような音」を出すので衝撃を受けた覚えがある。彼は非常に厭なやつだったが、実力は確かだった。
大学に入って懲りずに軽音楽部に入った。ジャンル的に浮いていたものの、けっこう頑張った。幸い、メンバーに恵まれ、特にギターボーカルの男が多才で、彼から学ぶことが多かった。ただ、常に彼と比較して惨めになっていた。小柄な私に比べ、背格好も見栄えがし、才能豊かな男で、地元で賞を取ったりしていた。
軽音楽部では「ステージに立つ」という経験をたくさんさせてもらい、それは後の自信に繋がったので、今は良い方にとらえている。先のバンドと別に、自分がメインボーカルのバンドを組んだものの、常に不人気でつらかった。
そちらでは、メンバーに勧められた「ザ・イエローモンキー」に熱中した。それまで邦楽を馬鹿にするような歪んだ音楽観を持っていたのだが、歌詞世界の面白さに夢中になった。彼らのライブには何度も通っている。
その頃まで、受動的な私は「親が決めたレールに沿って、いい学校を出る」ことしか目的がなかった。まさか自分でバンドを持つとは思ってもみなかった。
卒業後、社会人になっても、いわゆるブラック企業で、正社員を1年で辞め、以降は派遣社員ばかりしていた。まだ20代だったので、自分の生き方がまるで分からなかった。
が、そのうち、楽器店でメンバー募集を見て、連絡を取り、いわゆるインディバンドを組むこととなった。前後するが、それ以前にMIという音楽学校にも1年通った。これはハリウッドに本校があり、ロックでは世界的に有名な学校だ。
アスペというのは「自分のやり方にこだわる」という悪癖があるように思う。それまで、音楽を習うのは「自分に力が無いようでイヤだ」と思い込んでいた。しかし考えてみたら、上手な人はわりと若いうちに基礎を習っていることが多い。
ともかく、MI日本校では、理論と実践の両方でヴォーカリストの基礎を学んだ。それなりに成長したと思うし、元来、負けず嫌いの私は相当に努力した。よく「努力する才能」とかいうが、それを持っていたらしく、苦手なことは克服するまで諦めない精神があったと思う。
話を戻し、2000-2001年くらいまで、インディバンドをしていた。他のメンバーもなかなかに個性的で、アマチュアにしては面白いことをしていたと思う。最初はコピーをしていたが、私が作詞、私とギタリストが作曲するようになり、オリジナルを中心に活動した。
私は名古屋の人間だが、あとの3名は岐阜方面だったので、あちらに通って、岐阜や一宮(名古屋郊外)でよくライブをした。野外公園の無料ライブなどでは、気づいたら人だかりができたこともある。
また、名古屋で有名なELLというライブハウスに出させてもらい、初回は比較的好評で「レギュラーバンドの前座をしてみないか」とお誘いまで頂いた。しかし前座は緊張したのか、ライブハウスの人にボロクソ言われて皆が凹んだ。
それをきっかけにメンバーと私とで「温度差」が生まれ、解散となった。私にプロ志向があったからだ。結果、私だけ脱退し、あと3名は別のバンドで活動していた。
先に「思いもよらなかった」と書いたが、自分が派手な格好をし、作詞作曲し、人前で歌うような人間になるとは本当に予想外だった。そして自分は「それを極めたい」と思ってしまった。
もともと海外生活にも興味があり、日本校を卒業したところの「MI」という学校の、本校=ハリウッド校、に行ってみたいと考えた。これは、英語力を伸ばしたり、海外経験による人間的成長、そして音楽的成長を期待してのことだった。
「現状」を書くと情けないが、1年ほどその学校に通った結果、挫折して帰国、のちに転落人生を送ることになる。「過去の自分がすごかった」と書いているのは、いまの惨めな生活とは正反対に「生き生きとしていた」からだ。
「それまでの私」は本当に、今の自分からするとえらいもので、「やると決めたら必ず実現する人間」だった。
アメリカ留学、学校や資金について調査し、1年でお金を貯めて、働きながら英語を復習し(もともと学校成績は良かったが、仕事の昼休みに単語帳で勉強)とにかく頑張った。仕事も忙しいものだったが、計画した数百万を貯金した。少し足りないので、「国の教育ローン」というのも利用している。
留学に関する手続きも、業者などを一切利用せず、経費節減と「勉強になる」という二重の意味で、ぜんぶ自力で行った。資料請求、現地への電話や下見、航空券の手配、ビザ取得など。いま思えばすごいバイタリティだ。
すでにインターネットはあったものの、SNSだのgoogleマップだのスマホだのが存在しない時代なので、当時にしてはよくやったと思う。
性格的にビビりなので、「1週間だけ下見に行ってみて、ダメかどうか見極めよう」と、仕事の連休中に生まれて初めてアメリカに行ってきた。とにかくお金をケチったので、ユースホステルだかに泊まったりして、本当にビビり倒したが、いちおう何とかなった。
一応書いておくと、アメリカには拳銃があるし、私は小柄で気が弱く、かなり恐ろしかった。一方でクソ度胸みたいなものも持っていたので実現できたのだ。
ハリウッドは治安の良い街ではない。いちおう観光地なのでそれなりに気をつけてはいるものの、バス停には普通にドラッグディーラーが居る。拳銃を隠し持った者も居る。留学中に驚いたのは「日本の男子学生が男にレイプされた」という話があった。これは夜間に油断して学校の裏口でたむろしていてやられたそうだ。
すこし後悔しているのは、英語力だ。大学までの英語の成績がよかったとはいえ、発音やリスニングは正直苦手だった。これは英会話スクールか家庭教師をつければよかった。というのは、英語がもっと自由であれば、学べたであろうことが格段に広がっていたと思うからだ。
とはいえ、私は入学手続きや、ビザ取得、さらには、留学中に身内が亡くなったので一時帰国したり、学校に対する苦情とか、そういったことは、拙い英語ながら「自分の意図を100%伝える」ことはできた。そのことで話が通じなくて苦労したことは一度もない。
同期で数名の日本人学生も居たのだが、彼らは私より英語が苦手らしく、講師とのやりとりで英語支援したこともある。
もう一点、悔いているのは、自動車を現地で購入しなかったことだ。これはアスペで面倒がりなので、現地の免許証を取る勉強がどうにも億劫で、受験しなかったのと、ケチすぎて迷ったからだ。幸い、クリスチャンであり、現地の教会関係者によく送迎して頂いたので、感謝しきれない思いがする。
ただ、人にお世話になったのと、自分で自由に動いていたら、また違っていたかもしれない。あるいは、事件や事故の可能性もあったのでどちらが良かったか。
Musicians Institute Hollywood で検索してもらうと分かるが、学校はハリウッドブールバードという、観光地の大通りのど真ん中にある。
今では信じがたいが、当時は「日本人学生同士のコネ」があり、下見の際「来年卒業する子の後でルームシェアが開くからそこに入ったらいいよ」みたいな話で、住むところを決めた。口約束だ。ルームシェアも初体験で、なかなか苦労があったが、ここは割愛する。
学校生活だが、まず海外で嬉しかったのは「英語が下手というハンディがあっても、それまでのバンド経験は活きる」ということだった。私は技術的な歌唱力が低いほうだが、少なくとも表現力には自信がある。
ある歌を日本語で歌って、生徒たちに感想をきくという授業があったが「言葉は分からなかったけれど、序盤ではこういう感情、サビではこういう気持ち、というのはしっかり伝わってきた。あなたはすごい」と言われて本当に嬉しかった。
あるいは、ステージで知らない生徒と即興バンドを組んで、決まった楽曲をライブ演奏する、という授業がある。ガンズの「Welcome to the Jungle」を歌ったときのことだ。同じく英語は下手だが、ライブということで、めちゃくちゃ暴れ回って喝采を得た。
後の別の授業で、たまたまそれを見ていたらしき見知らぬ学生が、私をふと見かけ「先生、あのちっさいジャパニーズ・ガイをこないだステージで見たけど、あいつは本当にロックしてやがったぜ!」という感想を述べてくれ感激した。
受ける講義によってメンバーも違うのだが、ボーカル専攻なので、ずっと顔を合わせるクラスメイトみたいな人たちも居た。どうしても英語がハンディになり、先生にこっぴどく指摘されたことがあったが、クラスメイトが「先生、そんなこと言うけど、あいつは練習室で、同じ歌を何百回と練習していた努力家だ。言葉の壁があっても、発音が多少おかしくても紛れもない立派なヤツだぜ」とフォローしてくれたりもした。
この学校は、ロック畑では有名で、Mr.Bigのポール・ギルバートが関係している。世界中から本気でプロを目指すいろんな学生が来るのだが、とにかく、細かい努力や、外国人ゆえの苦労なども本当によく見てくれ、認めてくれた。
ボーカル専攻のいちばん偉い先生が講師で、私は彼に「君は『パフォーマー』としては既にプロフェショナルだ。しかし『ヴォーカリスト』としてはそうではない」と指摘された。これは技術面が劣るということと、ハッパを掛ける意味もあったが、直後にクラスメイトが「先生はああ言ってるけど、あたしはあんたをすごいやつだと思ってるわ」と励ましてくれた。
…そんなわけで、書いていると懐かしくなってきたが、「言葉や国籍は関係なく努力や実力を認めてもらえる」体験が多く、本当にいい経験をした。
ただし、残念ながら、通学の後半頃から、私は情緒不安定になり、学校も休みがちになり、予想より落ち込んできた。理想のイメージでは「現地でバンドを組んで活躍する」ことを想像していたが、コミュ力が低く(英語力というより消極的な性格)それができない自分に苛立ち始めた。
予定では、1年間は学校、そのあと、なんとかグループを組んでバイトでもしながら音楽活動をしたかったが、ちょうど1年間で「これ以上は無理だ」と思い、志半ばにして帰国することにした。
帰国後、「全生涯を掛けて音楽をし、失敗したら死ぬ」という覚悟を持っていたのだが、資金の半分である教育ローンが残り、派遣社員としてまた働きながら空虚に暮らしていた。
思い込みが激しいため、「挫折した」という面にばかり目を向け、しらぬうちにギャンブル依存になった。資金が残っていたのを、返済しつつ、ギャンブルに使う日々となった。幸い、ローンは全返済したものの、虚しさだけ残った。
帰国後しばらくは「遊びで歌うのもイヤだ」と思うようになり、カラオケさえ行かなかった。現実逃避し、ギャンブルに明け暮れていた。
ローンがあったので、仕事には行っていたのだが、あるとき、夜中についに「やらかして」しまった。というのは「失敗したら死ぬしかない」と思い込んでいたのを、無意識に実行したらしかった。
意識がプツンと飛んでから、体が動かず、目がグルグル回っているので「あれ?死んで地獄に堕ちたのかしら?」と思っていた。そのうち人の声がするので妙だと思い、視界の回転も緩まってきたら「あ、救急車の中だ」とわかった。薬をODし、首吊を図ったらしい。体は拘束されていて動けなかったようだ。
それで人生初の「精神科」に掛かり、その日はすぐ帰された。しかし、それ以降、失業し、行き場がないのでやはりあちこちのパチンコ屋に通い続けていた。いま思えば本当に錯乱していた。かなり遠方までドライブして金を浪費していたと思う。
生活しなければならないので、また就職したりもしたが、長続きせず、あるとき「精神科の通院」を勧められた。それに従い、通院するようになった。今のように「発達障害」というものがまだ認知されておらず「アダルトチルドレン」というものだと言われ、自助グループなどに通った。
だんだん性格が荒んできて、怒りっぽくなった。(自助グループで、自責する性格の原因が「抑圧されたことへの怒り」だと認識した結果だ)
また、いろんな向精神薬を濫用するようになり、結果論だが、却って悪化し、今では廃人のようになってしまった。通院中、経済面で困るという話をしたら、障害者手帳だとか、年金の話をしてくれ、手帳を取得したり、年金が通った。
その後、薬物依存になった自覚があり、断薬をして死にかけたり、いろいろな苦しい戦いをした。就労も幾度かしているが、だんだん「自分は社会に適合できないんじゃないか」という自覚が強くなって、気力がでなくなった。
また、2016年頃だか、たまたま市の「ガン検診」を受けたところ、大腸がんが発覚した。転移はなかったが、ステージ3、当時40才ということで、患部を切る手術を受けた。それ自体はスムーズだったが、予後が悪く、とんでもない目にあった。
というのは「ガン部分を含め前後10cmの大腸を切って、つなげる(ショートカット)」ということをしたのだが、再接続部分から「液漏れ」してしまい、腹膜炎になって院内で死にかけたのだ。あそこで死ねたらよかったと本気で思うことがあるが、緊急再手術を受けた。
初回は「腹腔鏡手術」といって、わりと小さな傷で済むものだったが、二回目は大きな開腹手術で、腹腔内に流れ出た消化不良の食物を「洗浄」したりと、大掛かりなものだった。結果、術後不良で腸が癒着し、今では常に腹が痛い。
人工肛門にならないだけマシだったかもしれんが、けっこう甚大な後遺症があり、もはや普通に通勤できる体ではなくなってしまった。腹痛だけでなく、加齢も相まって、長時間、机に向かうことができないのだ。
幸い、というか、親が寛大?ではあるので、実家暮らしをさせてもらっており、先に述べた「障害者年金」で、ギリギリの暮らしはしているが、親が居なくなってからどうなるかも分からない。
まあ「やりたいことはやった」感があるので、この人生をどう評価するかは死んでみないと分からないが、自分としては「ガンになったこと」「あまつさえ、二度も同じ箇所を切って、後遺症が残ったこと」が精神的に堪えている。
「身体障害者」の認定は受けていないものの、ふだんは半分くらい寝たきりで、何をするにも体力がないので、ストレスが貯まるとメンタルの薬を濫用してしまう。就活も何度か試みたものの、今の身体でできる仕事が見当たらない。(元々はシステム開発の仕事をしていたが、とにかく長時間、働いてほしいという案件ばかりで、スキルはあるものの体力がついていかない)
そんなわけで、何をするにも自己嫌悪、イヤになると薬を濫用して逃げる、という「廃人」になってしまった。
ただ、こんな自分が昔は「輝いていて、ハリウッドに住んでいたことがある」ということを、ふと思い出し、アピールしてみたくなったので書かせてもらった。過去の栄光にすがる、というのも廃人の特徴みたいなものだろう。
私は自他に異常に厳しい環境で育ったので、今もって「失敗者」である自分を許すことができていないと思う。ただ、こうして書いてみると、「当時はあんた、よくやったもんだよ」と褒めてやるのもいいかもしれない。。。
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